0. 銀の真鍮-5
◇
「よ、邪魔すんぜぇ」
緩やかな照明が照らす室内に、軽薄そうな男の声が響いた。ドアから差し込む陽の光が声の主を包み、その輪郭をぼかしている。だが、190センチ近い身長までは隠しきれていない。
室内を見渡して確認出来る人影は一人。長いカウンターの中でグラスを入念に磨く男だけだ。
黒のスラックスに白いワイシャツ、その上に黒のベストを羽織り、首元にはこれまた黒の蝶ネクタイが鎮座している。その様子を見れば、ブラウンの頭髪をオールバックに撫で上げた厳つい顔を見たとしても、一目でバーテンダーだと言う事が分かるだろう。
「ドアの前にはクローズと表札が出ていたと思うんだがね?」
「ははっ、ドアが開いたんなら、そりゃ開店しているって事だぜ? なぁ、マスター」
カウンターから睨む店主の眼光など、どこ吹く風と受け流し、男は声同様に軽薄そうな笑を浮かべてカウンターへと向かう。
閉じられたドアが陽の光を遮り、室内の蛍光灯が男の姿を捉えた。夏場であるにも関わらず羽織られた黒いショートコートが目を引く。その下には反対に明るい色が添えられている。ストライプの入ったグレイのシャツに、白のデニムパンツとベージュのシューズと言った装いは、男の雰囲気を軽くしていた。
そして、牧師と言う訳でもない筈のその腰には、一つ巨大な十字架と思わしき物が吊り下げられていた。
奇妙な、珍妙なその姿を、店主が苦笑して出迎える。
「全く、何度言っても聞きやしないな」
「だったら鍵も掛けようぜ」
堀の深い顔は30前後と言った所だろうか。無造作に刈られたグレーの髪に、同様の色を表す瞳はややタレ目気味。一見すれば、軽薄そうな声と表情とに相まって情けなくも見えそうだ。が、少しこの男に注視すれば、それらは寧ろ余裕の現れへと雰囲気を変えるだろう。
「何時ものをダブルでか?」
「いんや、これから仕事。つー事で、グレープフルーツジュース頼んわ。氷タップリな」
気の抜けそうな声で発した男の注文に、店主が軽く溜息で返すと店の奥へと消えて行く。男はカウンターの席に腰掛けながら、その様子を見送った。
暫くして、店主はグラスに翡翠色のドリンクを持って現れた。
「ご注文の品でございます」
店主が恭しく頭を垂れながら、グラスをカウンターの端から滑らせる。グラスと氷が奏でる涼やかな音色が室内に響いた。
「おー、あんがとマスター。やっぱ仕事前は柑橘類に限るねー」
僅かに嫌味の込めれた店主の声を、だがやはり気にも止めずと受け流し、男はカウンターを滑るグラスを鮮やかに掴み取る。そして、そのグラスを流れるように口に運んだのだった。
柑橘類独特の酸味と甘味が口に広がり喉を潤し、疲労した体に染み渡る。
その様子を訝しげに眺めていた店主が男に尋ねてくる。
「最近はよく働いているみたいだな」
「みたい、じゃなくて働いてんのよ。昨日もクイント退治にお、出、か、け。ホント最近多いんだわ。ま、稼げるからいいんだけどよ」
昨日は山中に現れたクイントの処理に追われていた。漸く終わったかと思った所に遭難者の探索、及び救出が追加されたのだ。日頃の行いは悪く無い筈だが、運悪く電波が届く範囲に居たようだ。
お陰で徹夜で山中を歩き回された。その割に報酬は然程良くはないのが、現代における人の命の値段なのだろう。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「大丈夫だろ? 少なくとも今この時まではさ。そっから先は保証できねーけどな」
グラスに注がれたジュースを3割程喉に通して、男は大きく息を吐いた。余り景気がいいとは呼べないその姿に、店主も溜息混じりだ。
グラスに残ったジュースの海に浮かんだ氷山を軽く叩き合わせ、男は言葉を繋ぐ。
