前編
あれから、一週間が経った。
“あれから”とは、“葬式から”という意味だ。
僕は、意味もなくベンチに座っていた。
駅の近くにある木に隣接されたベンチに、パーカーのフードを被りながら呆けている僕は、ゆっくりとあくびをした。
もう二日間、家に帰っていない。
腹は減らない。…いや、腹は減っているのかもしれない。しかし、ご飯を買うお金もないし、何より家に帰る事もできない。そして、脳が随分と壊れてしまったようで、まともな判断ができない。判断ができないという判断ができているので、単にやる気がないだけなのかもしれない。
もうずっとベンチに座っていて、少しお尻が痛くなってきた。しかし、立ち上がって背伸びをする“やる気”さえも出ない。
どうやら僕は“廃人”らしい。
大好きな人が死ぬだけで、人間という生き物はこうも簡単に崩れ落ちる。幸せという“土台”を積んだ分だけ、その“土台”を下から壊されると、『人間』という塔は抗うこと無く崩れ落ちる。例えるならば、ブロックを積み上げてきたようなものだ。下から……ようするに“死”だ。彼女がいなければ、そもそも『幸せ』というものは積み上げられなかったのだから、同然彼女がいなくなれば、一直線に積み上げられたブロックの一番下を抜き取ったようなもので、重力に逆らうこと無く、それより上にあったものは重力で崩れ落ちてしまう。
今、僕に起こっている現象は正にそれだ。
「あぁ……」
このベンチは、彼女と初めてのデートの場所だった。
中学二年生の冬、慣れない電話でデートの約束をした。とはいっても、一体どんな約束をしたのか、今となってはいくらなんでもおぼろげになっている。
でも、ここで彼女と待ち合わせしたのだけは覚えているのだ。
太陽に輝く黒い長髪、オシャレに着込んだ可愛い服と、相変わらず理想的な程の顔立ちと小顔。僕には、勿体ないぐらいだった。その時は特に、彼女はまさに“美少女”そのもので、駅を通り過ぎる男たちに少し色目で見られていたのを覚えている。
「……アズサ……」
ふと、彼女の名前を口にする。
五年間ですっかり呼び慣れてしあったアズサという名は、今こう呼んでみてしまうと、本当に……“嫌”になってくる。
これ以上、自分独りで生きていくのが辛くて嫌になっていく。
どうやら僕は本当に、人間として失格してしまったらしい。
愛する人を失い、人間を失格するのならば、もとから愛する人などつくらなければ良かったのだろうか。
「エラそうに、妹の名前を口にしないでくれる?ヨシオくん」
背後から聞こえた女性の声、それはとても冷たい冷酷な声だった。
声の質は、アズサに似ているのに、聞こえてきた声は氷のようなものだった。
「ユミさん……」
「なによ」
僕はゆっくりと振り返る。
ユミという名の彼女は、アズサの姉だ。
「……どうして、ここに…?」
「別に。あなたに会いに来たわけではないわ」
長髪のアズサに対して、彼女は肩までのカールのかかった茶髪だ。
ユミさんは、アズサの三つ上の姉らしく、アズサよりも少し大人びていた。美人なのは、やはり姉妹といった所か。
「……一つ、聞いていいかしら?」
「なんですか」
ユミさんは、僕の隣に座る事なく、正面に立つと静かにそう言った。
そして、こうはっきりとした口調で、僕に問いかける。
「どうして泣かなかったの?」
そういうだろうと思っていた。
僕は泣かなかった。
アズサの葬式の際、どんな顔をしていたかどうかは分からなかったが、確かに僕は、涙の一つも流さなかった。おそらく、涙目にもならなかったのではないだろうか。
「どうして、というと?」
僕は、落ち着いて聞き返した。
「普通、泣くわよ」
「………」
「五年間つき合っていたんでしょ?半年付き合っていた彼氏にフラれたのでさえ、私は泣いてしまうのに。あなたは、どうして泣かないの」
「………判りません」
「もしかしてアナタ、アズサと恋人だったのが“遊び”だったなんて言わないでしょうね」
その声には少し、憤りが混じっていた。
「……んなわけ……」
「え?」
「……――そんなわけ、ないでしょう」
僕は、分からなくなった。
少しも頭が働かないわけじゃない。正確には、考えるのを脳みそが停止させている感覚だった。
――ここから先はいけない。
理由は確かにあるはずだ。
僕が、葬式で泣かなかった理由はあるはずなのだ。五年間の彼女との思い出。
実は、喧嘩も少しした事がある。
単純な理由だった。
僕が彼女のお菓子のプリンを間違って食べてしまったのだ。
高校を卒業してから、僕と彼女は同棲を始めた。僕がバイトから疲れて帰ってきた時、冷蔵庫に一つのお皿に取り分けられた、半分だけ残っているプリンが置かれていた。
僕は、これが自分の物だと思って、それ以上の事を考えず食べてしまったのだ。
しかし、どうやらそれは彼女が昨日食べたプリンをおやつ用にとっていた物らしく、僕はめでたく泥棒扱いされてしまった。
その時、彼女は本当に僕に怒っていた。
