4. 故に死者は歩く-3
それは、フルールが想定していた中で、最悪の事態だった。先の通路から、忽然と白い影が飛び出してきたのだ。
遅れて、長い黒髪と朱のマフラーが靡く。だが、間に合うとも思えない。となれば、遙か格上のフェイスレスを、僅かでも凌がなければならないと言う事だ。
そうしなければ、最悪よりも事態は悪化する。何故か沸き起こった、吐き気にも似た強迫観念に、フルールが頭を抑え掛けた時、フェイスレスが両腕を共に自身の左へと振りかぶった。フルールから見れば右から斬撃が来ると、左へ避けようとした瞬間、
「左っ!」
「右だッ!」
桜花とレイロードの叫び声に、フルールの視線が左右に泳いだ。
何故右なのか、左ではないのか、と、一瞬迷うも、体は左に跳ぼうと動き出している。無理矢理止めて時間を失う訳には行かず、フルールはラナを引き摺りながら跳ぼうとした寸前、脳裏を、体全体を、焼き尽くすような、おぞましい既視感が襲い、網膜に何かの光景が焼き付く。
消える桜花、断ち切られたフェイスレス、無気力に佇むレイロード。
左はダメだ、絶対にダメだ、何がダメなのかは分からないが、兎に角ダメだ。何としてでもダメだ。奥底から湧き出る焦燥感に突き動かされ、フルールは我武者羅に体を動かした。
「あああアアアアアアァァァァァァ!」
『なに……?』
フェイスレスが呟くが、それの意味する所を考える余裕はない。左足に力を入れ、傾いた重心を無理矢理立て直す。急激な動きの変化に、体が軋み悲鳴を上げるが、構わず加速し、ラナを引き摺りながら"右"へと跳躍。
「おぉうえぁ!?」
ラナが得体の知れない呻き声を上げるが、構ってはいられない。まだ足りない。声にもならない声を上げ、フルールは力を振り絞った。
「つぅうううっ!」
左端に、紅い煌めきが差している。距離が足りない。型が許すギリギリの範囲で、力任せに細剣を振り抜き、死の刃を弾き、衝撃で加速。当然の如く体は崩れ、禄に着地出来そうもない。だが、絶望感はなかった。当のフェイスレスに、明確な困惑が見て取れる。
『何故……』
それ以上に――。
「ゼロっ! 遅いんですよっ!」
――桜花の拳が、フェイスレスに叩き込まれていたからだ。
フェイスレスが爆発したように吹き飛ばされ、轟音を掻き鳴らしてコンクリートの壁をぶち抜きそして、数枚目の壁でもって、貼り付けられるようにして漸く止まる。周囲の被害は大きいが、ビルが崩れる程ではない。
「っ、たす、かった……?」
「へあ……?」
「一先ずはな。桜花」
呆けたようなフルールとラナの呟きに、追いついたレイロードは、そうとだけ答えながら3人の前に出る。普通に考えれば、あの一撃で幕は閉じていたのであろうが、そも、普通と言える相手ではない。事実、己顕で編んだ白いローブは消えていない。油断は出来なかった。
「手応えは在ったんですけどね? 異様に硬かった。強いて言うなら……ふむ、そうですね、分厚い耐衝撃性強化樹脂でも殴ったような……ああ、そうか、人工筋肉……」
「……そうか、クイントか……」
「ええ、あの感触に似ていますね。まぁ、そんな事よりも矢張り、空間を隔てて尚、伝わって来た、ざわめきの方が問題でしょうが……」
拳を見つめ答えた桜花に、レイロードは瓦礫に埋もれたフェイスレスを見る。だとしても、相応にダメージは通っている筈だ。そうでなければ、攻撃を躱す必要性がない。何より、生物よりも遙かに頑健な体躯を持つクイントと言えど、桜花の打撃に耐えきれる訳はないのだ。とは言え、攻められる時に攻めるのは定石。
「ラナ! フルール! 大丈夫!? 生きてる!?」
