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 逃げ込むように保健室の中に転がり込んできた私を見て、真由美ちゃんはビー玉みたいに目を丸くした。


「そんなに慌てて、一体どうしたの?」


 オフホワイトのブラウスの上に、ベージュ色のカーディガンを着たいつもの真由美ちゃんを見て、私は安堵のあまり泣きそうになった。真由美先生は机のうえに広げていたファイルを閉じ、優しくそばにあった丸椅子に腰かけるように促してくれた。私は呼吸を落ち着かせながら、椅子の上に座る。


「ねえ真由美ちゃん、何でもいいから助けて。クラスメイトも私もみんな。誰もが、自分の好き勝手にやって、誰も他の人のことなんて見ていない。さっきだって、佐伯さんがベロをプロペラみたいに回して飛んでいってしまったのに、誰もそのことに気が付いていないんだよ?」


 掠れた声で、嗚咽混じりに言葉を吐き出した。もっと詳しく説明しなくちゃという気持ちが私のお腹あたりでぐるぐると渦を巻いて暴れまわっていた。それでも私はそれ以上何も言うことができなかった。真由美ちゃんはただじっと耳を傾け、私の目を覗き込む。その状態でしばらく私が話し出すのを待ってくれていたが、私がそれ以上何も言えないでいることを察すると、優しく包み込むような表情を浮かべてこう言った。


「山中さんは疲れてるのよ」

「疲れている? 私が?」


 あまりに残酷な言葉に私は自分の耳を疑った。私は真由美ちゃんが冗談を言っているだけだと信じて、もう一度尋ねた。しかし、真由美ちゃんの答えは変わらなかった。


「そう、山中さんは疲れてるだけ。だって、そもそもそんなものでしょ? 今まで当たり前のことにうんざりしちゃうのは、決まって心と身体が疲れているときなの。それに、人がベロをプロペラみたいに回して飛べるわけがないでしょう?」


 真由美ちゃんはそう言った。そう言い切った。屈託のない微笑みを浮かべたまま。その女神のような微笑と悪意のない慰めは私の胸へと突き刺さり、そのまま血流にのって私の顔までやってくると、両手でこちょこちょと私の涙腺をくすぐり始めた。私の意思とは関係なしに涙がとめどなくこぼれ落ちる。私は唇を強くかみしめ、ぐっと涙を抑えようとした。疲れてるんじゃない。私はかすれるような声で反論した。


「これが本当なの。疲れてるとしたら、それは今までの私。それもこれも間違ってて、どれもそれもおかしいのが本当なの。他の人にはまともに見えるのかもしれないけど、それはみんなの方がわかってないだけなの」


 真由美ちゃんが物憂げにため息をつく。


「そんなことないわ。だって、私はそうは思わないもの。さ、ベッドも空いてるし、少し横になりなさい。一緒に添え寝してあげるから」


 私は真由美ちゃんをじっと睨み返すことしかできなかった。真由美ちゃんはそんな私にあえて気が付かないふりをしながら、右目をこすり始める。「目にゴミが入っちゃったみたい」とはにかみながらつぶやくと、素手で右の眼球を取り出し、それを机の上に置いてあったお茶の中にポトリと落とした。そのまま真由美ちゃんはコップの中で眼球をくるくる回して汚れを洗い落とす。


「それでも、私には本当にそう見えたんだよ? 夢でも幻でもなくて、本当に本物だったんだよ? 真由美ちゃんに見えていなくっても、それが私の現実なんだよ?」


 真由美ちゃんは私に哀れみの表情を向けた。真由美ちゃんは私から視線をそらすと、コップから眼球を取り出し、服の袖で水けを拭き取り始めた。


「山中さんが見ていることは山中さんが見ているものでしかないの。それは私には見えない。どうして、そんなものに拘るの? 全く同じものを一緒に見ている方がずっと気持ちがいいし、ずっと気持ちも安らぐでしょ」


