ダービーデイ・後編
ダービーは第十レースである。
第九レースあたりから人の動きがなくなる。パドックにはたくさんの人が残っていて、今年のダービー馬を間近で見ようとしている。
ちびの私にはもう全体を見渡せる場所は残っていなかった。かろうじて人の間から、地下馬道から出てくる姿が垣間見えた。一番に入ってきた一番人気のディープスカイは、パドックの入り口で立ち止まった。あまりの人の多さに驚いたように、回りを見ている。それでも自分を見失うようなそぶりはない。しばらくじっと回りを確かめたあと、ゆっくりと歩き始めた。次々と入場してくる馬は、実にどうどうとしている。古馬と遜色のない鍛え上げられた馬体を悠然と誇示するかのようにゆっくりと歩く。それに比べると、私の穴対抗の馬はいかにも貧弱に見える。それでも今日、このパドックにいるというだけですごいことなのだ。ほんの少し見えていたパドックもすぐに見えなくなった。こんなに近くにいるのに、何も見えない。仕方なく画面が見える位置に移動する。
画面には騎手と関係者の方たちが談笑する姿が映し出された。しばらくして騎乗命令があり、地下馬道へと消えていく姿が映る。どこに行ってももう見えることはないと観念した私はそこでレースを見ることにした。
今日のレースは見といっていた馬友からメールが入る。やっぱりパットからながら参加するという。赤いドレスを着たオペラ歌手が歌う「君が代」が薄っすらと聞こえる。ダービーという雰囲気が遠巻きに私を包んでいる。パドックの画面前に残っていた人たちの間からはファンファーレにあわせての手拍子は起きない。ここは静かにしておかなくてはいけない場所なのだ。
ゲートが開いてスタートが切られると、
「八枠出遅れたな」
「あれ、五番が(ハナに)行くんじゃなかったっけ?」
と声が聞こえる。それぞれ別に知り合いでもなんでもない。私も五番がハナに行ってくれないと予想と違うと思ってみていた。緩やかなペースでレースは進む。
「遅い」
「前のこるか?」
四コーナーを過ぎても、ほとんど順位が入れ替わることなく進む。
「赤木……」
小さな声でつぶやいた瞬間、その馬体は馬群に沈んでいった。かわって大外からディープスカイが脚を伸ばす。
それは本当に見事だった。飛んでくるような走りに釘付けになって、内側の馬たちの攻防を見ていなかった。まだ第十一レースに出馬する馬たちのいないパドックもざわめきたった。あっという間の出来事だった。見事にすべての馬を置き去りにして、四位騎手は去年と同じく一番でゴールした。
二着は十二番人気のスマイルジャック、三着は私の宿敵武豊騎手騎乗のブラックシェル。そういえば、武豊氏こないで馬券の単複を買うの忘れていたことに気がつく。馬券も一番があるだけで、後の二つの番号は掲示板にすら載っていない。でも今日はそんなに悔しくない。ここのところのなんだか釈然としないレースではなかったし、なんといってもダービーなのだ。
本当は最終レースまで残っていようかと思っていたが、今日もお仕事があるので帰ることにした。人の波が興奮冷めやらぬ様子で、
「一番から流せば……」
「一、三着固定で流してたら……」
とタラレバ話を繰り返している。私はすっかり浮腫んでしまった脚をそれでも軽快に前に出しながら、ダービー出走の馬が消えた直後のパドックを思い返していた。
私も帽子をかぶっていた。ジャケットも着用していた。パドックのあちら側にいた女性たちは、美しいドレスを身にまとい、日よけではない美しい帽子をかぶっていた。足元は歩きまわるのに適したスニーカーではなくシンデレラのようなパンプスで、笑いながら写真を撮っていた。そちら側からならどんなに背が低くても苦労せずに馬を見ることができるだろう。同じ十二万人分の一人でも決して同じでない、世界を区切るたくさんの垂れ幕のかかったあの柵を思い浮かべた。
やはり一生に一度はあちら側の住人になりたいものだ。