「うえ~い、何とかね……首痛いけどね……」
「だい、じょうぶ……」
二人に駆け寄るレオルを横目に、レイロードは明鴉12振りを展開する。
「要ります? それ?」
「減るもんでもない」
「目に見えて減りますよ?」
半目で視線を送ってくる桜花を手であしらい明鴉を射出。直撃、の寸前、瓦礫を押しのけフェイスレスが上へと跳ね飛ぶ。明鴉は瓦礫の山へと突き刺さり、フェイスレスは天井を蹴って再び戻る。背後で誰かが息を呑み、隣からは桜花の嘆息が聞こえた。
「頑丈な……しかし、再生しているようにも見受けられませんが……」
「ハッ、誘いとも限らん。気を抜くな」
言って、経口タブレットを放り込むレイロードに、桜花が肩を竦める。その先で揺らめく白いローブの足取りは覚束ず、肩で息するようにも見える。その姿は、前後不覚もかくやと言った様相だ。
尤も、見た目通りかは判断に苦しむ。誘いの可能性は捨てきれず、桜花の眼も当てにならない。レイロード達が、その答えを得る前に絞り出された物は、フェイスレスの声。戸惑い、困惑に満ちた声だ。
『……私は……私は何を……何を忘れている……? 何故、変わった? ……そうだ、忘れている……何かを忘れている……何だ……? ……何を……忘れた……?』
「……おい、何だ急に? どうしたんだ、アレは?」
訳が分からずレイロードは眉を顰めたが、その隣では、どうでもいいと言うように、桜花が鼻を鳴らす。
「知りませんよ。大方長生きし過ぎたんじゃないですか? 記憶にも限界はあると言ってましたしね。実体験だったのでは?」
「ああ……それで記憶のバックアップか。ハッ、長生きも考え物だな……まぁいい、ならば早々に斬り落す」
合点がいったとレイロードは頷いたが、同時に、フェイスレスの態度が誘いではない可能性も高まった。ならばと柄に手を掛けるも、貌の見えないフードの下で輝く何かを垣間見、一旦矛先を引かざる負えなかった。
『……違うな、何もかも違う……私は死んでいる……死んでいるのだ。君にとってもそうなのだろう? 過去の消失は死だと。ならば、過去を失い続け、名すら忘れた私は何だ? そうだ、死んでいる。死に続けている……。
永遠の掃き溜めの中で死に続ける……そうだ、私は不死ではない。常死……それこそが私だ』
「……何だ今度は饒舌に……まぁ、そうそう上手くは行かんさ……」
「また何を気取って……」
再び双剣を掲げたフェイスレスの姿に、余計な事を言ったかと、眉を顰めるレイロードだったが、歪む眉根の原因は、それだけではなかった。どちらに向けられたのか判別できない桜花の半目もある。しかし、最大の原因は、背後から漏れ聞こえた声。色濃い困惑を孕んだ、フルールの声だ。
「とこ、しに……? 私は……聞いた……? ……何で? 何時? ……アウトスパーダ? ……死と……享受……? うっ……え……? アナザー、デイ……? あれ……? なにこれ……きもち、わるい……」
「ちょっ、なに!? どったの!?」
「ラナ、揺すらない。フルール、落ち着いて。大丈夫、深呼吸、ほら」
嘔吐感に見舞われ崩れ落ちたフルールを、ラナが慌てて揺すり、それを咎めながらレオルがフルールの背を摩る。釈然としない面持ちで、レイロードはその様相を見やっていたが、引っ掛かりは少なからずも口に出ていた。
「今度はこっちか……一体何処から拾ってきた……」
『メモリーリークを、起こしたのだろう』
些細な疑問に答えたのは何故か、双剣に目を落したままの、フェイスレスその者から。相も変わらずな訳の分からなさに、レイロードは盛大に眉根を寄せる。