 真由美ちゃんは眼球をぽっかりと空いた眼孔の中へと押し込んだ。それからそっと立ち上がり、私の身体を抱きしめた。


「山中さんはそんなもの見ていないわ。少なくとも私は見ていないもの。それとも山中さんはもう私のことが嫌いになっちゃったの?」


 そういうわけじゃない。私はそう絞り出した。それは私の本当の気持ちだった。


「でしょう? 私の気持ちは変わらないわ。山中さんが大好きだから、今までも山中さんにいろんなことをしてあげたし、これからもいろんなことをしてあげたいと思っているの。山中んさんのためにならすべてを投げ出せるし、どんなものだって差し出すつもり。何なら、この右腕だって誰かにあげちゃえる」


 真由美ちゃんはそういうと、私から手を離し、にこっと微笑んで見せた。おもむろに左手で自分の右腕をつかむと、反時計回りに回転させ始める。パコっと快音が響き、真由美ちゃんの右肩から右腕が外れた。


「やめて!!」


 私は叫んだ。しかし、真由美ちゃんは右腕をつかんだまままつかつかと窓まで近づいていく。ガラス戸を開き、保健室の外へと自分の右腕を放り投げる。外にはお腹を空かせた野球部員たちがたむろしていた。突然放り投げられた真由美ちゃんの右腕を見るやいなや、彼らは競うようにして群がり始める。誰も一番お腹を空かしている人に譲ろうとは思わず、自分の欲望にどうしようもなく忠実だった。


 真由美ちゃんは窓を閉じ、私の方へと振り返る。見慣れているはずの真由美ちゃんの優しい表情に私は思わずぞっとしてしまう。


「ね、わかったでしょう?」

「別にそんなの望んでない!」


 真由美ちゃんはしょうがない子ねと微笑しながら、私の方へと近づいて来る。


「さ、ベッドに行こう」


 真由美ちゃんが私に左手を差し伸べる。私はその手を振り払い、そのまま真由美ちゃんを強く突き放した。力を込めたでやったせいで、真由美ちゃんはバランスを崩し、後ろに置いてあった薬棚に身体をぶつけた。棚の中のガラス瓶が互いにぶつかって甲高い音が教室内に響く。ぶつかった衝撃で真由美ちゃんの目のくぼみから二つの眼球が勢いよく飛び出していく。二つの眼球は私の足と足の間を転がっていき、そのまま閉ざされた白いカーテンの向こう側へと消えていった。視力を失った真由美ちゃんは、床に這いつくばり、飛んでいった眼球を手探りで探し始めた。


 私はこの部屋に飛び込んできた時と同じくらいの勢いで保健室の外へと飛び出した。扉を閉じると、扉の向こうから真由美ちゃんの怒りに満ちた声が聞こえてくる。


「恩知らず!」


 真由美ちゃんの言葉が扉を貫通し、私を背中から突き刺した。痛みと衝撃で私の目の前が一瞬真っ暗になり、そして、ゴホッと胸からこみ上がってきたものを手の上に吐き出す。私は吐き出されたものを見て、ぎょっとした。それは机の下に転がっていったはずの真由美ちゃんの眼球だった。


 まさか。私は自分ののどに手を突っ込んで、むりやり胃の中にあるものを廊下に吐き出した。私は吐き出されたものを見て言葉を失った。黄色く変色した未消化の食べ物と一緒に、真由美ちゃんの運転免許証、真由美ちゃんが家でかける眼鏡、真由美ちゃんが数年前に抜歯した右下の親知らずが混ざっていた。こんなに、こんなに私の中に真由美ちゃんがいたなんて。恐怖と寒気がこみ上げてくる。私は手に持ったままだった眼球を放り投げた。真由美ちゃんの眼球は窓ガラスにぶつかり、快音とともに大きく跳ね返った。私はそのまま逃げるようにして廊下を駆けだした。


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