夜の東京競馬場
泣き出しそうだった空は、このレースのためにか何とかこらえていた。薄曇の中、日も傾き、暗くなったパドックには八頭の馬が周回している。ゼッケンには馬の名前ではなく、騎乗する騎手の名前が入っている。三階から見下ろすパドック際には、メインレースと変わらないほどの人がいた。
往年の名ジョッキーが入場してくると、一斉に拍手が沸き起こった。普段レースに出ていない馬たちは驚き、横っ飛びに飛び跳ねる。一番現役にちかく、若い松永幹夫騎手から、一人一人インタビューが始まると、そのたびに拍手が起こり馬が驚くので、司会者から「控えてください」との声まであがるほどだった。
娘は携帯電話のカメラで、並んだ騎手の写真を撮っていた。
「小さくて、可愛い……でも何言ってるか聞き取れない」
そう笑いながらいった騎手は、地方競馬の宝、「鉄人」佐々木竹見騎手で、六十七歳とは思えないほど矍鑠としていて、体重も五十二キロときっちりとしまった身体をされていた。たかれたフラッシュは誰よりも多かった。娘のお目当ての、岡部幸雄騎手は、今回の馬の調教も担当されたという。こちらも現役時代と変わらない感じだった。
燕尾服を着て、とまれの号令をかけたのは柴田善臣騎手であったり、誘導馬に騎乗しているのが西浦調教師であったり、それが紹介されるたびに笑いと拍手が巻き起こっていた。馬場に入場してからの先導馬には、騎乗停止になっていた横山典弘騎手もおり、持っていた旗を大きく振り回して笑いを誘った。
すっかり暗くなった本馬場は、ライトアップされていて、まるでナイターを見ているようだ。地方競馬のナイターにも脚を運んだが、ターフがライトで光っているのはまた違った風情があり、幻想的でさえあった。小島太調教師の務めるスターターはスタート地点ではなく、ウイナーズサークルで旗を振った。G1と同じように手拍子が起こったが、演奏よりもやたらとはやくなるG1の時と違い、観客が演奏にあわせるようにリズムのテンポを落としたのが印象的だった。
レースは、松永騎手の出遅れから始まり、観客席から笑いが起こった。ハナをきって河内騎手が行く。佐々木竹見騎手、岡部騎手が続いていく。三コーナー辺りで馬群が固まるが、その辺りは真っ暗だった。四コーナーを回り直線に向いてからは見ものだった。抜け出したオサリバン騎手をめがけて、河内騎手がターフのよいところを選ぶと、外から佐々木竹見騎手が、最内を岡部騎手が合わせての叩き合い。結局半馬身抜け出しての河内騎手の連覇には、場内から大歓声と大きな拍手が起こっていた。私の応援していた南井騎手は、五十八キロまで増えた体重のおかげかしんがりだった。とはいえ、六十二キロになったロバーツ騎手も五着入線とはたいしたものだと思う。馬が無事かどうかは少し心配だけれど……全頭がターフの上を帰ってくると、また大きな拍手が沸き起こった。
検量室の映像では、みんな息が切れているのに、岡部騎手だけは平然としていたのが印象的だった。レース後のインタビューでは、ロバーツ騎手の、
「やっぱり、東京競馬場の直線は長かった」
というのが印象的だった。
表彰式を見るためにバルコニーに戻ると、パドックが見事にライトアップされていた。再び騎手が登場して整列した写真を撮った。光る電光掲示板の後ろには庭園の木々。灯篭のようなライトが照らし出すパドックのあちら側。遠くに見える二棟のマンションの窓灯。切り取られた空間が、とても美しかった。
(壁紙にしよう)
そう思っている横で、娘も一心に写真を撮っていた。
上位の三人の騎手には特製の鞭が贈呈されるという。
「もう、いらんやろ?」
と話していたら、それぞれ金銀銅の鞭であった。
その後に行われるオークションは見ないことにして、二人で駅までの道を歩いた。いつもと違って、人影はまばらだった。計算してみると、今日騎乗した日本のマスターズだけで、通算勝鞍は一五、八一二にものぼる。ある意味、トップレースなわけだ。第一回、第二回と見られたことは、とてもラッキーだと思う。第三回も是非開催して欲しいと思う。
バスを待つ間、前に並んでいた三人のオジ様たちが、
「重馬場だったら、また違ったよな」
と展開していた。娘は小さな声で、
「だったら」
と言って笑っていた。私は昨日の嫌な気持ちを払拭していることに気がついて、一緒にちょっとだけ笑った。