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絶えた望みを希う

ひとりぼっちの令嬢は         をご所望です

* * * * *


「実は、おまえの婚約相手が決まったんだ。喜んでくれるかい?」

「こんやく、ですか?」


 幼い少女に、その意味はよくわからなかった。いや、単語についての知識はあったのだから、我が身に起きたことだと実感できなかったと言ったほうが正しいだろうか。


「ああ。相手は王子様だよ。第四王子、アルフェンアイゼ殿下だ。おまえと同い年の、優秀なお方でね」

「王子様……」


 父から言われた言葉を繰り返す。王子様。名前よりもその呼び名のほうが短くて言いやすかった。


「わたしがその方とこんやくしたら、どうなるのです?」

「みんなが、幸せになれるんだよ」


 父はそう言って、少女の頭を優しく撫でる。だから少女――――リディーラは、安心して微笑んだ。


*


 婚約者として紹介されたのは、美しくも物静かな男の子だった。

 このアルフェニア王国の四番目の王子は、固い声で自分の名前を告げて以降、ろくに口を開かない。一応その場には二人の父親もいたが、相手が王族であるせいかリディーラの父は何も言えず、また国王も諦めたようにため息をつくだけだった。

 大人同士で難しい話をするから子供達は勝手に遊んでいろ、とばかりにリディーラ達は使用人の見守る庭園で二人きりにされた。けれどつまらなそうな顔をした王子様は、決してリディーラの顔を見ない。うつむくか、そっぽを向くかしている。普通、王族にそんな対応をされてしまえば、顔色のひとつも悪くなるだろう。しかしおてんばなリディーラは物怖じもせず、彼の視界に強引にでも入るようちょこまか動いていた。


「ねぇ、ベルガ様! それとも、アルフェンアイゼ殿下のほうがいいかしら!」

「ぼ……僕の名前は、ヴェルガ……です……。名前で……。いちおう、婚約者……ですし……」


 王子様が目のひとつも合わせてくれないことにしびれを切らし、リディーラは飛び跳ねるようにして彼と距離をつめる。たじろいだ様子のヴェルガは、小声でぼそぼそリディーラの言い間違いを訂正した。


「じゃあ、ヴェルガ様! わたしのことは、リディーラと呼んでくださいな!」

「あっ……は、はい……」


 ヴェルガの両手を強引に掴み、ぶんぶんと勢いよく握手する。ヴェルガは目をぱちくりさせていた。公爵家の娘がこんな振る舞いをするなど、予想もしていなかっただろう。


「そんなにかしこまらなくても……。いっ……いつも通り……で、いいです……よ? 僕は……その、えらいわけではないです……から……」


 そんなわけがない。相手は四番目とはいえこの国の王子、国王の直系の息子だ。三人いる王妃のうちの一人、第二の妃の子。リディーラは不思議に思って首をかしげた。

 だが、すぐに答えに思い至る。彼は、第四王子ヴェルガは、王位の継承権を持たない王子――――邪神の寵愛を受けるがゆえに、王族として扱われていない王子なのだと。

 いかなる者であれ、生きとし生けるものはすべて神々から祝福を授かっている。リディーラは美を司る月の女神と、その眷属神達からの守護を賜っていた。一方でヴェルガの守護神は、混沌を司る闇の神とその眷属神だ。それは王族にふさわしいものではない。彼はその性質にかかわらず、生まれながらにして人々から恐れられ蔑まれる悪の子なのだ。


「……わかったわ。じゃあ、普通にするわね」


 リディーラはおしとやかに振る舞うのが苦手だった。活発で明朗で、無邪気な少女は、名門公爵家の令嬢というにはあまりにも自由過ぎる。それでも彼女は、愚かなわけではなかった。


