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 講堂には沢山の人間がいた。紺のブレザーを羽織った在学生、彼らの兄弟姉妹、あるいは他校から遊びに来ている高校生たち。エトセトラ。講堂は彼らの熱気とガンガンにたかれた暖房で温められ、一瞬夏かと錯覚するほどに暑かった。私はさっと全体を見渡した。クラスメイトや知り合いの姿を見つけることはできたが、喧嘩別れしたままの真由美ちゃんの姿はなかった。私はそのことに少しだけ安心する。それがちょっぴり卑怯だと思いつつ。


 しとねちゃんの咳払いが聞こえる。咳払いはマイクに拾われ、スピーカーからピンク色の液体となって、ステージ前方に立っていた女子生徒数人の頭にふりかかる。頭に液体をかぶった彼女らがキャーと歓声をあげた。私がちらりと音の色を目で確認すると、目がちかちかするほどのハイライトなピンク色だった。今まで見たことのないほどの明るい色。しとねちゃんの調子はこれ以上ないほど絶好調だということがわかる。私の背筋が緊張でピンと伸びる。それと同時にしとねちゃん私達の後ろにいるユリカちゃんの方を振り返った。それは演奏開始の合図だった。すぐさまユリカちゃんがスティックとスティックでぶつける音が聞こえてくる。スリー、ツー、ワン……。


 しとねちゃんのギターとユリカちゃんのドラムと私のベースが、同じタイミング同じ音量同じ色で、床にたたきつけられた小麦粉のように四方へと飛び散った。ステージ横の両側に設置されたスピーカーから大量のピンク飛沫が噴き出す。前方に押し掛けている人はもちろん、窓際に立っている見物客の姿がピンク色に染まる。ピンク色の液体が弾幕のように私たちの視界を遮る。飛沫は勢いよく飛び散り、跳ね返り、ステージの上にいる私たちの足元にも届くほど。


しとねちゃんのアップテンポのギター捌きに合わせて、ユリカちゃんのリズミカルなドラミングが暴れまわる。液体の飛散量が著しく増加し、床にできていた水たまりに幾多もの波紋が浮かんでは消えていく。観客はお互いにへし合い押し合い、曲などお構いなしにキャーキャー叫びまわる。濡れた床で滑る人。ピンク色に染まろうと床に這いつくばり転げまわる人。しとねちゃんの歌が始まると、聴衆のボルテージはさらに上昇する。すでに前方にいたひとたちは全身がピンク色に染め上がり、ここから見ると床との境目がわからなくなる。


私は二人の演奏に負けないようにと、必死にベースの弦をかき鳴らした。ピックの振動が私に伝わり、指の感覚がなくなっていくように感じた。私がピックを振動させているのではなく、ピックが私を振動させていた。ぐっと全身に力を込めないと、私の身体がそのままどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。それでも私は必死に食らいつく。もっともっと激しく。もっともっと鮮やかに。その瞬間、しとねちゃんの歌声が止まる。最初の曲が終わった。


 ベースから手を離し、私は右手を握ったり開いたりして、緊張で強張った指先をほぐす。右前に佇むしとねちゃんに目を向けると、しとねちゃんの身体は興奮で火照っていた。目を凝らせば白い湯気がしとねちゃんの頭上に立ち上っているのが見える。気持ちを落ち着かせるように深呼吸したのち、しとねちゃんは顔を右から左へとゆっくりと動かし、講堂に入っている観客を端から端まで見渡した。


「くそったれどもが」


 しとねちゃんがそう吐き捨てると、観客は一斉に沸き上がった。人の形をしたピンク色の塊が飛んだり跳ねたり、私達の名前を叫んだりしていた。私も同じように、しとねちゃんの名前を叫びそうになるのをぐっとこらえる。観客に負けず劣らず私の気分も高揚していた。


 しかし、そんなことを悠長に考えている暇はなかった。しとねちゃんは軽音楽部の紹介を簡単に済ませ、二曲目のタイトルを宣言した。しとねちゃんが私とユリカちゃんがいる方へと顔を向ける。私としとねちゃんの目があう。しとねちゃんの瞳は透き通るような薄紫色だった。私の胸がきゅんとする。だけど、私は、ベースの弦を確認する振りをして、しとねちゃんから目をそらした。


 ユリカちゃんがドラムをたたく。油断していた私に代わって、私の指がベースをかき鳴らし始める。私は慌てて曲の流れに戻る。二曲目は何度も何度も、胃の中が炎症するくらいに繰り返した曲。それなのに、自分のピック捌きは今までで一番目できの悪いものだった。なんとか本来の指さばきに戻ろうとすればするほど空回りしてしまう。焦る気持ちがさらに指先をもたつかせてしまう。しとねちゃんは首筋にうっすらと汗をかきながら歌を叫んでいた。私はしとねちゃんの神々しさに一瞬目をやられる。しとねちゃんがまるで遠くに行ってしまおうとしているかのように感じられた。曲を奏でている最中だというのに、そんな雑念が私の音楽と混じりあいながら頭の中で暴れまわる。


  アップテンポな電子音が、ピンク色の液体となって私の足元まで届いてきた。講堂はもう壁一面がピンク色に染められていた。普段は何の変化も起こらないはずのボーカルマイクも、しとねちゃんの生の歌声に浴び、雪のようにうっすらとピンク色の液体に覆われていた。ちらりと後ろを振り返る。ユリカちゃんは髪を振り乱しながらドラムを打ち鳴らしている。スティックも制服も髪の毛も、全部が全部鮮やかなピンク色だった。講堂が私たちの音楽で、その言葉通り一つになっていた。そして、その中で私だけが音楽に乗り切れずにいた。私は自分の制服へと一瞬だけ視線を向ける。二人と比べて、私はそれほどピンク色に染まりきっていなかった。


 激しい音楽と鮮やかな色彩の中で、私はひとりぼっちだった。

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