13
今から会えないかとしとねちゃんから連絡があったのは、八時をちょうど回った頃だった。いいよ、もちろん。私はしとねちゃんに返事を返すと、マスタード色のPコートを部屋着の上に羽織り、自転車のカギを持って外へと飛び出した。
すっかり暗くなった闇夜を自転車の小さなライトを頼りに突っ走る。暦の上では十月だが、季節はすっかり冬だった。いくら時計の針を戻してカレンダーをごまかしたとしても、地球の自転だけはどうしようもない。吐く息は砂糖のように白く、防寒具などおかまいなしに、刺すような冷気が私の身体と指先を凍えあがらせる。
河川敷の鉄橋近く、そこにしとねちゃんは立っていた。えんじ色のジャージの上から栗色のダッフルコートを羽織り、大きめのポケットに手を突っ込みながら、寒さに身体を縮こませていた。自転車をこぐ私の姿を見つけると、強張った笑みを私に向ける。自転車のライトを反射してきらめく彼女の瞳の色は、寒気を跳ね返すほど熱いチェリーレッドだった。
「わざわざ出迎えてくれなくていいのに」
私は自転車から降り、しとねちゃんに近づいた。そばによってはじめて、唇の端が切れ、そこが赤黒く腫れているのに気がついた。
「また?」
しとねちゃんが小さくうなづく。私は右手で自転車を押さえながら、手袋を外し、かじかむ左手でしとねちゃんの唇に触れた。私はゆっくりと傷口に向かって指先を動かしていく。しとねちゃんの唇は渇ききっていて、時々、水分を失ったささくれに指がつっかえた。端にできた傷口は、そこだけ燃えるように熱かった。指先で触れた部分から、うっすらと湯気らしき灰白色の煙が黒い空に向かって上っていく。私としとねちゃんはそのままの体勢で煙をじっと目で追いかけた。頭上の高さまでいくと湯気は黒い闇の中に吸い込まれるように消え、後には焦げ付いた臭いだけが残った。
「なんかあったかいものでも飲もっか」
近くのコンビニで私は紅茶を、しとねちゃんは缶コーヒーを買い、店の前に自転車を置いたまま、河川敷まで歩いて戻った。私たちは土手と河川敷をつなぐ階段に横に並んで腰かける。寒さのせいか、向こう岸にちらほらと帰宅中の会社員の姿を見えるだけで、人影は少なく、辺りは静かだった。
私は温かいペットボトルを両手でくるんだ。かじかんだ手の内側で痛いくらいに熱さを感じる。しとねちゃんは缶コーヒーのふたを開け、喉に流し込む。私がふと夜空を見上げると、澄んだ冬の空気の向こう側に、ぽつぽつと瞬く星が浮かび上がってくる。しとねちゃんも同じように空を見上げ、そっと南東へ腕を伸ばし、冬の大三角形を指さした。私がしとねちゃんが指さす方向へと目を向けると、確かにそこには他の星よりも明るく輝く三つの星が見えた。シリウス。プロキオン。ペテルギウス。私はしとねちゃんのつぶやきを繰り返す。
私はじっと教えられた三つの星を見つめ続けた。しばらくすると、一番下のシリウスと左上のプロキオンがゆっくりとペテルギウスが輝く方向へと近づいていき、三つの星が一か所に固まった。三つの星の間で激しい口論が始まり、シリウスとプロキオンが、二人がかりでペテルギウスを殴り始める。そこには慈愛のかけらもなく、二人はぼこぼこになるまでペテルギウスを殴り続け、とうとう、ペテルギウスは絶望と恥辱に耐えかね首をつって自殺した。残された二つの星は互いに顔を合わせる。少しだけ罪悪感を感じているような表情を浮かべた後、「まあ、しょうがないさ。こういうものだろう?」とうなづきあい、それぞれが自分たちの元々の立ち位置へと戻っていった。先ほどまでペテルギウスが輝いていた場所には、そこだけぽっかりと穴が空いたような黒い点が残されただけだった。
「来週だね」
私はしとねちゃんの方を振り向いた。しとねちゃんは相変わらず夜空を見上げたままだった。しとねちゃんの口の隙間から白い吐息がこぼれている。目を凝らしてじっと観察していると、白い吐息の中に少しだけ桃色がかった部分が見えるような気がした。
「ねえ、前から聞きたかったんだけどさ」
「何?」
しとねちゃんは私の方を見ることもせず返事をした。腰掛けているコンクリートでできた階段の表面を爪先で削りながら私は言葉を続けた。
「しとねちゃんは本当に世界を救いたいって思ってるの?」