「でも、だからって貴方をばかにしたりなんてしないわよ。邪神様から加護を受けたからなんだというの? それで貴方の価値が決まるわけがないじゃない」

「……ッ!」


 握った手に力を込めて、リディーラはあっさりと告げる。見開かれた王子の目は、まるで彼女に縋っているようだった。


* * * * *


 リディーラとヴェルガの婚約は、親に決められた家同士のためのものだ。それでも二人の仲は至って良好だった。

 怖いもの知らずのリディーラは臆病なヴェルガが築いた心の壁をたやすく飛び越えられたし、聡明なヴェルガは子供じみたリディーラの成長を促進させて貴族令嬢としての自覚を芽生えさせる。互いにとっての二人は最大の理解者で、得難い友人で、大切な恋人だった。

 リディーラ達のことを、大人達は誰もがよき夫婦になるだろうと思っていたし、リディーラ自身も漠然とではあるがそう思っていた。大人になったらヴェルガと結婚して、一生幸せになるのだろうと。きっと、ヴェルガもそう思っているのだろう。リディーラはそう信じていた。

 十五歳になったリディーラ達は、国内の有力貴族の子女が通う学院に入学した。入学から十日ほど経ったある日の朝、リディーラはヴェルガとともに校舎を目指していた。他にも多くの新入生や在校生が登校している。しかし何かがおかしい。ざらりとした異物感に首をかしげながら、リディーラは周囲を見渡した。


「あら、ヴェルガ。あそこに……」


 リディーラの視線の先には、入学前からヴェルガと親しくしていたとある公爵令息がいた。隣を歩くヴェルガは、しかしそのまま歩き続ける。まるで友人の存在を、そしてリディーラの声を無視するように。こちらに気づいた公爵令息も、何故か気まずげに目をそらした。


(どうかしたのかしら?)


 心の中で首をかしげたリディーラは、はたと違和感の正体に気づく――――周囲の誰もが、ヴェルガを避けるように歩いているのだ。

 きっと、ヴェルガが邪神の寵児だからだろう。邪神の加護を受けているというだけで、人々からは腫れ物のように扱われてしまう。本当の彼は、誰より優しい人なのに。仕方ないとはいえ孤立している婚約者の背中を、決して見失わないようリディーラは静かに追った。


* * *


(また、その子と一緒にいるのね)


 月日の流れに応じるように、情勢や人の心も移ろっていく。入学からたった一年。それだけで、リディーラがヴェルガと育んできたはずの七年間はなかったことになった。

 今、ヴェルガの横にいるのはリディーラではない。ヴェルガと同じ、銀色の髪の少女だ。彼女の名はナディカ=メレクル。伯爵家の令嬢だが、リディーラはもちろんヴェルガとの接点などないはずだった。

 それなのに、ヴェルガは彼女と一緒にいる。人目を避けるようなその密会は、まるで彼らの仲を示すようでもあった。

 最近のヴェルガは、リディーラですら拒むようになった。彼はずっと一人でいるか、たまに人気(ひとけ)のない場所でナディカといる。ヴェルガはナディカのことが好きなのだろうか。ヴェルガとリディーラの関係は、婚約によって成り立つものだ。そこに愛がなくなれば、ヴェルガがリディーラを突き放すのも当然のことだった。


(どうしてなの? わたしはずっと、貴方のことが好きだったのに……)


 わたしの何がだめだったの、と呟く声は風に掻き消された。今すぐあの場に割って入り、ヴェルガの真意を問い質したい。けれどできない。彼の口から直接リディーラへの嫌悪とナディカへの心変わりを伝えられることを、受け止めきれるはずがなかった。

 今、宮廷は揺れている。先月、第一王妃と彼女の子である第一王子と第一・第二王女、そしてこの国の王が、晩餐会の席で毒を盛られたからだ。第三王妃と彼女の子である第二王子が、視察先で事故に遭って帰らぬ人となってしまってから半年も経っていないのに。

