4. 故に死者は歩く-2
レイロードの姿に呆気に取られ、桜花は一瞬出遅れた。その一瞬は、レイロードがフェイスレスへ切り込むには、十分過ぎる時間。
抜き身の刀を振りかぶり、激情に駆られた形相とは裏腹に、レイロードの体捌きに淀みは見られない。だが、無意識に動けるように染み込ませたであろうそれも、斬ろうとする感情が見えてしまえば、予測する事は容易い。
フェイスレスが動く。幽鬼のように体を揺らし、引く素振り。
「それではっ!」
「ゼェェエエエエッ!」
桜花の声も空しく、裂帛の気合いと供に袈裟懸に振り下ろされた銀閃は、何に触れる事すらなく宙を斬る。しかし振り抜かれた刃は、流れるようにレイロードの右脇を抜け背中へ回されると、鍔鳴りを響かせ鞘へと収まっていた。
眉尻を釣り上げ、レイロードの殺気が膨らむ。何時もの薄っぺらい殺気ではなく、喉元を締め上げる濃厚な殺気。だが、それでは意味がないのだ。
真伝朔凪派夢想剣・"鳴り石"。放たれた超音速の抜刀術は、その黒閃は、やはり、鍔鳴り一つを残して宙を斬り、だが、桜花は訝しげに眉を顰めた。
「チッ!」
「だからっ!」
『…………』
レイロードが舌打ち一つ、右回し蹴り。当然の如く宙を薙ぐが、蹴り抜かれた踵を蹴り戻す。が、当たる事なく、しかし構わず更に左の回し蹴り、と見せ掛けての鞘打ち。尚も外れるも、勢いのままに体を回し、真伝朔凪派夢想剣・"蛟"へ繋ぐ。抜刀とは真逆の逆袈裟に、黒閃がフェイスレスへ疾走る。
結果は見えていた。少なくとも桜花は、その全てのタイミングを見切っていた。レイロード・ピースメイカーの真髄は、アウトスパーダによる回避行動の制限、桜花の眼にさえ殺気の読めない"無想"の剣撃、"自戒"に依る大質量の破壊力だ。その内二つもが欠けていれば、それはただの棒振りに過ぎない。結果、黒閃はフェイレスの右肩をすり抜けていた。
「クソがッ!」
『…………』
レイロードが語気を荒げ、今更に数十の明鴉を手当たり次第に射出。多分に漏れず、尽くがフェイスレスを捉える事なく脇をすり抜けた。ともなれば、その背後に位置取る桜花へ迫るが、桜花は避ける代わりに嘆息一つ。
「全く……」
真鍮の羽刃は桜花に届く事はなく、瞬時に切っ先が反転しフェイスレスへ向く。そうするだろう事は、魔眼の力を使わずとも読める事。であるれば、フェイスレスにも同じ事。
その背に向かい、波状的に、或いは同時に繰り出された真鍮の斬撃は、無駄に纏わり付くだけで届かない。桜花は苛立ち紛れに臍を噛む。
「それでは私が撃ち込めない! 抑えて下さいっ!」
叫んでみても、レイロードは聞こえている素振りすら見せず、がむしゃらに刀と明鴉を振り回す。嵐にも似た風切り音だけが、空しく吹き荒んだ。
レイロード・ピースメイカーは、"天窮騎士"と言う存在に、並々ならぬ執着を持った男だ。フェイスレスが振るう刃にもまた、自身と同じく、何らかの理由があると、心の奥底で思っていたのかも知れない。
それが実際には、何の理由もなく、ただの理不尽であった。その事が、"自戒"も及ばぬ感情の奔流になったであろう事は、想像に難くない。が、それは、闇雲に奮われる、今のレイロードと、何が違うのだろうか。
「さっきから何をやっているんですかっ!」
