ゼッケンが好きか
「あなたが好きなのは、ゼッケンでしょう」
といわれたことがある。要するに『ギャンブルが好きなだけで、競馬が好きなのではない』ということだ。
たしかに、ギャンブルは嫌いではない。ほんの一時ではあるが、大昔、バイトもろくにせず、スロットばかりやっていた時期もある。だが、ほんの一時のことだ。今もパチンコはたまにやるが、新しい台が出て見学に行くとか、待ち合わせの時間つぶしであるとか、そんなところだ。
馬券にしろ、当たればそれはうれしい。最近は仕事の都合上、なかなか競馬場に脚を運べないから、もっぱらネットで馬券を買う。便利なもので年間の収支が一目でわかるようになっていて、現在の『貯蓄残高』から始まり、回収率、的中率、どの開催に勝っているか、どの騎手にどれくらい投資していて、どの騎手が私の財布を潤してくれているのかまで一目瞭然となる。そういう数字は大好きなので、結果はとても気になるし、できればプラスにして眺めてにやにやしていたい。
だが、それは結果に過ぎない。予想している過程や、レースを見ていることのほうがはるかに重要なのだ。
もちろん、勝つ馬を予想する。どんな形状の競馬場で、どの馬がどんな脚質で、どんなレースの流れになって、どの騎手の腕が一番さえわたるか。馬券を取れるということは、その読みがうまく行ったに過ぎない。
ある日、競馬場に着くと、パドックを新馬たちが回っていた。新馬とはいえ、最近ではみんなかなり作りこまれてから本番にやってくる。一番人気になっていた栗毛の馬も、とても初レースとは思えないほど雄大な馬体を誇示するかのように、ゆったりと歩いていた。だが、私の目を引いたのはその馬ではなかった。
他の馬たちに比べて、一回り小さい『彼』は、真っ黒な馬体でちょこちょこと歩いていた。パドックをできるだけ小さく使おうとしているかのように、うちへうちへと入りたがる。そして私の目の前で、必ず横っ飛びするのだ。
そこには建物の影ができていて、それに驚いてぴょこりと飛び跳ねる。一度ではなく、毎回だ。
(このこ、大丈夫かな……)
ゲートは結構大きな音を立てて開く。新馬戦で、グレードレースとは比べものにはならないとはいえ、ゴール前の歓声は馬にとってはかなり大きなものだ。こんなにたくさんの人間を見るのも、初めてのことだろう。びっくりしすぎて逃亡したりしないだろうか。怖くて暴れて怪我をしたりしないだろうか。
私は、予想した馬券の他に、『彼』の複勝馬券を買って、レースを見つめた。ゲートが開き、『彼』はなんとか前へ飛び出していった。
結果は、九頭立ての九着。前の馬からは九馬身遅れてゴール板の前を走りぬけて行った。
(戻ってこれた。よかった、よかった)
予想していた馬券がはずれたくやしさよりも、『彼』が無事帰ってきた安堵感のほうが、はるかに大きかった。
夢とロマンが語れなければ、競馬ファンではないというファンの人もいるが、公に金を賭けられる以上、『ゼッケンが好き』でも一向に構わないと思う。よく、売れたバンドマンが、
「バンドをはじめたきっかけは?」と聞かれて、
「もてたかったから」と答えるように、夢やロマンなんて後からついてくるものではないのだろうか。
『ゼッケンが好き』なレースもあれば『負けを承知でもこの馬券を買いたい』レースもある。どちらにしろ、私は競馬が好きなのだ。
ちなみに、あの日びりで戻ってきた『彼』は芝だった新馬戦から、二走目はダートへ変わった。体重も少し増え、三着に入線した。勝馬からはやはり九馬身離れてはいたが。一日も早く、未勝利戦を勝ち上がり、走り続けられる権利を得て欲しいと願う。