 同じく第一王妃の子だった第五王子は、その幼さから席に参加していなかったため難を逃れたものの、王妃達は亡くなった。幸いにも王は一命をとりとめたが、今も床に臥せっているという。一刻の予断も許さない状況のようだ。

 しかしヴェルガの異母兄妹の死に、思うところなど何もないようだった――――その晩餐会には、彼も出席していたというのに。

 第一王妃の血筋の者だけが招かれた国王主催の晩餐会に、第二王妃の子であるヴェルガがいるのはおかしい。無事だったのが彼だけだったこと、そして彼が邪神の寵児であることもあり、人々はヴェルガこそ暗殺の首謀者だと噂していた。それでも確たる証拠はないため、ヴェルガは表立って罪人と扱われることはなかった。

 そんな危うい宮廷の情勢を、色恋沙汰でさらに混乱させるわけにはいかない。

 八人いた王の子供達は半分に減り、もう第三・第四・第五王子と第三王女しかいなかった。第五王子と第三王女は年端の行かない子供で、第四王子には継承権がない。だから王太子の座は第三王子、ヴェルガの実兄が得ると目されていた。

 まだ王が存命である内に、立太子が行われる見込みだ。そんな時期に、第三王子と対等に争える立場にある第四王子が婚約者以外の少女と仲睦まじくしていると知られるなど、あってはならないことだった。

 ヴェルガがリディーラでない少女を愛し、リディーラとヴェルガの婚約が白紙になれば、大きな波紋を呼ぶだろう。名門公爵令嬢(リディーラ)は、継承権のない王子(ヴェルガ)にそれ以上の権力を持たせないための枷なのだから。

 リディーラ達が破談になるということは、つまりヴェルガは公爵家以上の権力を欲しているという証明になる。本心がどうであれ、周囲はそのように受け取るのだ。

 ヴェルガがそれもわからないほど愚かであるとは思えない。だからヴェルガの心がどこにあったって、きっと婚約が解消されることはないはずだ。それは少しだけリディーラの心を軽くさせて、けれど同時にとてもむなしくさせた。


*


「――よって、この婚約は無効となった」


 厳かなその宣言が、静まり返った講堂に響き渡った。それは、第二王妃と第三王子が病で急逝して間もない時期に行われたとは思えない事件だった。

 彼が手にした書類には、王の署名がなされている。その筆跡はひどくか細く震えていて、真偽のほどは定かではない。けれど王が死の淵にあり、そしてその書類を持っているのが王子であるということが、人々から偽造を疑う余地を奪っていた。


「残念だよレヴィア。お前はもう少し賢いと思っていたが、まさかこんなどこの馬の骨ともわからない男にたぶらかされるとは」


 ヴェルガは冷笑を浮かべていた。それが自分にあてたものであると、リディーラは信じられなかった。

 まるで他人のように名字で呼ばれ、身に覚えのない罪を糾弾されて。槍玉に挙げられているのが自分だという実感など欠片もなかった。

 全校生徒の目の前で、ヴェルガが起こしたもの。それはリディーラを貶め、婚約を破棄する糾弾の場だった。


「自分が何をしでかしたのか、それによってどんな影響が生まれるのか、よく考えて行動するべきだったな。今さら言っても遅いことだが」

「そんなっ……! 待ってよ、こんなのおかしいわ!」

「そ、そうだ! いきなりこんなこと言われてもわけわかんねーって!」 


 ようやく声を張り上げられたリディーラに追従したのは、この春に転入してきた男子生徒だった。どこかの貧乏男爵の息子だというが、非常に優秀な少年だ。彼もリディーラと同様に、この場の当事者だった。リディーラは今、彼との密通を疑われているのだ。

 しかし彼のことなど名前ぐらいしか知らない。カイル=ディンヴァードというその少年も、リディーラのことは同じく名前程度しかわからないだろう。取っている講義はばらばらだし、クラスだって違う。それなのに、何故彼との仲を疑われているのだろうか。嘘ばかりの話を声高らかに証言する学友達は、なんのつもりでそんなことを。

