東京の夜
「お代は気にせず、今夜はこの部屋に泊まって下さい」
「我々は、下の部屋にいます。明日の朝、お迎えに上がります」
名波議員はソファーから立ち上がり、一礼してから退出し、追従するように護衛の2人も部屋から出て行った。
ドアが閉まると同時に、見送っていた健人とエリーゼは、隣り合うようにしてソファーに座る。
「こんな豪華な部屋に泊まるとは思わなかったなぁ」
「それにタダなのよね……? 何を考えているのかしら」
事前に宿泊場所まで手配したと聞いていた。健人は、当然のようにビジネスホテルに泊まるものだと思っていたが、実際はスイートルーム。想像をはるかに超える待遇に、2人とも困惑した表情を浮かべていた。
だがそれも名波議員達にとってみれば、当然の対応ではあった。エルフであるエリーゼは最重要人物だ。警備、そして元から低い彼女の評価を少しでも上げるためにも、名波議員は高級ホテルを予約していた。
「……考えてみても彼女の意図が読めない」
脱力したように、ソファーにもたれかかって天井を見つめる。
元教師の健人にとって相手の思惑を正しく理解することは難しい。特に、今回のように相手のペースで進められると、目の前の出来事を処理するだけで一苦労で、相手の思惑を考える余裕などなかった。
「俺には向いてないのかな……」
最終的な判断を下し、その責任をすべて取る。仮に自分が下した決断に自信が持てないとしても、それを表に出してしまうのは上に立つものとしては失格だろう。だが今は、エリーゼと2人っきりだ。無理に強がる必要もないため、珍しく弱音を口に出してしまった。
慣れないダンジョン運営にはじまり、ダンジョン探索士の死亡とシェイプシフターの問題が重なり、さらに名波議員との対話。過剰なストレスが溜まってしまうのも無理のない状況だ。
「そんなことないわ。健人は、よくやっていわ」
実際、先ほどの話し合いでも、健人達の要求を呑んでもらうことができた。例えそれが、交渉に長けている人間から見れば稚拙だとしても、結果が付いてきているのであれば、最低限の責任は果たしていると言えるだろう。
「そうかな……ついに犠牲者を出してしまったし、頭の良い人、経験豊富な人ならもっと良い結果を出せたんじゃないかな?」
普段なら今の一言で自信を取り戻せたかもしれない。だが、度重なる前例のないトラブルによって心が弱り立ち直れずにいた。
「頭の良い人? シェイプシフターの存在を知らなければ頭の良さなんて関係ないわ。それにダンジョン運営の経験が豊富な人なんて、この世界にはいないのよ」
どんなに頭が良くともその存在を、魔物の知識がなければ予測できない。さらにダンジョン運営など、エリーゼすら未経験である。最適な判断など誰もできない。分からない。今は、壁にぶつかりながらも知識と経験を貯めていくしかない。
「大丈夫。健人は1人じゃないわ。この問題も必ず、解決するわよ」
エリーゼが近づき健人との距離がなくなる。
「そう、かもね……」
「大丈夫よ。2人で考えた作戦通りに事は進むわ」
天井を見つめ続けている健人の手をとる。
トラブルが発生するたびに、心労が増えていくのをただ見ることしかできなかった。エリーゼは、ここまで弱っているとは気づかなかったことに、そして頼り切っていたことに、この時初めて深く反省していた。
「本当に?」
天井を見上げていた顔を、エリーゼの方へと向ける。
「ええ。魔物を狩るプロの意見よ。誰でもない、この私を信じて。必ず何とかするわ。それが私の役割だもの」
「…………ありがとう、少し気持ちが楽になったよ」
先ほどより表情は明るくなったが、その笑顔はぎこちない。
その気持ちはありがたいと思いながらも、エリーゼに責任を丸投げするほど健人は無責任な人間ではなく、エリーゼが責任にならないように討伐は頑張らなければと、健人は考えていた。
「まだダメね」
半目になって健人の顔を見つめていたかと思うと、急に立ち上がり、壁側にあるカウンターへと向かう。グラスを取り出してカウンターの上に置くと、冷凍庫から氷を取り出しグラスに入れ、さらにウォッカとオレンジジュースを入れて混ぜる。
「せめて今晩だけでも、お酒を飲んでトラブルの事は忘れましょ」
グラスを両手に持ったエリーゼが、先ほど座っていたソファーへと戻る。
「お酒か……もうやることないし飲もうか」
「つまみとして、私のとっておきのネタを話してあげるわ」
健人の体温が感じられるほど近くに座りなおすと、グラスを軽く当ててからエリーゼが作ったカクテルを一口飲む。
「お酒なんて久々に飲んだよ」
手に持ったグラスを眺めながらつぶやく。
健人が自力で食料を運んでいたころから、ゴーレム島には嗜好品の類は少ない。特に酒類は、かさばる上に重いため購入することはなかった。
定期便の行き来が始まり、軽トラックによる輸送も出来るようになった今でも、酒類の優先度は低いままで、ゴーレム島には一切存在しなかった。
「本島に来た時だけの贅沢ね」
「ああ……これは、悪くない贅沢だ」
不安を飲み込むかのように、勢いよくグラスに入っているカクテルを飲み干した。
「またカクテルを作ってくるわ」
空になった健人のグラスを手に取ると、カウンターの方へと歩き出す。
「エリーゼのとっておきのネタって何?」
手持無沙汰になった健人は、エリーゼがカクテルを作る姿をぼんやりと見つめながら、思い出したように質問をする。
「そうねぇ……何から話しましょうか」
マドラーで混ぜ終わったグラスを持ちながら笑顔でソファーに戻り、またもくっつくようにして健人の隣に座る。
「失敗した話は縁起が悪そうだし、何かに成功した話がいいわね」
顎に指をあてて考えるしぐさをする。候補はいくつもあるようで、あれでもないこれでもないと、1人でつぶやいていた。
「決めたわ! まずは、私が初めて狩りに成功した話ね。思い返せば間抜けなことばかりしていたのよ――」
そこからはエリーゼの独壇場だった。話を聞いていた健人は、ときに笑い、突っ込み、感動し、いつの間にか話に夢中になっていた。
「……他の話も……聞きたい……な……」
ほとんど目が開いていていない状態で、うわごとのように話を催促する。
2人の宴会が始まってから1時間。日も落ちて新宿の眠らない夜が始まろうとした時刻になると、酔いが回った健人は、頭を前後に動かしながら舟をこいでいた。
「私の話ならいつでも聞かせてあげるわ。今日は、このまま寝てしまいなさい」
壊れ物を扱うように優しい手つきで健人の頭を押さえると、そのまま膝の上に乗せる。太ももの柔らかさに安堵すると、ついに睡魔に負けて眠りについてしまった。
「眠ってしまったようね……できれば新宿の夜を経験してみたかったんだけど……それはまた今度にしましょうか」
壁一面の窓から見える、ネオンの光で浮かび上がる街並みを名残惜しそうに見ていた。
「明日からはまた忙しくなるし、今日はゆっくり寝てね」
子どもを寝かしつけるように健人の背中をさすりながら、グラスに残っていたカクテルを飲む。
「どんな結果になって、私だけはずっと一緒にいるわ。嫌になったら旅に出ましょ」
健人の立場に代われるものなら代わりたい。だがそれでは、健人が歩き始めた道を邪魔することにしかならない。パートナーとしてサポートしかできない歯がゆさを感じながら、初めて訪れた東京の1日が終わろうとしていた。