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 私の質問と同時にすべての音が鳴り止んだ。


先ほどまでかすかに聞こえていた雑草がこすれ合う音も、河のせせらぎも、そして私たちの呼吸の音も。陸上から水中に潜り込んだみたいに、すべてを遮断しようと両手で耳をふさいだみたいに。すべての音が息をあわせて動きをとめた。私が咳ばらいをする。ただ喉に乾ききった痛みが生じるだけで、音は一切聞こえない。


 世界がしとねちゃんの返事に耳を澄ましていた。息をひそめ、耳をそばだて、しとねちゃんが発する言葉を一単語も漏らさないようにと身を乗り出していた。しかし、しとねちゃんは何も言おうとしなかった。代わりに缶コーヒーに口をつける。しかし、中身は入っていない。なんとなくそんな気がした。


「わからないの」


 しとねちゃんの返事はそれだけだった。しとねちゃんは缶コーヒーを川に向かってぶん投げた。缶コーヒーは無音のまま河川敷を転がり、河岸ギリギリのところで静止する。すぐさま気を利かせた河岸が身体全体を起き上がらせ、傾斜になった地面を缶コーヒーが転がっていく。空き缶はそのまま真っ黒な川の中へと消えていった。ぽちゃりという音一つしないまま。


「みんな大嫌い」


 私はしとねちゃんの横顔を見つめ、次の言葉を待った。しかし、そこでしとねちゃんは言葉を止めた。それはきっと、そのまま話し続けたら、泣き出してしまうからなんだろうと思った。私はじっとしとねちゃんの言葉をかみしめた。しとねちゃんがそのように言うことは理解できたし、そのように言うだけの資格があることも知っていた。だからこそ、私はしとねちゃんのことをずるいと思った。しとねちゃんがゆっくりと私のほうを振り向く。私達の後ろに立っている街灯に照らされ、しとねちゃんの顔の左半分だけが白昼色になっていた。それでもしとねちゃんの瞳は、街灯の光に負けないほどの珊瑚色の光を放っていた。


「ねぇ、しおり」


 世界がなおも静寂を貫く中、しとねちゃんは私の目を見つめながら言った。


「ぎゅっとして」


 しとねちゃんが私の身体によりかかってくる。私はごわごわしたダッフルコート越しに肩を抱き寄せ、自分の顔と右肩の間にしとねちゃんの顔をうずめた。左手をしとねちゃんの腰に回し、右手は頭に。冷気を含んだ風が吹き抜ける土手で、私たちは生まれたての子犬のように身を寄せ合った。糸のように細い髪をなでるたびに、柑橘系の香りがはじけ飛び、息を吸うたびに自分の中にしとねちゃんの一部が私の中に入りこんでくるような気がした。


 私は私の顔をしとねちゃんの顔に密着させた。私の鼻先が、ちょうどしとねちゃんの小さな右耳に触れる。しとねちゃんの右耳はうっすらと空色に発光していた。私はその右耳をじっと観察した。迷路のようなくぼみには所々に宝石が散らばっていて、耳たぶの薄い産毛の一本一本にしとねちゃんの過去が垢のようにからまっていた。私はしとねちゃんの髪をかきあげ、耳を露わにさせる。私はどうしようもなくそれが欲しくなって、気が付けばしとねちゃんの耳たぶの端を私は口でくわえていた。しとねちゃんは何も言わなかった。


私はさらに口を動かし、前歯の間にしとねちゃんの耳たぶを挟んだ。しとねちゃんの匂いが耳たぶを通じて、口の中一杯に広がっていく。私はゆっくりとゆっくりと時間をかけて、顎に力を入れていく。最初は無反応だったしとねちゃんは次第に「痛い痛い」と叫び出し、私の背中をバンバンとたたき出した。しかし、もう止めることはできなかった。私はあらん限りの力をこめ、しとねちゃんの耳たぶを噛みちぎる。しとねちゃんはばっと身体を起き上がらせ、戸惑いと驚きの表情で私をじっと見つめてきた。


 私たちは何も言わずに見つめあった。私の口の中にはしとねちゃんの耳たぶのかけらが残り、しとねちゃんの右耳は鼠に噛み千切られたみたいに端っこがかけていた。ふいに、しとねちゃんの右目が潤み始め、そこから一滴の涙のしずくが頬を伝って流れた。そのしずくはコートの端に滴り、光を放ち、新しい冬の大三角形の一つとして夜空で熱く輝き出す。


しとねちゃんはせき止められていた何かが壊れたみたいに激しく泣き始めた。私を強く抱きしめながら、しとねちゃんはみっともなく嗚咽した。しとねちゃんは今まで見たことがないくらいに激しく鳴き、そして叫んだ。私も同じように泣き、叫ぼうとしたが、それはできなかった。それはうっかり口の中にあるしとねちゃんの耳たぶを飲み込んでしまうのが怖かったからなのか、それとも違う理由からなのかはわからなかった。


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