10
銀杏の葉が黄金色に色づき始めた頃、ようやく暦の上での八月が終わり二学期が始まった。休みの日よりも早い時間に起床し、リビングで朝の情報番組を視聴しながら朝食を食べる。久しぶりに見る番組は、コーナーの内容ががらりと変わり、お気に入りの女子アナウンサーも交代してしまっていた。そしてテレビの画面の右上に、見慣れない数字がずっと表示されていることに気が付く。
『10/11』それはまさに私たちの高校の文化祭の翌日、つまり、世界が滅びる日付だった。女子アナが可愛らしい微笑みをカメラに向かって浮かべる。カメラが彼女の右頬へズームする。女子アナの右頬にはうっすらと35という数字のタトゥーが彫られていた。その数字は、世界が滅びる日付とは何の関係もない単なる数字でしかなかった。
*****
私は始業開始ギリギリに教室に到着した。他のクラスメイトは久々に顔を合わせる友達と仲睦まじげにおしゃべりをしていて、教室内はいつもよりも数段騒がしい。夏休みはどうだった? 学校だるいね。そういえば世界が滅びるらしいね。宿題忘れちゃった。低い声や高い声、色んな声が混じり合って、耳鳴りのように私の頭を揺さぶってくる。
私が着席すると同時に、田崎先生が教室に入ってきた。そして、彼が教科書を教卓の上に置いたタイミングで、一限目の始まりを告げるチャイムが響き渡った。世界の滅亡が一か月後に迫ろうが、授業はあるし、チャイムはなる。それは当たり前のことだった。田崎先生がしわがれ声でおとといの続きか教科書を読み始める。それでも休み明けのクラスメイトの浮ついた雰囲気は一向に収まらなかった。しびれを切らした田崎先生が大きく咳をし、授業中の私語を慎むように苛立ち混じりの声で叱責する。教室内が一瞬だけ静かになる。田崎先生は睨み付けるようにして、教室内を窓側から廊下側まで見渡し、もう一度見落としがないか確認するために、今度は廊下側から窓側へと視線を動かした。
「世界が終わるってのに、なんで授業なんか受けなきゃいけないんですか」
クラスで一番のひょうきん物がみんなを代表して、そう訴えた。田崎先生は頭部と比較して相対的に濃く、太い眉毛を漫画みたいに八の字に曲げる。ひょうきん者の発言に教室内でどっと笑いが起きる。
「そんなの決まってるだろ。世界が終わるとしても、大学の試験日程は変わらないからだ」
田崎先生はつっけんどんに突き放すと、教科書片手に黒板へと向き直り、微積分の公式を板書し始める。先生の発言と行動に教室内のざわめきが最高潮に達した。聞くに堪えない罵詈雑言が放たれ、時折、先生のくたびれたスーツの裾が風圧で揺れる。さらにはクラスメイト同士が互いに互いを罵り合い始め、しまいには殴り合いにまで発展していった。あちこちで誰かが誰かの顔を殴りつける音。顔を長い爪で引っかかれ、痛みのあまり泣き叫ぶ声。私の前に座っていた大人しい男子は机の上に嘔吐し、それを見ていた隣の女子に頭をつかまれ、吐しゃ物の中に顔面を押し付けられる。
私の隣に座っていた佐伯さんが奇声を発しながら突然立ち上がった。私の頭を両手でつかむと、私の額に思いっきり頭突きをしてきた。私は衝撃で椅子ごと後ろへと倒れる。佐伯さんは私を私の上をぴょんと飛び越えると、そのまま窓へと向かって走り出し、そのまま速度を落とすことなくガラスへと突っ込んでいった。危ない。私はそう叫んだ。しかし、佐伯さんはそのままガラスを突き破った。それと同時に佐伯さんは信じられないほど長い舌を天に向かって突き出し、それをプロペラみたいに回しながら、校舎の外へとそのまま飛んでいってしまった。
教室内ではなおもペンやら携帯やらが宙を舞い、時々誰かが誰かを殴る鈍い音が響いていた。誰も佐伯さんが飛んで行ってしまったことに気付いてすらいなかった。田崎先生は黒板に板書を続けていたし、それを黙々とノートに書き写すクラスメイトも少なからずいた。鼓膜を突き破るような騒音と網膜をそぎ落とすような光景から身を守るために、私は両手で耳をふさぎ、固く目をつぶった。それでも頭をガンガンに鳴らすような騒音はX線のように両手を通り抜けて伝わってきたし、目蓋の裏側には先ほどの地獄絵図がすでにモノクロプリントされてしまっていた。矛盾しながらも論理的に真な命題が私の頭の中をぐるぐるとかき回し始める。めまい、吐き気、頭痛がいっぺんに私に襲い掛かってくる。強烈にひどい乗り物酔いになったみたいだった。
このままではどうにかなってしまう。私はゆっくりと席を立ち、誰にも見つからないようにと床を這いつくばって教室からの脱出を試みた。途中、何人かの男子生徒に手を踏まれ、そのたびに私は猫のような叫び声をあげた。やっとのことで廊下に出ることができた時にはもう、私はひどく疲れ切っていた。立ち上がると、立ちくらみが私を襲い、世界が真っ暗になる。中々消えてなくならない暗闇の中で私は服に着いた煤や汚れを手で払落し、真由美先生のいる保健室へと駆けていった。