「……何の事だ? 何を言っている? 答えろ……」
「いえ、聞いた所で、答えなどないでしょうよ……」
問い掛けたレイロード自身は、至って真剣であったが、桜花が呆れたように半目を飛ばしてくる。言われてみればそうかと、眉根を寄せるレイロードへの返答は、振り上げられた右の一撃。
『……っ!』
「チッ……!」
「ほらっ! 言わん事はない!」
レイロードは舌打ち混じりに柄へと手を掛け、桜花がしたり顔で吠えるがしかし、届けられたのは、剣撃だけではなく。
『……このイレギュラーナンバー、アナザー・デイは、情報を蓄積するメモリーだ……』
「っ……!?」
唐竹に振り下ろされた一撃を、抜刀時の柄尻で捌き、一太刀返しながら散開。黒閃は、桜花を牽制しながら奮われたフェイスレスの左剣によって、軌道を外され空を切る。
『先の切り結びで、蓄積されていた記録が漏れ出し、あの娘に転送された……』
「何だそれはっ、俺には何も見えなかったッ! っ待てッ!」
「ああっ! もうっ!」
一歩引いて左薙ぎを回避、がら空きの背へ拳を撃ち込まんとしていた桜花を諫める。フェイスレスの攻め手は緩やかで、当たりようはない。ならば、突如始まった問答の時間を稼ぐ方が遙かに重要に思えた。フェイスレスが握る左右の剣がそれぞれ、桜花とレイロードに向けられる。
『……あの娘が特殊なのだ……』
「ほう? よもやそれで狙ったんですか? 手の内が知られぬように? つまらない動機だ」
嘲笑うかのような桜花の問いに、フードの奥底に沈んでいるのであろう貌が、3人に、蹲るフルールに、そして、ラナに向けられた。何故か怯えたように赤毛が跳ね、消え入りそうな程に、か細い声が漏れ出す。
「……ちがう……」
『……いや、違う……私は、栗毛の娘を狙った……』
それを無視して放たれたフェイスレスの言葉は、一瞬、ほんの僅かではあったが、確かに時間を止めた。それが1秒であったのか、2秒であったのか、そもそもそれ程の時間も経っていないのか、レイロードには分からなくなっていたが、凍り付いた時間を砕いたのは、ラナの場にそぐわぬ妙にコミカルな驚愕だった。
「…………はぁ!? あたしっ!? いや、な~んでよっ!? なん~でそこであたしよっ!?」
「いえ、ほんと脈絡ないんですが……」
目を白黒させて見開くラナに倣うように、桜花もまた、気の抜けた声を漏らす。が、と同時に、眼前の刃を拳で弾き、右回し蹴りを撃っていた。瞬間、フェイスレスが即座に身を引き躱す。相変わらず回避性能は異常と言って言い。レイロードは明鴉12振りを、ラナとフェイスレスを遮るように展開し様子を覗う。眉間が嫌に強ばった。
『そうだ、脈略などない。ただ、それを願った者がいた。故に叶え――』
「――ちがうっ! そんなことわたしはっ!」
感情の見えないフェイスレスの言葉を、悲痛な叫びが切り裂いた。桜花のような眼を持たないレイロードにも、まるで視認できる程の痛みを、その声に覗かせて。
「ふるーる……?」
訳が分からないと、ラナが小首を傾げる。そこには、先程までに覗かせていた、奇妙なほどの気力はなく、抜け殻のように空虚な声だった。そんなラナに向けられたフルールの貌は、道に迷った幼子のように怯え、吐き出された声は、今にも消え去ってしまいそうな程に脆く、上擦り掠れていた。
「ち、ちがうっ! わたしはっ! ちがうっ! そうじゃ――」
縋るように叫ぶフルールの声を、酷く冷淡で無感情な声が阻んでいた。
『――願わなかったと』
「黙ってろッ!」