 味方などいなかった。みな、リディーラを汚らわしいもののように見ている。誰もがヴェルガを信じ、リディーラを視線だけで責めていた。それがどうしても耐えられない。

 築いていたはずの友情など、しょせんは虚飾でしかなかった。誰もリディーラの無実を信じてくれなかったし、リディーラを支えてくれる者もいない。つい昨日までは、友人に囲まれていたのに。もう自分の周りには、敵しかいないのだ。

 公爵家の令嬢として、清く正しく生きてきたつもりだった。月と美の女神の加護を持つ者として、それにふさわしく美しい在り方をしていたはずだった。その結果がこれだなんて、一体どこで間違えてしまったのだろう。優美で清廉で純粋な乙女は、けれどあらゆるすべてに突き離されて拒絶され、孤立していた。


「言い訳などどうでもいい。……俺も随分と侮られたものだな。こんな騒ぎを起こしておいて、のうのうと学院にいられると思うなよ。王太子を愚弄した罪、必ず償わせてやる」


 婚約者のいる身でありながら他の男と通じた少女と、その相手である少年。不貞の証拠は山のようにあり、この場にいる全員が二人の仲の証言をした。だから、そういうこと(・・・・・・)になってしまった。

 当然それは、リディーラにとってもカイルにとっても身に覚えのない話だ。弁駁を叫ぼうとする二人を、ヴェルガは冷たく一蹴した。


(王太子……?)


 その称号に疑問を呈する間もないまま、裁きの場は幕を閉じた。「二度と俺の前に姿を見せるな。不愉快だ」……ヴェルガがそう一方的に告げ、踵を返したからだ。

 慌ててリディーラはその背中を追おうとする。けれどそれより早く、人混みの中からすっと小柄な少女が抜け出した。少女はこちらに一瞥をくれるが、口を開くこともなくヴェルガの後を追う。ヴェルガは振り返ることもないまま講堂を出ていったが、彼女と距離を開けるようなことはしなかった。

 彼の数歩後ろを歩くその少女がナディカであると理解した直後、リディーラはふらりと倒れ込んだ。

 それからのことはよく覚えていない。気づいたら寮の自室ではなく、生まれ育った屋敷にいた。おそらく事態の収束のため、大人達がリディーラを家に帰したのだろう。

 婚約破棄を突きつけられた日の前日、幼い第五王子と第三王女が変死を遂げて、唯一残った王の子であるヴェルガが王太子に叙任されていたと知ったのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。

 

* * *


 リディーラの部屋の窓のカーテンは固く閉ざされている。たった五年で荒廃しきった世界を、見てしまわないように。

 ヴェルガに婚約を破棄されてから、リディーラは部屋にこもりがちになった。今では僻地の静かな修道院に修道女として預けられている。リディーラの名誉はひどく傷つけられたし、大衆の面前で着せられた汚名を晴らすのはとても難しかったからだ。社交界にリディーラの居場所はすでにない。両親はそんなリディーラを責めることはなかったが、失望されたのは眼差しでわかった。

 カイルは退学になったらしい。あの直後、ヴェルガに直談判し、そこで何かあったようだ。当然私的な繋がりはないため、その後彼がどうなったのかまでは知らなかった。

 王はヴェルガの卒業を待たず、すぐに崩御してしまった。まるで立太子を待っていたかのように。あるいは、まるで王太子が決まるまで誰かに生かされていたように。そのあとを継いで王位を得たヴェルガは、絵に描いたような暴君だった。

 自身の守護神である邪神への信仰を民に強要し、重税を課して邪神のための教会を建て、聖戦と銘打ち他国に繰り返し侵攻する。邪神信仰を拒む者や、他の神々に仕える聖職者達は火刑に処した。だから国は荒れ果て、国中の誰もが血と信仰に狂った暴君を憎んでいた。