レイロードに憤慨しながらも、桜花の胸中には、今更になって悔恨が押し寄せて来た。ソールが再び鍛冶と向き合った事に、レイロードの刀が直るであろう事に、ただ安堵した事に。何故、あの時、フェイスレスらしき者を見た男の身を案ずる事なく、その場を去ってしまったのか。或いは、その時の事を、レイロードに伝えておけば、護衛くらいは付けられたのかも知れない。そもそも、何故、ドクター・ファチェッロの正体に気が付く事が出来なかったのか、こんな眼を持ちながら、と。
「ああ! もう! これでは挟撃の意味もないでしょうが!」
そんな悔恨が、八つ当たりとなって声に出た。だからと言って、桜花自身が、強引に流れを変えられる気もしない。
場所は問題の一つではある。桜花の主力、"閑音"では、一歩間違えればビルを倒壊させかねない。
郊外の古城とは違うのだ。こんな街中では、"万が一"を起こす訳には行かない。
だが、それ以上の問題は、フェイレスの気配。普段であれば、象圏外の事象であれ、何となくは分かる。それがまるで感知出来ない。その場に居るのに、その場に居ないような、奇妙な程に存在感が希薄で、だが、どうにも得体の知れない存在感にも満ちている。
気配とは、己顕士の展開する象圏に依る所が大きい。そして、象圏を消す事は、自己の消失に値する。即ち、己顕法の使用が出来なくなる。にも関わらず、眼前のフェイスレスは、己顕で編んだローブで以て全身を覆っている。
そのローブが奇妙な感覚の原因だろう事は想像に難くない。しかし、桜花の魔眼、プリミティブレイは何も識らせない。いや、正確には、無意識のうちに、識る事を拒否している。そう感じる。それ程に、あのローブは得体が知れなかった。
「ああ、もう……レイロード! ローブには触れないで下さい! あれは駄目だ!」
どちらにせよ、こうまで感覚を狂わされると、直接自身の象圏で捉えるか、目で動きを見るしかない。のだが、眼が使えないうえ、象圏の狭い桜花では分が悪い。
黒閃が通路の壁を斬り砕き、真鍮の羽刃が押し広げ、白いローブが風に流されるように揺らめく中に、入り込む余地を探す事は至難。レイロードとの攻防に、付け入る隙を探すしかなかった。
「ゼェェエエエアァアアッ!」
『…………』
聞こえているのかいないのか、レイロードの攻勢に変わりはない。頭、腕、足、肩、胴、全身に及ぶ真鍮の剣閃を、フェイスレスが掠る事なくすり抜け、その刹那を衝いて黒閃が疾走る。
だが、触れるな、と言う桜花の言に、反応だけはしたのか、打撃がなりを潜めていた。その分、だろうか、繰り出される斬撃が、アウトスパーダの剣閃が、狭い空間にも邪魔をされ、軌道が出揃いつつある。精緻な分、尚更に読み易さを加速させている。
「余計な事、言いましたかね……」
気の抜けた声で呟き、桜花が頭を抱えそうになった時、躱すだけだったフェイスレスの反応がに、変化が見られた。
顕著なのが腕だ。右手には幅広の剣、左手には細身の長剣。共に切っ先には小さな返し、鍔の代わりに簡素なリング。その中に、トリガーよろしく人差し指を通しているのだが、その腕が、緩やかにリズムを刻んでいる。そう思えて、桜花は慌てて叫ぶ。
「レイロード! 読まれてます! 崩して!」
しかし時遅く、レイロードの鞘内から抜き放たれた刃が、フェイスレスの右腕に向かった。が、その僅か前に、フェイスレスが半身にずれる。
通り過ぎた刃は軌道を変えフェイスレスの足下へ。その軌道にも、フェイスレスは僅か前に足を引く。刃は鞘へ戻され、フェイスレスが引いたその先に真鍮が疾走る。