「ま、少なくとも市街地までは来る事ねーから。よっぽど街道外れて彷徨ってなきゃダイジョブだよ」
「そうか。なら、俺には関係無いか」
「殆どの人間にゃ関係ねーよ。今時クイントに殺されるなんざ、軍人か俺達みたいな連中だけだ。よっぽど運が悪くなきゃぁな」
覇気のない声で呟いて、男は朧気に視線を宙に彷徨わせる。その様子に店主が再び苦笑した。そして、カウンターに肘を付くと男に向き直り話し掛ける。釣り上げられた口角が、何処か優しげだった。
「そんな余程に運の悪い奴らのためにお前が居る。そうなんだろ? カテゴリーA己顕士オクターヴァ」
「はっはぁ! マスター、悪いが俺はご期待には添えられねぇぜ? そいつは所謂正義の味方って奴だろうさ」
男は一息で店主を笑い飛ばし、軽薄な笑みを浮かべる。が、その様子は寂しげな、そして哀しげな面持ちを湛えていた。
「正義の味方、ね。そっちの界隈で少々噂になっている2A、3Aクラスの仕事をガンガン片付けているとか言う、戦闘集団とかの事か?」
「あー? 何それ? まーた変な都市伝説出てんだなー」
男は店主の言葉に表情を崩し、それまでとは一転して呆けた顔をする。尤も、直ぐに軽薄そうな笑みに切り替わっていたが。その様子を店主が訝しがり、男へと問い掛ける。
「ここに来る若い連中が、よくそんな話をしていたぞ? あれに出ていりゃ一攫千金だったとかも含めてな」
「バッカだねーそいつら。行った所で何にも出来ずに死んでんよ。遺体の回収、保険金の支払い、何もしない方が遥かに有能だわ。てか、俺もまだ若いつもりなんだけどね?」
男は店主の声に間髪入れず呆れ顔で答えていた。表情にしても声にしても、心底に呆れた事を表すのに相応しいものだろう。自身の実力も解さず、口だけ達者な連中は何時でも何処でも邪魔でしかないと言うのに。
「そいつらがバカだと言うのは……まぁ同感だが、噂の元ネタさえも分からんのか?」
「何言ってんだよマスター、言ったろ? 正義の味方だってよ」
「いや、俺にはさっぱり分からないんだが……」
男は店主の問い掛けに曖昧な返事をし、軽薄そうで皮肉気な笑みを強めた。その笑みを理解出来なかったであろう店主が呟くさまを肴に、男は楽しげにグラスをあおる。
「ま、皆所詮は絵空事だと思ってるんだろうさ。俺だって見た事ねーけど、多分本当なんだぜ?」
「いや、本当に何の話なんだ?」
男の口から漏れる曖昧な言葉に、店主が眉を顰めた。一見すれば睨んでいるようにしか見えないのだが、単に思案顔なだけなのだろう。
別に焦らすつもりはなかった。それで分かるだろうと思っていたのだ。ただ、世間ではそれらの能力は遥かに過小評価されていると言う事だろうか?
確かに、余りにも度の過ぎた能力は認識し辛いのだろう。そう思い、男はグラスを片手で弄りながら、苦笑と供に口を開く。
「天窮騎士の事だよ。そんでもって一人、割りと自由の効きそうな奴が居るだろ? 数年前の事だから、マスターが現役の時の筈だぜ?」
「俺は一応現役だ。己顕士辞められるのなんざ、それこそ死んだ時だけだろうが、って……レイロード・ピースメイカーって奴の事か?」
店主の口から、今度こそ欲していた答えがもたらされ、その事に男はまたも苦笑した。
男が知る限り、この店主はカテゴリーB己顕士だ。所謂"一般的な最強の己顕士"の一員である。そのレベルでも最早、天窮騎士が国家に匹敵する戦力、など眉唾物なのだろうか。
いや、寧ろ自身が昇れる所まで昇ってしまったがために、その遥か先の展望が見えなかったのだろう。
「そ、何処からともなく現れて、皆が困っている超級難度の化物退治を次から次へと片付けて、誰にも知られず颯爽に去って行く……ほら、正義の味方っぽいだろ?
