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私は周囲を見渡す。そこは先ほど私が逃げ出した講堂のステージだった。アンプにつなげられたベースを軽く指先ではじくと、確かにスピーカーから電子音が飛び出す。しとねちゃんはすでにギターのネックに手をかけ、私のスタートを待っていた。私は後ろを振り返る。ドラムの向こうには王様のようにどっしりと腰かけたユリカちゃんがいた。ユリカちゃんのドラム音が響く。しとねちゃんは私に茶目っ気たっぷりの微笑みを投げかけ、コードを押さえながら聴衆の方へとへと振り返った。


 みんなが一斉にわめきたてる。ドラムのソロ部分が終わり、私としとねちゃんのギターとベースの音が覆いかぶさるように鳴り響く。スピーカーからこれまでとは比較にならないほどの量の液体が飛び散り、半分は地上に降り注ぎ、半分は空中で霧や雲になり、天井に付けられた照明さえをもピンク色に染め始める。ペットボトル、罵声、歓声、クラスメイト、いろんなものが宙に舞い、ピンク色に同化していく。床も壁もステージ上も、私の足もスカートのすそも、目の前で歌うしとねちゃんも、すべてが一つの色に収斂していく。私は先ほどの間でのもやもやを振り払うように、ただひたすらにベースにかき鳴らした。低い音の振動がピックを通して身体全体に伝わる。しとねちゃんの歌声が、スピーカーと目の前にいる本人の両方向から私の耳に突き刺さる。鼓動を合わせるように私の内臓が上下左右に振動する。


 私はピンク色に染まっていった。細胞レベルで、ゲノムレベルで。先ほどのしとねちゃんの言葉が音楽に混ざって、私の頭に何度も再生される。その言葉の意味を完璧に理解したわけじゃない。しとねちゃんの言うことだから正しいとしても、その言葉が私の今までの迷いや葛藤を魔法みたいに消してくれたわけでもない。それでも私の中で何かが吹っ切れる音がした。そして、少なくとも今の私にとって、それさえあればもう十分だった。


 私は真由美ちゃんがいる方向へと視線を向けた。しかし、そこに真由美ちゃんの姿はなかった。端から端へと視線を動かしても、真由美ちゃんの姿は見つからない。真由美ちゃんは消えてなくなってしまった。その事実を突きつけられ、恐怖のあまり足が震えだす。でも、ここで泣きたくはなかった。今、私は世界の存亡をかけた演奏をしている。しかし、それよりも何よりも、真由美ちゃんが消えたことそれ自体は、どうしようもないほどに私が決めたことだったから。


 ピンク色の飛沫が上がる。ピンク一色の虹がかかる。私はしとねちゃんの方を見つめる。しとねちゃんも私の方を見る。偶然と偶然が重なりあって、その一瞬の奇跡に私たちは微笑み合った。後ろにいるユリカちゃんはどうしているか知らないけれど、もしかしたら両目を別々の方向に動かして、私としとねちゃんの両方を見ているのかもしれない。


 曲のサビに差し掛かる。観客席からこれまでで一番でかい怒号とざわめきが沸き上がる。ピンク色の人々はすでにそれぞれの個としての肉体を捨て、ピンク色の液体となって、飛び跳ねたり、お互いにお互いを抱きしめあっていた。閉ざされていたステージの扉が内側から開かれる。ピンク色の液体と空気が講堂の外へ、ひいては世界へと広がっていく。高校の校舎を染め、運動場を染め、校門を出て、青信号を渡る。空に登り、電離層に到達し、ピンク一色のオーロラとなる。私が瞬きする度に、世界はここを中心にピンク色に染まっていった。ステージ上にいる私にもそれを感じることができた。この町が日本が、世界ががピンク色に染まっていく。数え切れないほどの色彩の上を、しとねちゃんの音楽がピンク色に覆いかぶせていく。私は置いて行かれないように、必死に食らいついた。ピックを握る指の感覚はとっくになくなり、もう身体全体でベースを奏でていた。スピーカーだけでなく、楽器自体からもピンク色の液体が噴き出し、私の手はびちょびちょになっている。ユリカちゃんのドラム音が私の背中を突き刺し、しとねちゃんの歌声が私の耳を聞こえなくさせる。


 講堂の建物自体が構造を変化し、四隅が徐々に消えてなくなり、どんどん丸みを帯びていく、私たちが立つステージにも傾斜が付き始め、ぬかるみと相まって、気が抜けば転んでしまいそうになる。一段下の観客席はすでにあちこちが沈下し、くぼみには人型をしたピンク色の塊が溜まり、そこでもなお音楽に合わせて、小刻みな振動が繰り広げられていた。みんなが音楽になっていた。世界が一つの楽器になり、たった一つの色になっていた。私は足に力を入れる。転ぶわけにはいかない。視界はもう見えない。楽器ももう見えない。感覚だけを頼りに私たちは楽器を奏でている。電子音が私たちを奏でていた。


 すべてが、世界が、たった一つの桃色でピンクなピーチになった。その瞬間。しとねちゃんのギターの音が鳴りやんだ。気が付くと、私の手も止まっていたし、ユリカちゃんのドラム音も消えていた。ただ観客の興奮だけがなおも音になって世界全体にとどろいていた。しとねちゃんが私たちの方を振り返る。しとねちゃんの顔もピンク色に塗りたくられていた。けれど、表情が笑っているのだけはわかった。そして、それさえわかれば十分だった。私もしとねちゃんに微笑み返す。きっと私の顔もピンク色に染まっていてぐちゃぐちゃになっているのだろう。そう考えると無性におかしくて、私は声に出して笑ってしまう。観客の拍手が構内に響き合わたる中、私たちの目の前を繻子のカーテンがゆっくりゆっくりと降りていった。


 こうして、私たちのライブは大成功に終わり、そして次の日、世界は滅びた。

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