レイロードは咄嗟に明鴉で斬り込むが、梨の礫。尽くを躱され、捌かれ、フェイスレスの口すら封じる事は適わなず臍を噛む。
言葉は刃だ。姿無き刃。それ故に、誰にも届かず、誰にでも届く。そして時に、鉄の刃よりも、深く刻まれる。事実、今、その刃は届いていた。
『瞬き程も抱いた事はないと、その胸中に。誓えると? 君の剣に』
「それ……それはっ! ……それ、は……」
「……そう、なんだ……」
最初こそ、力の込められた声はしかし、一瞬にして気勢を失い、消え入りそうな、寧ろ、何処かに消えて霧散していた。ラナの声も、また。
レイロードは殊更に歯噛みした。必要以上に握り込んだ拳に、柄巻きが短い呻きを上げる。愛刀の悲鳴に、強ばった掌を無理矢理開き、何とか握り直す。鬱憤と不甲斐なさを押し込め、せめて一太刀とした所に、場違いな程朗らかに、レオルの声が響いた。
「う~ん、でもそれってさ、仕方ないんじゃない? だってさ、ラナ、時々クソウザくて、つい、死ねって思ちゃう事あるからさ」
「……え……? ……れおる……?」
笑顔で話すレオルにラナが、何を言われたのか分からないと、呆然とした瞳を向ける。それはまるで、世界にたった一人残されたかのような空虚さに満ち、深淵へと引きずり込まれてしまいそうであった。
それを一瞥したレオルは突如、何故か死んだ魚のような瞳で何処かを見据える。出てきた声もまた、抑揚のない呟き声だった。
「俺のプディング勝手に食べた時とか」
「…………………………………………へ?」
「俺の、プディング、勝手に、食べた、時、とか」
気の抜けた吐息を漏らすラナに、レオルが濁った瞳でもう一度、嫌に強調して繰り返す。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!?」
対するラナの返答は、耳をつんざく絶叫を鳴り響かせる事だった。
しかしそれは、曇り空から差す光にも似て、それまでの陰鬱な空を、何処かへと吹き飛ばし、力強い夏の日差しを、確かに呼び込んでいた。
「っっっんっ! っっっな事で殺されて堪るかってのっ! ぶぁぁぁっかじゃないの!? FFFFFuckingggg nowwwWWW! uuuuUnderstaaaandddDDD!?」
ラナが噛みつきそうな勢いで、レオルの肩を揺さぶるが、当のレオルは何処吹く風と、ネットリとした視線を送り続ける。鼻から抜けたような溜め息が、無駄に辛辣さを助長する。
「は? 何言ってんの? グリーンフィールドの家が送ってくれたプディングだよ? 沸いてんの?」
「ひっっっとつやふたついいじゃん!?」
「え? なに? 今まで何個俺のプディング食べたと思ってんの?」
「おっぼえてる訳ないじゃん!」
「だからそんだけ食ったんだよね? 舐めてんの?」
「うっわ、小物くっさあ! くっっっさぁぁあ寄んな臭う!」
酷く無様な醜い言い争いに、フルールがキョトンと首を傾げる。レイロードは何とも言えず、居たたまれないような表情で目を逸らせば、何やら眠たげな桜花の半目と視線が合う。黒真珠の瞳に奔る己顕光は、切れかけの電球のように疲れ切り、何がそんなに一大事なのかと、レイロードに訴え掛けていた。
「……その、何だ……アルフォード人にとってのプディングは……お前にとっての、犬みたいな物だと思えば……」
「ああ、それはダメですね、仕方ない」
「……なんてひどい……」
あっさりと納得するする桜花の声に、フルールの呟きが紛れ、レイロードが気怠げにラナを見れば、案の定。
「オ前もかぁぁああああっ! ちっちゃいわぁあああ! デカいのは胸だけかぁあああ!?」
