ヴィクトリアマイル
『競馬観戦に行こうと思っていたのに、飲みすぎて玉砕、そしてウオッカも玉砕、よって私は粉砕しました』
競馬をやらない方にそうメールしたら、
『時系列、および写実的に説明されたし』
との返事をいただいた。その返事に書いたメールをそのまま転載する。
目が覚めると後頭部の内側で絶え間無く銅鑼がなっている。その部分をなるべく動かさないようにそうっと起き上がり、頭痛薬をラムネのようにかじった。昨夜飲んだほぼアルコールのような酒が、口の中だけでなく、すべての粘膜から肝臓へと水分を集中させているように思える。
今日はGIである。人ごみは苦手だが、調布での不発弾処理のため、競馬場までの交通機関が一部分断されている今日はいつもに比べれば少ないだろう。現地に行っての観戦は久しぶりだ。
――出かけるか
その計画はしつこく鳴り響く他人には聞こえないその音の前に玉砕した。
娘と二人、画面のこちら側から見たパドックは交通の便が悪かったとは思えないほど鈴なりだった。昨年のダービー馬が参戦しているからだろう。牝馬のダービー制覇が歴史的快挙であることは六十四年ぶりというところで紛れも無い事実だ。その馬を目の前で見たい欲求は競馬ファンとしては当然であろう。最近の成績が不振だとしても。
私には最近の不甲斐ない成績よりも鞍上の乗り替わりが不服だった。海外への進出を考え、その経験がある騎手を乗せたい気持ちはわかる。その騎手が一流である事も。だが私がまだ一勝馬であるころから追い掛け、やがてGIの舞台で脚光を浴びるようになった馬がことごとく彼に乗り替わる。そして故障してターフを去って行った馬がいったい何頭いたことか。
馬のことは応援しているが、心情的に馬券は買えないと思っていた。あのパドックでの様子を見るまでは。
画面いっぱいに映しだされたその馬体は、牝馬とは、前々走から二十キロ近いマイナス体重だとは思えないほど雄大に見せていた。真っ黒な背中は、夏の到来を思わせるほどの陽射しにぴかぴかと輝いている。左右からひかれている頭部のくっきりと白い流星が盛り上がった胸前の筋肉の動きに合わせぐいぐいと上下を繰り返す。後ろ脚は地面の感触をしっかりと確かめたあと力強く蹴り上げる。どの馬よりも、いやその場にいるだれよりも王者の風格を漂わせていた。
――負けるわけがない
不安材料がないわけではない。海外から帰っての初戦。大きなマイナス体重。自らレースを作ることはできない差してくる脚質。だがそれを一蹴するほどの輝きが彼女を包んでいた。私はその単勝二倍の馬を頭に馬券を買った。一切の迷いはなくなっていた。
大歓声の中、返し馬を終えたレディたちはファンファーレと手拍子の届かない競馬場の一番端にいた。発馬機内に吸い込まれていくたっぷりと汗をかいた馬が目にとまった。四連勝中のあがり馬だ。
――すごい汗だな
私はなんとなく彼女の体調を気遣った。最後の枠入りは大外。昨年の牝馬クラシック最終戦でダービー馬より先着した二頭のうちの一頭。鞍上は本日ダービー馬に騎乗する天才とうたわれるジョッキーの実弟。ゆっくりとゲートに近付き枠の中へと消えて行った。
ゲートが開くと歓声が沸き上がった。馬群はダービー馬を中心に、固まったまま移動していく。緩やかなカーブを回っていき、左手の大欅を過ぎたところで、縦だった隊列が横にかわり、直線をむかえた。
長い長い坂道を駆け上がってくる18頭に声援が跳ぶ。ダービー馬の前には先行した馬が壁を作ってはいるものの、鞍上はまだゴーサインを出さない。徐々に外へと持ち出し、残り二ハロンを切った。
鞭がとぶ。確実に一完歩ずつ他馬をとらえていく。全身のバネを伸ばし、縮めながら。風をよけるためにか幾分細めているような目は、ただ前だけを見つめる。誰もいないその先へ。競い合う馬体は一頭、また一頭とまるで桜が花を散らすように主役から背景へと形をかえていく。ゴールまであと四分の一ハロン。画面はまだ主役の座に君臨している三頭をとらえていた。
先に先頭に立った真ん中の馬に内と外から馬体が合わさっていく。二頭は着実に詰め寄っていくが粘る馬もそう簡単にはぬかせてはくれない。外側がダービー馬。
――届け、届け
ダービー馬が一着でも馬券の当たりはたいしたことないことにはもう気がついている。私の対抗馬は早々に風景に溶け込んでいた。懸命に走る彼女に再びの栄光を、勝者だけが通ることのできるウィナーズランの萌えたぎるグリーンの絨毯を……
「ウオッカ頑張れ! 抜かせ!」
口にだしたのは私ではなく、となりにいた娘だった。
――えっ!? いつのまにファンに……
ダービー馬の宿命のライバルは娘が一番始めにそして多分唯一ファンだったブルーリッジリバーの従姉妹であり、姪だった。桜花賞でのウオッカの敗北に心なしか得意げだったのだ。それに現場で回り中が声をあげているなかでさえ
「ママ、絶対叫ばないで」
というような娘が叫んだのだ。
私が一瞬ひるんだその時、三頭はゴールを駆け抜けた。真ん中の馬のリードは半馬身ながらも保たれていた。ダービー馬は2着すら微妙であった。内側で追われていた馬も懸命に食い下がっていた。グリーンのターフを悠然と戻ってきたのは、私が体調を心配したあの彼女であった。
結局、ダービー馬は二着を確保したが、私たちは黙っていた。沈黙の中で考える。
――早熟なのか
――引退で繁殖か
格は違えど、くしくもブルーリッジリバーがたどった道筋だ。
一着でないといけなかった。夢をつなげて欲しかった。復活を信じていた。粉砕した気持ちをかき集めるように、私たちは決して間違っていなかったその天才ジョッキーを悪者にした。
「安田記念、見に行こうか」
一縷の望みをつなぐように私はつぶやいた。娘の返事は聞こえなかった。