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「何回言ったらわかるの!?」


 しとねちゃんの叫び声で私たちの演奏がストップする。音楽室の壁や床は、朱色に近い色に染まっている。しとねちゃんは忌々しげに床にできた溜まりに足で踏みつける。細かい飛沫が飛び散り、細かい斑点模様が床にできる。


「こんなんじゃ全然ダメ! こんなの音楽でも何でもない! ただそれぞれが好き勝手に譜面通り弾いてて、それが偶然タイミングが合っているだけじゃん!」


 しとねちゃんの瞳はベルベッド色に燃え上がり、射抜くような熱気を放っていた。もう一回やろうと私が提案したが、しとねちゃんは「みんながきちんと理解しないと、何べんやったって同じ」と吐き捨てた。ユリカちゃんが私の後ろでくしゃみをする。その衝撃でちょうど外の廊下を通りがかっていた生徒の左手薬指の爪が剥がれ、野球部の部室からボールが一個消えてなくなった。


「だったらどうしたらいいの?」


 私はしとねちゃんに尋ねた。


「どうしたもこうしたも、あんたたち二人が理解できないのが悪いんでしょ」


 しとねちゃんが毒づく。私は援護を求めて後ろを振り返る。ユリカちゃんはいつものように私たちの会話には無関心で、夏の恋に浮かされた蠅を捕まえようと手で空をつかんでいた。


「理解してって……。ちゃんと言葉で説明してくれなきゃわかんないじゃん」


 私がそう言い返すと、しとねちゃんは音量を上げて言い返してくる。


「言葉で説明できるもんじゃない!」

「なにそれ! わからないよ!」


 自分でも驚くくらいの声量で叫ぶ。言葉の最後らへんは涙声になっていて、私はその涙を指先でそって拭ってあげた。私はしとねちゃんをじっと見つめた。しとねちゃんはというと、少しだけ落ち着き払った態度に戻っていいた。


「ねえ、しおり。私が表現したいことはそもそも言葉なんかで説明できるもんじゃないの。言葉で理路整然と説明できるなら、私は音楽なんてやらないで、ブログでエッセイでも書いて満足してる。自分でも無理難題を言っているのはわかってるの。でもね、どんなに頑張っても、どうしてもうまく説明できないの。本当にごめん」


 悪いのはしとねちゃんだった。あと、ユリカちゃんも。決して私に落ち度があるわけではなかった。それでも何だか私が悪いような気がするのはきっと、一番もどかしい思いをしているのがしとねちゃんだということを知っているからだった。


 険悪な雰囲気が音楽室に漂う。ユリカちゃんが椅子から立ち上がり、音楽室の外へと出ていく。しとねちゃんも私と二人っきりになるのが気まずくなったのか、ユリカちゃんの後を追って外に出ていった。音楽室に一人残された私はワンフレーズだけベースをかき鳴らした後、ストラップを肩から外し、楽器を机の置いた。窓の外へと視線を移す。さっきまで青く澄んでいた空はしとねちゃんの気持ちを反映して、少しだけ色褪せてしまっていた。私のことはそこまで気にかけてくれないくせに。私は悪態をつきながらいつものように音楽室に掛けられている時計を外し、一日分時計の針を巻き戻す。


「あの、すみません」


 音楽室の扉が開き、ユニフォームを来た野球部員が姿を現した。


「あの、野球部のボールが一個なくなったんですけど、知りませんか?」

「ごめん、何も知らない」

「そうですか……」


 一年生と思しき野球部員はあごに手をやり、深刻そうな表情を浮かべながら考え込んだ。その顔を見ていると、私自身には何の落ち度もないのに、なぜか妙な罪悪感が湧いてくる。


「あの……本当に知りませんか?」


 私がもう一度知らないと答えると、野球部員は軽く頭を下げ、ようやく音楽室から立ち去っていった。そしてそれと入れ替わりにしとねちゃんとユリカちゃんが音楽室に戻ってくる。ユリカちゃんがしとねちゃんの腰あたりを小突き、しとねちゃんが苦虫を噛み潰したような表情で私につぶやく。


「ごめん、さっきは感情的になって。もう一回やろ」


 しとねちゃんの声はさっきよりも低く、暗かった。いいよ。私はできるだけ自然な笑顔を取り繕いながらしとねちゃんを許してあげた。しとねちゃんの考えていること、伝えようとしている世界は私にはわからない。それでも、しとねちゃんが何とかそれを伝えようとしていることはわかったし、それができずにももがき苦しんでいることも知っていた。私はそうしているときのしとねちゃんがどうしようもなく大好きだった。だからこそ私はしとねちゃんと一緒にいるし、ちょっとだけしとねちゃんのことを羨ましいと思ってしまう。


 私はベースを手に取り、じゃらんとベースのコードをかき鳴らす。しかし、アンプから私の音が色のついた液体として飛び出すことはない。私はしとねちゃんの横顔を見つめた。苛立ちが治まり、穏やかなひなげし色の瞳はじっと窓の外を見据えていた。しとねちゃんの視線の先を追ったが、そこにはアイスクリームのような入道雲があるだけで、特段変わったものはない。


ねえ、何を見ているの?


私はそう言いかけてぐっと言葉を飲み込んだ。きっと満足な答えが返ってくることはないことに気が付いたから。


「わかり合えないまま愛し合うことは難しいけど、わかり合うことは愛し合うことよりも難しいんだってさ」


 私は代わりに真由美ちゃんの言葉をつぶやいた。しとねちゃんが私の方を振り返る。誰の言葉? しとねちゃんの質問に私は真由美ちゃんの言葉だと答える。


「だろうと思った」


 しとねちゃんは私の不安をおちょくるような微笑を浮かべ、ギターをじゃらんとかき鳴らした。スピーカーから勢いよくピンク色の液体が飛び出し、私の足元を濡らす。その色は先ほどよりもずっとピンクピンクしていて、美しかった。


「私も一年の時、そうやって真由美ちゃんに口説かれたもん」

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