「ちょっ!? そこは関係ないでしょ!? やめっ!?」
耳聡く反応したラナが、矛先をフルールへと変えると、レイロードの隣で無気力に佇む誰かとは違う、無駄に豊
かな胸部を鷲掴んで押し倒す。身を守ろうと、フルールが必至に身を捩るが、追及の魔手は緩まない。
「つーかなにこれ!? 何か硬い!? あれかっ!? 偽物かっ!?」
「ちぇ、チェストプロテクターに決まってるでしょ!? そっちも結構あるんだから付けてるでしょうが!」
「付けんわっ! 邪魔くさいっ!」
「んなっ!? 体軸1ミリブレれば、剣先1センチはブレるのよ!? もっと気を遣いなさいよ!? 己顕士に胸なんて邪魔なだけなんだからっ!」
かしましい2人の姿に、汚物でも見たかのように目を背けたレイロードだったが、だからと言って二人の喧噪が留まろう筈もなく。
「残念! あたし剣使いませんからっ!」
「なにその屁理屈!? 無手だって関係あるでしょっ!? 装備のセオリー無視してミスったなんて、目も当てられないじゃないっ!」
レイロードの視線の先には再び、やる気の喪失した相棒の淀んだ瞳。何とも言葉に詰まり、桜花にも存在する話の焦点となっていた部位に、何となく視線を逸らした。
「……そうなのか……?」
「ん? ああ……ええ、まぁ。私くらいのプロポーションが、高機動型女性己顕士としての最適解くらいですよ。あの二人はもっと絞るべきですね……まぁ、今はそれ以前の問題ですが……」
「……まぁ、そうだな……」
それなりに慎ましい胸元に指を立て、何時もの得意気なポーズを採る桜花だが、ヘナッとした指先だからなのか、眠たげな半目だからなのか、何時もの華やかさは感じられなかった。
「大体っ! 今回だって、暑いから~、なんて言って肌出してっ! それで結局怪我したじゃないっ!」
「あ、あんな状況想定できるかぁぁあああっ!」
何か大事な事を忘れている気もしたが、色々と面倒になったレイロードは、窓辺に映る茜色の空へと思考を放棄した。尤も、だからと言って、実りのない論争が絶える事はなかったが。
「はぁ!? 普通の装備してれば問題なかったでしょ!? そもそも肌出すなっ! ああ……もうっ! 何時も何時もっ! 昔っから何でそう無神経なのっ!?」
「はぁああ!? 気ぃ遣ってんじゃん!? むしろ気遣いの達人じゃんっ!」
「どっ、どこがっ!? もうそれだけで十分無神経なんじゃないっ!? ああっ! いい加減っ、は、な、せっ!」
遂に我慢の限界に達したのか、フルールが歯を剥き出し、ラナの頭を強引に押し戻し振り解く。引き剥がされたラナが目を見開き、バランスを崩して尻餅を付くも、結局、燃え上がる火口に燃料を投下しただけ。そのまま大の字に倒れると、自棄になったかのように捲し立てる。
「はあーーーー! うっわっ!? なに暴力!? 暴力!? 口で勝てなきゃ暴力ですかぁ!? そりゃあたしじゃ敵いませんからねえーっ!? あーそうあーそう! あーええですやんっ!? 好きにしたらええですやん!? ころしたらええんやないですかぁーーーーっ!?」
「っ……! なに開き直ってっ! そう言う所が無神経だって言ってるっ! 私はっ! ――」
フルールが、その赤毛にも負けない程、燃え上がるように眉と目尻を釣り上げ、拳を力強く握り上げる。音すら聞こえて来そうな程に力の籠められた全身はしかし、不意に糸が切れたかの如く緩められ、吐き出された声もまた。
「――私はラナに、死んで欲しくない……殺したくなんて、ない……何で何時も、無神経なの……?」
「…………」