 在学中ですらそうだった。成人して以降の彼の振る舞いは、よりいっそう苛烈に残酷になった。ヴェルガの噂は、辺境の修道院にいるリディーラの耳にも届いている。聞くところによると、少しでも自分に異を唱えるような者はもちろん、ただ目についただけの者であっても問答無用で処刑するらしい。

 それは、リディーラの知っているヴェルガではなかった。彼は変わってしまったのだ。一体いつ、どうして。ずっと、一番近くで彼のことを見ていたはずなのに。


(ううん……わたしはとっくに、彼の一番なんかじゃなかったんだわ)


 リディーラとの婚約を破棄しても、ヴェルガはナディカと婚約しはしなかった。しかしナディカは今もヴェルガの傍にいるようだ。国王に忠実な女宰相という肩書が、今のナディカを表していた。友人も婚約者も、名誉も家族も失って、修道院で死んだように生きるリディーラとは大きな違いだ。

 唯一のよすがを求めるように、記憶の中の元婚約者を思い描く。そのたびにリディーラの胸は押し潰されそうだった。だって、まだこんなにも彼を愛している。かけられたささいな言葉が、気づけた表情の変化が、すべて愛おしくて痛くて苦しい。

 ヴェルガはリディーラを踏み躙った。それでも彼を嫌いになれない。幼いころからの婚約者であるヴェルガは、リディーラの半身も同然だったのだ。嫌いになるには、幸せだったころの思い出が美しすぎた。

 ひそやかに想う。繋いだ手のぬくもりは今も覚えている。今はそれしか縋るものがなかったとしても、それだけで十分だった。


*


 反乱が起きた。狂信からなる圧政に耐え切れなくなった人々はついに立ち上がったのだ。反乱軍のリーダーは、青年になったカイル=ディンヴァードだという。反乱は成功して革命と呼ばれ、暴君はその座から引きずり下ろされた。

 暴君を失ったことで、国にはわずかばかりの光が差した。きっとこの希望の光は、これから徐々に国中を明るく照らしていくのだろう。

 だから今日、リディーラは久しぶりに公の場に出ることにした。国王裁判が行われる法廷に。

 「死刑!」「死刑!」「死刑!」傍聴席から響く怒号の前では、静寂を求める裁判官が打ち鳴らすガベルの音も掻き消える。ただ一人、その喧騒に加わらなかったリディーラは、傍聴席から静かに元婚約者を見下ろしていた。少し髪が伸び、眼光が鋭くなっただろうか。たたずまいは大人の男性そのものだ。少年時代の儚さはなかったが、研ぎ澄まされた危うい繊細さはそのままだった。

 異様な空気の中、臨時で結成された議会の議員達は粛々と投票を進めていく。議員の中にはリディーラの父もいた。そっと胸の前で手を組み、リディーラは静かに神に祈る。

 全会一致で死刑。下された判決を、人々は喝采をもって受け入れた。同時に数多の罵声がヴェルガへと向けられる。わかっていたことだ。それでもリディーラは微動だにせず、まだ祈り続けていた。

 骸の上に君臨していた王をただ一人愛していた娘の、涙で染まった悲痛な祈りは、決して音にはならなかった。


*


 ヴェルガは、罪人を幽閉するための離宮に囚われていた。正面からでは彼に会えない。けれど裏を返せば、裏道を使えば好きに会えるということだ。官吏に渡すわいろには事欠かなかった。


「久しぶりね、ヴェルガ」

「リディーラ!? どうしてここに……」


 学院に通わなくなってから、リディーラはヴェルガに会えなかった。ヴェルガは断固としてそれを望まなかったし、偶然を装って社交界で会おうにも、リディーラはそのような場に出かけられなかったからだ。

