ダービーデイ・前編
昨日までの寒さとはうってかわって、自分の寝汗で目が覚めるほど暑かった。いつものように目覚まし時計がなる手前で目が覚めた。なんだか面白い夢を見ていたが、そのまま眠っていたいとは思わなかった。そう、今日はダービーなのである。
さっさと身支度を整えて、行って来ますといいながら高いびきの娘を足下にし家をでた。まだ九時過ぎだというのに照りつける日差しがジャケットを通していても腕に痛い。乗り込んだバスはいつもより混んでいた。
府中駅でバスを降りて、少し早足で歩く。人影はまばらだが、なんとなく空気が違う気がする。いつもの自動販売機でいつもの少し硬い水を買い、坂を下っていく。
「このまま、まっすぐ突っ切れたらすぐパドックに着くのに……」
そんなふうに思いながらはやる気持ちを抑えつつ、高級車ばかりが並ぶ馬主専用駐車場の前を突っ切り正門前に着く。
特別な入場券はまだあったがレーシングプログラムはすでに一冊も残っていなかった。そこらへんに席とりのためにおいてあるやつをかっぱらってしまおうかと思うが、やめておく。
パドックに着いたとき、第二レースに走る馬たちが周回を始めるところだった。今日の目的の一つであるパドックである。去年のエリザベス女王杯の裏開催に参加したとき、横っ飛びを繰り返していたあの彼が出ているのだ。周回を重ねるその姿は、初めてみたときとは比べ物にならないくらい落ち着いていた。それとは対照に一番人気の馬が暴れまくっていた。
少し落ち着いたかと思うと小走りになり、二人で引いている厩務員さんから離れようと後ずさる。汗をいっぱいかき、何度も何度も回りの花壇に突っ込むほど後ずさる。しまいには寝転がって、馬体検査のために先に検量室前につれていかれるときにも、地下馬道へ続く入り口に向かうことを断固として嫌がっていた。しばらくして小走りに去っていった。
とまれの合図がかかるころには、まだ第二レースだというのに、パドックには大勢の人が集まっていた。スタンドを見上げて、これぞ黒山の人だかりというのだろうと思った。騎手の顔が見える。
私がダービーの穴対抗として選んだ馬には赤木高太郎騎手が騎乗する逃げ馬だった。もしかしたら三着には残るかも、という予想である。いつもはいろんな種類の馬券をたくさん買うが、今日は特別だから絞って勝負したい。前走もかなりの人気薄だったのだが、馬連の軸として買った。一着がなかったので馬券にはならなかったが、ダービーでもひょっとしたらひょっとするかもと思っていたのだ。その赤木騎手とお目当ての『彼』の馬券を購入したが五着と十着。それでもだいぶ競馬が上手になった彼をみて満足だった。
それからはたらたらと競馬場の中を歩き出す。いつもの蕎麦を食べにスタンドの四階まで上がって、汗をかきながら熱い蕎麦を食べる。頼まれていた馬券を買って、その写真をメールで送る。功労馬がいるところにいって、ユキノサンロイヤルに会おうと思ったら、今日はいないらしくちょっと不機嫌になる。気が向いたレースだけ馬券を買い、日本庭園のほうに下りていく階段で一休みする。
第六レースは二つ目の、四位騎手を間近で見るという目的のためにパドックに向かう。テレビで見るのと同じようににこにこしている。写真を撮ったけれど、正直誰だか判別がつかない。それでも心の中にはあるからいい。どうにも勝ちそうもない馬だけれどちょっとだけワイドを買っておく。レースではしんがりで帰ってきたけれどそれでもいい。
日差しが痛い。人がものすごく多い。座れる場所もないし、ジュースを買うのにもトイレにいくのにも長い列をまたなくてはいけない。それでも楽しい。馬券は一つしか取れていなくても楽しいのだ。ダービーデイに気楽な一人で競馬場にいる。なんという贅沢なんだろう。
私はただここにいるということだけで、幸せを感じていた。