その声を向けられたラナは、それまでとは一転、気まずそうに眉を歪め、ノソリと上体を起こす。そして、暫くの沈黙の後、掠れた声で呟いた。
「……ごめん……」
「っ……ごめん……」
それはフルールも同じく。共に謝意を口にした少女二人はしかし、バツの悪そうに顔を伏せたまま。桜花を見れば、つまらなそうに眠たげな瞳を向けていた。
レイロードは、どうした物かと口を開き掛けたが、結局、場を収める言葉が見つからず、溜め息だけが漏れ出した。代わりに、とでも言うように、落ち着いた柔らかさを持って、レオルの声が届く。桜花が何故か、ギョッとしたように目を見開いたが、意味は分からなかった。
「よっし、これで二人とも、少しはスッキリしたんじゃない? まぁさ、長く一緒に居る人だとさ、その人の良い所が普通になっちゃって、たまに見える嫌な所の方が目に付いて、積もり積もって、心にもない事、考えちゃう時もあると思う。それもしょうがないよ。完璧になんて生きられないし。
でもさ、気を張りすぎて、それを悟られないようにして……そんなんじゃ、何時か頭のネジ飛んじゃうって」
悪戯っぽく笑うレオルの顔に、レイロードは何かの翳りを見た。桜花もまた、その姿に目を細めている。それは多分、見知った誰かの事だったのだろう。だからと言って、口出しする事でもなく、レイロードは静かに胸の奥に収め、レオルの声を聞く。
「だからさ、こいつ程じゃなくてもいいから、フルールはもうちょっと、不真面目に生きてもいいんじゃない?」
言ってはにかむレオルに、ラナが不機嫌顔で口を尖らせたが、何か言う事はなく、僅かに微笑んだフルールが、言葉を噛み締めるかのように、静かに頷く。
「不真面目に……か……うん、頑張って、みる……」
「ちょ~と、それ頑張るもんじゃないって~。既に先行き不安てどうよ?」
「ああ、もう、う~る~さ~い~、直ぐにどうにかなる訳ないでしょう?」
硬さの残るフルールに、ラナが茶々を入れば、気の抜けたような、呆れたような、程よく肩の力が抜けた声で返事が返り、それを見たレオルが苦笑する。
「う~ん、だったら無理する必要も無いんじゃない?」
「そんな!?」
「いや、だってそれじゃ本末転倒じゃん?」
困惑するフルールに、至極真っ当な答えを返すラナ。気の抜けたやりとりをする姿に、漸く落着したかと、レイロードもまた、気の抜けた吐息を漏らす。そんな緩んだ空気の中、レオルがラナとフルールを庇うように立った。
「そんな訳だから、この二人は、もう関係ないよね?」
静かな、しかし、明確な怒りを秘めた声の先。何もない筈の空間へ、レイロードは、ゆるりと視線を向け――己の迂闊さに、思わず右手で顔を覆う。怨嗟にも似た、底冷えのする声が湧き出て吐き出された。
「……やって……くれたな……」
「……私に近しい、感覚と認識を欺瞞する己顕法……象圏もなしに……?」
隣では、桜花が不快感も顕わに自身の頭を小突いている。傍観に徹していたフェイスレスの目的は不明だが、大方、仲違いの様子を眺め、悦にでも浸たっていたのだろうと、レイロードは高を括る。
睨み付ける二人の先で、俯き伏せられたフードからは、何も垣間見えず、そして矢張り、流れ出たその声からも、感情は見えない。
『人は見たい物だけを見ようとする。得体の知れない恐怖を私に重ね、姿を奪い、忘却の彼方へと置き去り、そして安寧を得る。君も同じだ、ピースメイカー』
「……ホザいてろ……」
毛を逆立てるレイロードに、桜花が、今度は落ち着いて下さいよ? と、胡乱げな瞳を向ける。分かっていると手で返し、大きく息を吸い込む。そのままに吐き出せば、俯いたままに話すフェイスレスを、多少なりとも冷静に捉える事が出来た。
