表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

18

 通せん坊をする実行委員を蹴散らし、講堂と校舎をつなぐ渡り廊下を走り抜け、私は校舎の中へと逃げ込んだ。文化祭に訪れている一般客と呼び込みをしている在校生は廊下を駆け抜ける私を驚きの目で見つめ、そしてすぐに何事もなかったかのように先程の続きを行う。私はそんな周囲の目にいたたまれなくなり、顔を下に向けながら走った。しかし、私の視線の先にある木目調の廊下も私の場違いな行動に呆れたような表情を浮かべていた。


 私の足は無意識のうちに、私の、私たちの居場所である三階の音楽室へと向かっていた。階段をのぼり、がたつく扉を開け、転がるようにして音楽室の中へと入る。制服の汚れや乱れた髪もそのままに、私は椅子を使って、壁にかけられた掛け時計を手を伸ばす。私は長針の右側に人差し指を置き、そのまま反時計回りに針を巻き戻そうとした。しかし、どんなに力を込めても、長針は鋲で固定されたみたいに少しも動いてくれやしなかった。指だけでなく、右手、それが無理なら両手で針を巻き戻そうとしてみる。それでも針は巻き戻ってくれない。私は苛立たし気に時計の側面をグーで殴りつける。掛け時計はけたけたと人を馬鹿にするような笑い声をあげた後、四角いカレンダー枠の部分から私の顔面めがけて唾を吐きかけた。そのつばは、ユリカちゃんの歯垢と同じ、緑色で粘着性の液体だった。


 私は椅子から降り、力なくその場に座りこむ。自分でもそどうしたらいいのかわからなかった。私は自分の手へと視線をやる。楽器の練習でマメだらけになった私の手のひらは、砂利道のようにでこぼこしていて、正直見ていて楽しいものではなかった。一度、しとねちゃんの指先をじっくりと見せてもらった事がある。しとねちゃんも私と同じだけ、あるいはそれ以上に練習しているにもかかわらず、しとねちゃんの手のひらは陶器のように滑らかで綺麗だった。この美しくない手は、練習の証だと言えるのかもしれない。捻くれた見方をすれば、元々あっていない自分の手を楽器が演奏できるように無理やり矯正したものでもあるのかもしれない。私は胸が苦しくなった。どこにいっても、何をしても、私は何かを失うし、苦しまなければならないような気がした。


「ここにいたんだ」


 私が顔を上げると、そこにはしとねちゃんが立っていた。下半分をピンク色に染めながら、しとねちゃんはじっと私を見下ろしていた。興奮と疲れでしとねちゃんの瞳はバーミリオン色だった。私は改めて色がころころと変化するしとねちゃんの瞳を観察した。教室の照明を反射して瞬く瞳の奥には、何色にもなれない私のみっともない姿が写っていた。


「いいよね、しとねちゃんは。そんなに……そんなに堂々としていられてさ」


 しとねちゃんが眉をひそめ、困った表情を浮かべる。困らせるつもりでいったのに、本当に困られるとどうしても心持が悪かった。私はしとねちゃんの瞳をもう一度覗き込む。しとねちゃんの瞳は鏡に変化していて、その中に、顔と髪をぐちゃぐちゃにした私の姿が映っていた。それでも、それは私だった。好きとか嫌いとかというそれ以前に、そこに映っていたのは私自身だった。


「しおりがどんな風に想像しているのかは知らないけど、多分しおりが思っているほど立派なものでもないし、楽しいものでもないよ」


 しとねちゃんがため息混じりにつぶやく。しとねちゃんの言うことはわかっていた。理解していた。それでも胸にこべりつく嫉妬は抑えようがなかった。それが自分の義務であるかのように、しとねちゃんは言葉を続ける。


「でも、そろそろ詩織も決断しなきゃいけないのかもね」


 私は自分の左腕へと視線を向ける。白い手首の上には赤い動脈と青い静脈の二本の血管が皮膚を突き破って露わになっていて、規則的な不穏な電子音を鳴らしていた。しとねちゃんが私にペンチを渡してくる。私はもう一度自分の腕に現れた赤と青の二本の血管を観察した。脈打つ血管の中を私の血液が流れているのがわかる。しとねちゃんが私に決断を促す。どちらかをこの手で断ち切らなければならない。失うことへの恐怖から、ペンチを握りしめる力が抜けていく。


「私にはできない。しとねちゃんが代わりに決めて」

「詩織の頼みでもそれはできないの」


 しとねちゃんはそっと私の右手をなでる。


「ありのままの詩織でいいよ、なんて言葉をかけてあげられるほどの器じゃないけどさ。それでも、詩織が決めたことはできる限り尊重したいと思ってる。私の大事な友だちとして」


 私はゆっくりとペンチの口を開き、左腕に近づけていく。赤い動脈、青い動脈。きっと正解はない。自分の力でそれを正解にしなければならない。私はペンチで片方の血管を優しく挟む。私は大きく息を吸う。唇を噛みしめる。数を数える。三。ニ。一。私は右手に力を入れる。その瞬間。元々繋がっていた一本の血管が離れ離れになる嫌な感触が、私の右腕を駆け抜けた。


 私は顔をあげる。左腕にはまだ麻酔をかけられた後のようなしびれがあったけれど、私は無理やり笑顔を浮かべてみせた。それは私の精一杯の強がりだった。


「ステージに戻ろう」


 しとねちゃんは優しく私に微笑みかける。そのまましとねちゃんは椅子に登り、壁にかけられた時計へと手を伸ばした。時計を外し、私の方をちらりと一瞥する。そしてしとねちゃんはゆっくりと、時計の針を逆方向へと巻き戻した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