たとえば
私は馬刺を食べない。
以前は大好物の域であった。しかし、競馬ファンには馬刺は食べないという人がたくさんいる。人知れず消えてしまった競走馬が食卓に並んでいるなんていうのは、ギャンブル嫌いな人々のちょっとした意地悪だとはわかっている。だいたい、パドックで見ていれば霜降る肉ではないことなど一目瞭然だ。
馬刺食べますというとそれこそ「ひとでなし」扱いを受けることもしばしばである。
「可愛がっているペットを食べるのか」
と見当違いな言いがかりをつけられることもあった。だから競走馬は皿に乗りませんから、といっても聞く耳はない。反対に全く気にしない人もいて、私が生まれて初めて食べた桜肉は随分昔からパット会員であった叔父が用意してくれたものだった。
だが、人と話をする仕事をしている手前、なんとなく食べなくなっていた。嫌だと思う人がいるのなら、あえて食べるものでもないなと思った。自他共に認める「チキン大好き」の私にしてみれば、鶏肉禁止は耐えられないが、桜肉禁止は特別苦痛でもなかった。
そんなこんなしていたあるとき、居酒屋で飲んでいた。大いに飲み、話しながら誰かが頼んだ牛刺を口に入れた。それが牛ではなく馬だったことはすぐに気がついたが、口に入れた一切れは完食した。別段気にも留めなかった。
しかし。
その後の連敗はひどいものだった。多分、食べたのは今頃。そしてその後馬券的中は十月か十一月あたり。もちろん買い控えしていたわけではない。買った馬はことごとく不利を受けたり、落馬したり。たまに買いにいけないと、三連単どころか五連単で的中などという不運に見舞われた。もちろん、馬刺のせいではないことはあきらかだけれど、そこは勝負師。「馬刺は食べない」ジンクスに決定、というわけである。
競馬のエッセイとしては不適切な話題から入ってしまった。それでも夏になると思い出すので申し訳ない。それとともに思い出すのが武豊氏の「にんじんは馬が食べるものだから食べない」という発言である。これは私も「牛乳は子牛が飲むものだから飲まない」と頑なに飲まないので大いに納得する。ようするに嫌いなのだ。
夏競馬というとみんなテンションが下がるが、もともと条件戦のほうが好きな私には関係ない。だいたい勝ちきれない「無事これ名馬」のファンなので、競走馬としての幕を閉じた後振り返ると、骨折やらの故障以外、生涯たいしたお休みはありませんでしたという馬が多い。私も今の仕事場になってから三連休を二度ほど取っただけで、仕事場自体が休みでないかぎり長期休養はしていない。そのあたりに自分を重ねているのだろうか。クラスをたとえてみても決してオープン馬ではない。夏を越えるたびに降級する千六百万条件馬といったところか。
先週のアイビスサマーダッシュのテレビ放送を娘と二人で見ていた。カルストンライトオの映像が懐かしかった。鼻面が白く馬っぽくないので愛称は「牛君」だったという記事を読んでいっぺんにファンになった。後期に主戦の大西ジョッキーの寡黙な感じも好きだった。サニーブライアンの
「一番人気はいらない、一着が欲しい」
というダービーでのコメントはあまりにも有名だ。娘も牛君はファンだったので二人で懐かしく見ていた。どこの枠から発走しても、一目散に外ラチ沿いへとやってくる見事なまでの徹底振りが小気味よかった。馬場を斜めに突っ切るのだが脅威のスタートダッシュで、目の前をカットされた審議とはならない。素敵な逃げ馬だった。
骨折放牧帰りのサープラスシンガーもスタートの上手い馬で、休む前に注目していた馬だった。結果は四着と馬券にはならなかったけれど、ゲートが開いた直後の進出には胸がときめいた。たとえていえば私は無難な先行馬だろうと思う。ディープインパクトのように追い込んできっちり届くのも羨ましい限りではあるが、引っ張っていく馬はもっと好きだなと思った。追い込み馬だったら上手くいくときは届くけれど展開によっては惜しくも届かず、というほうが共感するという点では好きだろうと思う。
まとめてみると私は、丈夫がとりえで何とか入着して、たまにメンバーに恵まれたりするとちょっと馬券にからんだりもして、飼い葉代は稼いでいるくらいの条件馬で、外枠が好きな先行から差し脚質の馬。決してサンデー産駒ではなく、かといって極端に珍しい血統でもない。白馬や栃栗毛のような美しい馬体でもなく、競馬初心者にパドックで、
「どの馬も同じに見える」
と言わしめるタイプの最たるものだけれど、実は他馬よりちょっと尻尾が短い。芝もダートも重馬場のときなら走るけれど良馬場は結構苦手だったりする。距離は二千では短いが二千二百じゃ、ちと長い。障害練習はするものの飛越が下手くそで結局平地のレースに出ている。そんなところだろうか。みなさまは自分をたとえるならどんな馬になるのだろう。
騎乗するジョッキーを選べるならば、できるだけ見せ鞭で済ませてくれるジョッキーがいいな。