『君は、私を同じ天窮騎士と認めたくはないのだろう? 気の触れた暗殺者だと、信念などない、異常な殺戮者だと。ああ、それは概ね間違ってはいないよ。そうあるべきだ。そうでなくてはならない』
「クソがッ、こうも堂々と馬脚を現すか……」
フェイスレスの言い草に、レイロードから自然と真鍮色の己顕が溢れ、瞬きも許さぬ早さで羽刃を象る。最早言葉は不要と、斬り込まんとしたレイロードはしかし、次いで発せられた言葉に機先を失う。
『……だが、異常なのは、君とて同じだろう? 見知らぬ誰かの栄誉のために、自らの人生を捧げると言うのだ』
確かにそれは、天窮騎士レイロード・ピースメイカーが踏み出した一歩目の動機だ。桜花が不安げに眉根を寄せたが、大丈夫だと手で返す。
「……見誤るなよ……俺が追っているのは、嘗て目指し、何時しか諦めていた、俺の描いた銀の姿だ……」
だがそれは、見据えたその先は、遙か幼少のみぎり、師と共に、夜空に浮かべた幻想の姿でもあったのだ。例え辿り着かない旅路であっても。
『その理想に、私が達していないからと、私を否定するのか? 他の天窮騎士達はどうだ? 君はどれ程知っている? マクシミリアンは? イルは? エナは? ダルクは? そして、当代は? それだけではない、過去の先達はどうだ? 皆が君の理想に達していると?』
「……黙れ……」
その問い掛けに、レイロードは答えようがなかった。桜花が腕組みしつつ、不満げな視線を送って来たが、だからと言って、どうもしようがない。割れた窓から流れる風に、耳を傾けてみた所で、風の噂も聞こえてこない。
誰と交流がある訳でもない。話程度に聞いただけ。その心の裡など知りようもない。ましてや、天窮騎士の称は、自ら名乗る物ではなく、他者から与えられる物。ならば、否定出来よう筈はない。それを見透かしたように、フェイスレスが続ける。
『そうだ、違うだろう? 違うだろうさ。君の理想など、君ですら信じていない幻想だ。だと言うのに、ただ君は、私を認めたくがないだけの一心で、私が天窮騎士である事を否定する。浅ましい事だ。
確かに、私が望んだ訳ではないが……それとて、君も同じだろう? その惰弱な浅ましさが――』
不意に、フェイスレスが顔を上げる。真っ黒なフードの中に、そこにあるであろう両の瞳に、目映い輝きが見えた。この上なく、その紋様はよく見えた。輪の四方に円が一つずつ配置された、十字架とでも言うべき紋様。それは、紅龍・マグナドラゴン・イグノーツェの、人間の王を彷彿とさせる瞳。思い出される圧倒的な理不尽に、悪寒が背筋を駆け上り全身を粟立たせる。
『――可能性を潰した』
「ッ!?」
「ちょっ!?」
レイロードは衝動に突き動かされるままに、桜花の声を振り切って、形振り構わず出し得る最大速度で突撃すると、羽刃の援護の元、大上段に構えた鞘から"禊落し"を撃ち放つ。その間、コンマ1秒足らず。黒閃がフードを切り裂く瞬間、
「……え……?」
"隣から桜花の声"。"斬り掛かって来たフェイスレス"を、"迎撃せんと右薙ぎに振り抜いた刀"が、"距離を取った筈の桜花"の喉元に迫り――あわや捌かれ、虚空に黒閃を描く。
「……なん……だ……?」
「……わ……かる、わけ、ない、でしょう……」
呆然と尋ねるレイロードに、矢張り呆然と桜花が返す。背後に視線を送ってみても、3人共に目を見開き、分からないと首を振るだけ。迫っていたはずのフェイスレスは、その場を動かいてすらいない。余りにも不可思議な現象は、恐怖する事すら、レイロードに忘れさせていた。