何が良いんだかね……正義の味方なんぞ、結局何にもならないってのにな……」
男は口角を上げて告げると店主を見やった。その姿に得体の知れない迫力を感じてか、店主が一瞬口をつぐむ。
男はそれ以上口にはしなかった。話の続きも、グラスの中身にも。
嫌な沈黙が場を支配しそうになった事を霧散させようとしてか、店主が声を上げる。これも、己顕士相手のバーを切り盛りする店主の胆力かも知れない。
「その、正義の味方ってのは、莫大な報酬も掻っ攫っているのかね? だとしたら、きっと金の味方だぜ?」
「ははっ、だったらいいんじゃね? 金のために戦うってんならよ。正義の味方より、金の味方の方がずっといい……」
男は項垂れると、グラスの中身を少しばかり口へと注ぐ。何故か意気消沈して見えるその様子に店主は訝しんだが、軽く笑いながら問い掛けた。
「ははっ、何だか知った口を利くな。何だか正義の味方に恨みでもあるように聞こえるぞ?」
「んー? あー、恨みっちゃー恨みかね。"元"正義の味方としてはなー」
「元?」
男から発せられた内容に、店主の怪訝そうな視線が注がれる。男の様子は泥酔して呑まれたようにも見受けられるが、飲んでいる物はグレープフルーツジュースだ。
店主の怪訝な表情は、男の話だけではなく、間違えて酒でも入れたかと思ったのかもしれない。それを知ってか知らずか、先とは変わり、男はボツボツと話を続けていた。
「そ、出来ると思っていたし、出来ていたんだよ。昔はな。
どっかの誰かも知らない奴のために命を掛けて、どっかの誰とも知らない奴らの命を天秤に掛けて、どっかの誰かも知らない奴を救う……。
結構簡単だったのさ。俺にとって正義の味方ってのはな」
「お前……」
男が語る言葉に、店主が何か言い掛ける。しかし、それを遮って男は矢継ぎ早に続けた。
「所がだ!」
一言叫ぶと、カウンターを両掌で叩きながら天を仰ぐ。そこから発せられた言葉に暗さはなく、何かに観念したかのように朗らかなものだった。
「なーんの因果か知らないが、天秤に掛けられない奴が出来ちまった……って言うか気付いちまったのかね? いや、気付いていないフリを出来なくなった、が、正しいのかねー。
ま、そんな事があってさ、そしたら、どっかの誰かのために命を掛けられなくなった。そしたらもう正義の味方は廃業だわな。そのまま行ってりゃ今頃俺が天窮騎士だったろうぜ?」
「お前……それは単なる逆恨みだろう……」
再び軽薄そうな笑みを浮かべた男に、店主が呆れ顔で首を振っていた。今までの話では、男が本来なれる筈だった場所に別の誰かが存在し、その事への嫉妬や八つ当たりに聞こえたのだろう。
「いやいや違うって。俺は今のままでいーんだよ。違うな、今のままが良いんだよ。ただなー、もっと早くに気付いてりゃーなっ、てよ。そー言う恨み事だよ」
再びグラスに手を付けた男の内に、嘗て聞かされた言葉が蘇って来る。
――君はきっと、誰かを一番に見る事は出来ないから――
――俺ではお前の足を引っ張るだけだ。お前の目指すものの邪魔にしかならい――
――私を助けたから、貴方の意思を、存在意義を壊してしまった――
もっと早く、正義の味方を卒業していれば、友を苦しめる事もなかったのかもしれない。自然と自嘲してしまう。様々な想いが男の中を駆け巡り、結果的にいい加減な言葉として口を衝いて出る。
「あー、これも全部レイロード・ピースメイカーって奴の所為だな」
「お前……それこそ逆恨みだろう……」
「そりゃ、そのつもりで言ったからな」
「お前……」
再び呆れ顔で放たれた店主の苦言を、男は笑って受け流した。
お前の邪魔にしかならない。そう言ったあの男は、結局どうなったんだろうか。愚直に刃を振り続けたあの少年は。天窮騎士になると呟いたあの年下の先輩は。大して才に恵まれず、何時しか追い抜いていたあの相棒は。
「あいつには、誰か居るのかねー」
何故今になってこんな事を思ったのか。考えて答えが出るなら幾らでも考えるが、答えは出て来そうもない。過去の思い出を掘り起こしていた男の呟きは、無意識のものだった。
「ん? お前さんの理屈だと、大切な人がいるなら、そうは成らなかったんじゃないのか?」
「へ? あー、そうだったな」
何時の間にかグラス磨きに復帰していた店主が、呟きに反応する。が、示す所は、二人の間では既に別物であった。それを誤魔化す訳でもなかったが、男はグラスに残った翡翠色のジュースを流し込む。そして、すっかりと干上がったグラスを叩き付ける勢いでカウンターに戻し、勢い良く席を立った。
「はい、ごっそさん」
「ああ、とっと帰れ」
「いや、だから今から仕事だって」
虫でも追い払うような仕草で手を払う店主に苦笑しながらも、男は懐からPDを取り出す。入り口近くのレジを通り過ぎざまPDを翳し、会計を済ませる。その背中に追い打ちでも仕掛けるように店主の声が届いた。
「フン、店から出て行く事に変わりはないだろうが」
「あー? ま、そりゃそうだ」
男は首だけで振り向く。その瞳は実に眠たそうな倦怠感が漂っていたが、相槌を打った際には既に、軽薄そうな笑みを浮かべていた。
その顔を店主から背け、ドアへと向かわせると、無気力そうに片手を上げる。
「そんじゃまぁ、どっかの誰かのためじゃなく、愛しいあいつのために働いてくっとしますかねー」
歯の浮くような台詞を別れの挨拶として、男はドアの先から差し込む日の光の中へと消えて行った。
筈だったのだが、男は顔だけを店内に戻すと軽薄そうな笑みと共に口を開く。
「あー、マスター。やっぱ果汁に氷はねーわ」
「お、お前が入れろと言ったんだろうが……」
呆れ顔の店主に口角を釣り上げると、一言置き土産を残した男は、今度こそ光の先へ消えて行った。
◇