4
私達は次の日から、文化祭で演奏する曲の選択作業に移った。私達軽音楽部に割り当てられている時間は五十分。今現在の持ち歌に加えて、数曲の新曲を候補としてしとねちゃんが提案した。スマホに小型のスピーカーを接続し、私とエリカちゃんのために曲を流してくれる。水筒のような形をしたスピーカーの側面から激しくも、どこかおどけたロックミュージックが流れ出す。スウェーデンでは有名なロックバンドなの。机の上に足を組んだ状態で座ったしとねちゃんが、ギターのチューニングをしながらそう言った。私とユリカちゃんに曲の感想を聞いてくる。私もユリカちゃんも素敵な曲だと口をそろえて褒めちぎる。私はそもそもしとねちゃんの判断に全幅の信頼を置いているし、ユリカちゃんに至っては主体性を母親の子宮の中に置いてきてしまっていた。だからいつも、こうやってしとねちゃんの決めたように物事が進んでいく。
「ねえ、本当に世界が滅びるの?」
自分のベースケースから取り出しながら、改めてしとねちゃんに確認した。しとねちゃんは教卓の上に並べた複数の楽譜から目を上げ、私の目を見た。その目は活気に満ちた夏とは対照的な、深く落ち着いたすみれ色だった。
「何度も言ってるじゃん。私たちがこうやって、部室でダラダラしている間にも、世界の崩壊は進んでるんだよ? 試しに、ちょっと触ってみたら?」
本当かな。私はしとねちゃんに促されるまま、右手の人差し指で世界の端っこの方を押してみる。指先に力を入れれば入れるほど、指先と接する部分がゆっくりとへこんでいった。私は慌てて指を離す。へこみの部分はすぐには戻らず、ゆっくりと時間をかけて元の形に戻っていった。それでも私が触った部分には少しだけ痣のような黒い痕が残ってしまっていた。
「前に触った時と全然違う。それに……」
私は右手の人差し指の先をくんくんと臭ってみる。
「なんか、変な匂いがする」
「それだけ世界が終わりに近づいているってこと」
しとねちゃんがじゃらんとギターをかきながらしながら言った。しとねちゃんの言葉に私は黙ってうなづいた。「ほら、練習練習」としとねちゃんが私たちを急かす。私はいつもよりもずっときびきびした動作でベースを取り出し、コードをアンプにつなぐ。目の前には縦四列、横三列に並べられた椅子と机。真向かいの壁の上には名だたる音楽家の肖像画。バッハ、モーツァルト、滝廉太郎。ドビュッシーの肖像画は一か月前に私たちがぶち破ったまま放置されている。私たちが立っている場所は、机が置かれている床より一段だけ高い。最後尾のユリカちゃんの真後ろにはヤマハのグランドピアノが置いてある。ギターアンプとベースアンプは私としとねちゃんのそれぞれの真横にセッティングされていた。
しとねちゃんがGコードをかき鳴らす。エレキギターからアンプへと電子信号が伝わり、アンプのスピーカー部分からピンク色の液体が吐き出される。色はこの前よりは若干、薄め。しかし、この前のコンディションが特別よかっただけで、ピンク色だとはっきりと判別できるだけでも、調子はいい方だ。とりあえず私たちは、演奏なれしているビートルズの曲で肩慣らしをし、指と身体を暖めていく。一、二曲を簡単に演奏し、床一面がすっかりピンク色になるころには、私たちの身体は興奮で熱を帯びていた。
今日のしとねちゃんはどことなくご機嫌だった。演奏内容もよし。喉の調子もよし。このままもう一曲だけやろうかと誘いかけ、私達もそれに同意する。しかし、しとねちゃんは前奏を奏でたところでいったんストップをかけ、首を可愛らしく傾げた。自分のギターを何回か弾き、音を確認し、次に私とユリカちゃんに、先ほど弾いた部分を演奏してみるように言った。最初に私がその部分を弾き始めた瞬間、しとねちゃんがちょっと待って、と制止する。
「もう一度、さっきのフレーズだけ弾いて。なんか音が変じゃない?」
私は言われたとおりベースの弦をかき鳴らす。すると、確かにいつもと違う音が出ているような気がした。チューニングを丁寧にやった後、もう一回同じフレーズを弾いてみたが、やっぱりどこか違和感がある。音程が外れていると言うより、ベースではない違う楽器の音が出ているような感じだった。私は弦部分を裏側からバンッと一回だけ強く叩いてみる。すると、弦の糸と糸の間から、一本のボルトが勢いよく飛び出し、窓を突き破ってはるか遠くの空へと消えていってしまった。割られた窓ガラスから夏らしい湿気を帯びた熱気が教室に入り込んでくる。しとねちゃんと私はそのボルトを見送った後、お互いに顔を見合わせた。試しにもう一度コードを引いてみたが、ボルトが一本分飛んで逃げてしまったせいで、支離滅裂な音しかならなかった。
「もうこうなったら駄目だね。残念だけど、使い物にならない」
壊れてしまったものは仕方がない。スペアもあるが、本番では二つのベースを使うかもしれないので、本番までに新しいのを買わないといけない。私はため息をつく。楽器との突然のお別れに、私の高ぶっていた気持ちが一気に冷めていく。
「ユリカちゃん、ちょっとだけいい?」
私はベースを持ったままユリカちゃんへと歩み寄る。いつものようにお願い。私がそのようにお願いすると、ユリカちゃんは私の方へと身体を向け、ちょうど胸のあたりの高さまで頭を下げてくれた。ユリカちゃんの頭の位置を微調整した後、私はベースネックを両手でぐっと握り締める。そして、私はユリカちゃんの頭をめがけ、思いっきりベース本体を振り下ろした。バキッと鈍い音を立て、愛用のベースはユリカちゃんの頭で真っ二つに割れた。細かい木片があたりに散らばる。大きいかけらの一つがちょうどドラムのシンバルに直撃し、間の抜けた音が室内に反響する。ユリカちゃんが髪の毛についた小さいほこりや破片を手で払う。そして、何も言わずにその場にしゃがみ込み、床に散らばったベースの破片を一つ一つ手で拾い、一つ一つ口の中に入れていく。私は窓を開け、廃棄物となったベースを三階の窓から運動場へ向かって放り投げる。下の方で野球部たちの歓声が聞こえた。下を見ると、私が投げ捨てたベースに群がる野球部員の姿が見えた。競い合うように群がり、一番体格のいい部員が価値誇ったような雄叫びをあげる。こうして廃棄された楽器は練習をしている野球部の貴重な栄養分となり、甲子園を目指して練習をするための活力となる。この世界はうまくできている。私は彼らの姿を眺めながらぼんやりとそんなことを考えた。
「詩織。左手」
しとねちゃんに言われて、自分の左手を確認する。手の甲の表面に切り傷ができていて、一本の赤い血の線が指先へと伸びていた。ハンカチで血の跡を拭ったが、しばらくするとじわりと傷口から血が噴き出してくる。見た目以上に深い傷だった。ベースを割った時か、放り投げた時に、ささくれた部分が刺さってしまったのかもしれない。
「真由美ちゃんのところに行ってくる」
しとねちゃんは眉をひそめた。
「今日は土曜日だけど、真由美ちゃん来てるの?」
「基本的に土日は学校に来ないけど、私が保健室に来る日には学校に来てるんだって」
「そうなんだ」
練習を抜けるのは申し訳なかったけれど、このまま傷をほったらかしにしたまま練習するわけにもいかない。私はすぐ戻るからと二人に告げ、保健室へと向かった。