可愛らしい顔を真っ赤にかえて、ブンブンと腕を振り回す。危うく別れる寸前まで行くのかと思いきや、彼女は急に泣き出してしまった。
よほどプリンが食べたかったのか、それともこんな事でこんなに怒っている自分に恥ずかしくなったのか。
何も言わずに、大泣きをする彼女を慰めながら、僕は「今度また、どこかでパフェを食べにいこう」と約束をした。すると、彼女はパッと明るくなり泣いていたのが嘘みたいに、涙を拭きながら面白おかしく僕の愚痴を笑いながら言っていた。
仲直りは大切だった。
いつもそうやって関係を築いてきた。仲直りできない時なんてなかった。喧嘩する度、彼女は泣いた。そしてその度、どちらが悪くても僕が慰めていた。
端から見たら面倒な関係だろう。
でも僕はそうは思わなかった。
思えなかった。
ただ好きなんじゃない。
そんな理由で五年間も付き合っちゃいない。
大切なんだ。護りたいんだ。大事なんだ。
―――でも、彼女は死んだ。
幸せというのは、そんなにも呆気ないのか。
有名なパフェの店で待ち合わせをしていたら、電話で彼女の母親から「アズサが事故に遭った」という連絡が入った。
息が止まった。
苦しかった。いや、“苦しい”なんて簡単なモノじゃない。息が“詰まる”。
驚いた。いや、“驚いた”なんて優しいものじゃない。座って居られず、“跳ね上がった”。
即死だった。
今すぐにでも彼女を殺したトラックの運転手を捕まえて、アスファルトの道路の上で散々引きずり回した挙げ句、何千㎏の車体でそのボロボロの体を轢き潰したい。
けど、そんな事をしても……。
もう彼女には……――。
「なんで、アズサだったんですか」
「え?」
思考をストップさせる。
ここから先は、考えちゃいけない。
もし、それを考え、自覚でもしてしまえば、僕は完全に潰れてしまう。
「どうして、何十万人の中で彼女だったんですか」
「……知らないわよ。こっちが聞きたいわ」
「……そっすか」
意味もない話で、この状態を流す。
「……もう、いいわ」
呆れたように、ユミさんは呟いた。
そして、離れていく。僕は足音だけでもそれが分かった。というか、離れていくであろうという確信した予想があった。
予想通り、ユミさんは離れていく。本当に、たまたま僕に出会っただけらしい。
ユミさんは、そのまま駅の改札を抜けホームに向かっていた。
あぁ。
「耐えきった……」
――耐えきった?
僕は何を言っている。
一体何を耐えていた?
どこに耐える要素があった?
簡単だ。
今まで優しかったユミさんが「僕のおかしな態度」一つでこうも冷酷に冷徹と変わってしまった。
そんな現状を、現実を打ち付けられているのを必死に耐えていたんだ。自分のこんなにも不可解な態度、癖、無慈悲で残酷なものの捉え方。
そんな非道い自分が、大嫌いになりそうで嫌だったんだ。
どうして泣かなかったんだろう。
確かに悲しかった。親族と同じかそれ以上の悲しみを与えられたハズだ。もはや、こんなものは悲しみでも何でもない。
――絶望だ。
僕はベンチから立ち上がると、そのまま歩き出した。
何を考えているのか自分でも分からない。それでも、どこかに向かって歩き始めていた。その足は段々と早足に変わり、遂には全速力で町を駆けていた。
運動不足の肺がはちきれそうな程、苦しい。
けどきっと……。アズサはもっと苦しかったんだと思う。
そんな事を理解してしまうと、僕の肺はより一層はちきれそうになる。内側からムチで打たれているような激痛に変わる。ふくらはぎや太ももだって、かつてないほどの痛みが走っていた。
それでも僕は走りつづけ、意味もなく町を駆け、たどり着いたのは病院だった。
病院前の駐車場にたどり着いた僕は、休むこと無く、そのまま院内に入り、エレベーターを待っている暇が煩わしく、階段を駆け上がる。看護士の人が、なにか呼び止めようとしていたような気もするが、きっと何か注意をしていたのだろう。
今は、そんなものはどうでもいい。
ただ一つ、頭を動かしたくなかった。
何も考えたくなかった。そのために走った。ただ、病院に真っ先入り、そして僕は屋上へ向かっていた。
屋上までの階段は途中で壁は設けられており、患者が入られないようになっていた。しかし、壁にはドアがあり、そこにかけられていた南京錠はどういうわけか外れていた。閉め忘れたのだろうか。
少し埃も積もっている。
きっと大分前に「あとで閉めようと思っていた、最終的に忘れていた」とかそういうものだろう。
僕はその扉を開け、そのまま階段を上る。
「……」
完全に上りきると、屋上に繋がる重たい、錆びている扉を開ける。
「……――ここで……」
この数日で完全に疲労し、壊れてしまった僕の脳は理性が吹っ飛んでいるらしく、自分でも何を考えているか判らない行動をしてしまう。
脳の理性より先に、“不可解”な感情によって“不可解”な行動に移してしまう。
そして、やっと今、自分がしている事が判った。
「――……自殺するのか、僕」