 リディーラを見たヴェルガは、一瞬怯えたように顔をこわばらせた。よほどリディーラが会いに来たのが信じられないのか、瞳には困惑が宿っていた。

 荒れ狂う神々の怒りを表すような、嵐の夜だった。時折落ちる雷に震えながら、それでもリディーラは毅然としてヴェルガに手を差し伸べた。


「逃げましょう。暴君はこれから死ぬのよ。だから、貴方は生まれ変われるはずだわ。……一緒にやり直せないかしら? わたしはただのリディーラとして、貴方はアルフェニア王でも邪神の愛し子でもない、ただのヴェルガとして」


 ヴェルガに婚約を破棄されてから、リディーラはすべてを失った。家を捨て、名を捨てることなど、今さら何も怖くない。だから、彼と一緒にどこまでも堕ちたかった。


「黙れ。目障りだ、早くここから出ていくがいい」


 だが、徐々にヴェルガの顔から感情が消えていく。冷たい瞳は生気を感じさせない。生来の美しさも相まって、造り物のようだった。


「この私が、今さら無様に女の手にすがると思うか?」 


 リディーラの手はあっさりとはねのけられた。凍りついた眼差しのまま、ヴェルガは嘲笑に口元を歪めた。それはまるで何かの真似事のようで、どこかぎこちなかった。


「何をたくらんでいるのか知らないが、情に訴えようとしたのは間違いだったな。……復讐したいというのなら、特等席で処刑を眺めればいい」


 死刑の執行日は来月だと聞いていた。彼は、その日を従順に待つ気なのだろうか。


「それが済んだら、私のことなんて忘れてしまえ。……リディーラ、お前には幸せになる権利があるのだから」


 ヴェルガはすっと目をそらした。引き結ばれた唇はもう言葉を紡がない。


「復讐ですって? そんなこと、望んでなんかない! 死なせはしないわ……!」


 だから代わりに声を張り上げる。言葉は自然と溢れてきた。


「たとえ世界中の人が貴方に石を投げても、貴方がわたしの手を振り払っても! わたしは、貴方をあいしつづけると決めたもの!」


 彼の手を強引に取る。その手は温かかった。その温度だけが、彼が造り物などではないことを証明していた。


「私は……お前を裏切って、陥れたんだぞ? 私がなんと呼ばれているか、知らないわけでもないだろう? それなのに何故、お前は……」

「だからどうしたの? わたしの気持ちはわたしが決めるわ。貴方がどれだけ変わっても、わたしの心は変わらない。……ヴェルガは、どんなになってもわたしの大好きなヴェルガよ」


 たとえ彼が、邪神の寵児の名にふさわしい邪悪な存在になっていても。ただ一人、自分だけは傍にいたかった。どうせ自分も孤独な身だ。世界から孤立した者同士、寄り添っていても文句は言われないだろう。


「頼むから、私にはもう二度とかかわるな」


 絡めた指は、あえなくほどかれた。それが、ヴェルガの答えだった。

 ヴェルガは大声で官吏を呼ぶ。この侵入者をつまみ出せ、と。構わず追い縋るリディーラだったが、さすがにごまかすのも限界ということで外に連れ出されてしまった。


「いやよヴェルガ、どうして……!」

「……私は、間違ってなどいない」


 官吏に連れ出されながらも必死で手を伸ばすリディーラを見て、ヴェルガはすべてを否定するように(ひと)()ちる。縋るように、祈るように紡がれたその言葉が正しいかどうかは、彼自身が一番よくわかっているように見えた。


*


 首を斬られれば誰だって死ぬ。当然だ、人間なのだから。ナディカの刑もヴェルガの刑も、滞りなく執行された。

 誰もいなくなった広場で、リディーラは断頭台の前に跪き静かに祈りを捧げる。どこにも届かないと知りながら。

 愛に生き、愛に殉じた娘。切なる願いを胸に抱き、幸せだった子供の頃の思い出に溺れながら、彼女は静かに目を閉じた。


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