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机の置き時計の時刻を一日分だけ巻き戻し、私はため息をついた。部屋の外からはリビングでくつろぐ家族の会話が聞こえてくる。置き時計のカレンダー窓には八月二五日と表示されていた。いくら時計を巻き戻そうと、いずれ二学期はやってきて、そして文化祭当日がやってくる。逆らいようのない事実を目の前にすると、胃のあたりが強く圧迫されるような感覚を覚える。湿気のように身体にまとわりつく焦燥感を振り払うには音楽のことを、演奏のことを考えるしかなかった。それが楽しいことであるかどうかは別にして。
私は左右分離型のワイヤレスイヤホンを手に取り、片一方を口の中に入れる。目をつぶり、唾液と一緒にそれを無理やり飲み込む。イヤホンの角が喉の内側をこすり、えづきそうになる。私は口を抑えながら、壁の照明スイッチに手を伸ばし、明かりを消した。そのまま手探りでベッドの上に腰掛け、厚手の毛布で自分の身体を包み込む。真っ暗の部屋の中で私は息を押し殺した。耳を澄ますとリビングに居る家族の談笑に混じって、蛇口から水が滴り落ちる音が聞こえてくる。私はその態勢のまま深呼吸をし、イヤホンと接続しているウォークマンの再生ボタンを押した。胃の中で文化祭で披露する演奏曲が流れ始める。アップテンポな前奏が始まり、私の身体の中が騒がしくなる。
一つ一つの音符が胃壁にあたっては跳ね返り、吐き気がこみ上げてくる。私は唇を噛み締め、目をつぶりじっと音楽に身を委ねた。ギターと歌声の後ろに隠れているベースの音を、音楽全体の息遣いを私は私自身に刻み込んでいく。サビのパートに入ると音楽は一層激しさを増し、刺々しい音が私を内側から情け容赦無く傷つけていく。しとねちゃんの演奏についていくにはこの練習方法しかない。私は私にそう言い聞かせながら、頭を揺さぶらているような気持ち悪さに耐え続ける。それでも音楽は鳴り止まない。痛みと吐き気で耳鳴りがする。胃が金切り声をあげる。毛布にくるまっているにもかかわらず、寒気で身体が身震いを始める。しとねちゃんの顔が思い浮かぶ。しとねちゃんは器用にギターを引きながら、ニコリと微笑み、「私も一年の時、そうやって真由美ちゃんに口説かれたもん」と無邪気につぶやく。
もうダメかもしれない。しかし、私がウォークマンの停止ボタンに手を伸ばしたそのタイミングで、音楽の再生が終わった。
毛布を脱ぎ捨て、部屋の照明をつける。吐き気はまだ少しだけ残っている。あれほど寒気を感じていたのに、背中に気持ち悪い汗をかいている。疲れ切った私はそのままベッドに倒れ込み、携帯へと手を伸ばした。真由美ちゃんから「好きだよ」というメッセージが届いていた。私は「本当に?」とメッセージを打ち込んだ後、それを削除し、「私も好きだよ」というメッセージを送信した。