しかし、それも読み切られたか、フェイスレスが更に足を引き、どうと言う事なく捌いて見せた。
次いで右肩へ放たれた明鴉の斬撃も、肩を刃の側面に当てあしらわれ、胴への一撃は一歩踏み込まれて空を切る。
「チッ! こうも躱すッ!」
寄られる事を嫌ってか、レイロードとフェイスレスの間に真鍮の壁が築かれ、桜花からもレイロードの姿が消えた。
死角が生まれようとも、フェイスレスの動きに迷いはなく、前後上下、明鴉による四方向からの挟撃にも、背を向け一息早く右へと跳ぶ。
奇妙な避け方だと桜花は感じ、目を細めるが、足は地を離れた。それは往々にして狙い目。
真鍮の壁が弾け、現れたのは、納刀された大太刀を大上段に構えたレイロード。真伝朔凪派夢想剣・"禊落し"の構え。弾けた羽刃と共に、刃が撃ち出されるその瞬間、フェイスレスが持つ左の長剣、その剣先が僅かに下がる。
「それもっ!」
「ゼェエッ!」
『…………』
読まれている、桜花がそう思い叫んだ矢先、双方の斬撃が空を裂いた。型も何もなく、ただ無造作に腕を上げたようなフェイスレスの左手は、狙ったように一太刀で全ての明鴉を切り払い、レイロードの顎先へと迫る。
「燕かッ!?」
叫んだレイロードが頭を振り、その一撃を辛うじて躱すも、体勢は崩れ、剣速もまた大幅に落ちた。それでも刃は、フェイスレスのローブを切り裂き、
「ッ!?」
焦燥を見せてたレイロードが、無理矢理に柄を手の内で回し切っ先を跳ね上がらせ、刃を鞘に納める。フェイスレスのローブもまた、既に裂け目はなくなっていた。二人の動きに、僅かな隙が生まれた。仕掛けるならば今と、桜花は瞬時に地を蹴る。
「引いてっ!」
レイロードに警告しつつ、体の伸びきったフェイスレスの背へ、歪曲空間を展開した左回し蹴り。いけるかと目を細めた矢先、フェイスレスの右手、その人差し指を支点に、剣が回って跳ねる。刃は背を護るように、蹴りの軌道へ。
『…………』
「くっ!?」
当たる寸前足を引き、すかさず右後ろ回し蹴りに切り替え追撃。が、フェイスレスが体を捻りつつ左の振り下ろし。桜花の眼は、何も識らせていなかった。
「んのおぉおっ!」
然れど、反射神経だけで無理矢理右足を引いて躱すと、近づいたフェイスレスの顔面へ、宙に浮いたまま左拳で迎え撃つ。が、フェイスレスは上体を逸らして躱すと同時に、逆手に持った右の剣で胴を薙ぎにくる。歪曲空間を足場に回転。上下を入れ替え躱し、オーバーヘッドの蹴りに繋ぐも、今度はフェイスレスが躱しつつ上下を入れ替えオーバーヘッドで蹴り返す。
「くぅっ!」
当たる寸前、桜花は歪曲空間を手で押し跳ぶと、堪らず距離を取って着地する。瞬間、聞こえて来たのは、何時の間にか聞き馴染んだ、低く沈んだ声色。
「……桜花、アレに触れるな……得体が知れん、アレはマズい……」
「それさっき私言いましたよね!?」
その言い草に、桜花は思わず目を見開き振り向くと、間髪入れずに問い質す。が、答えは無情。
「……? いや、知らん」
「バカですか!? 何ですか!? 聞きましょうよ!?」
「いや、だから何をだ……?」
難しい顔で、眉を顰めるレイロードに、思わず何時もの半目をこれでもかと叩き付けるが、レイロードは右手で払うだけ。睨み付けた桜花は、何時の間にかレイロードの隣に立っていた事に気が付きハッとした。誘導されたのか、無意識のうちに逃れたのか。いずれにせよ、それだけで、妙な安心感を覚えてしまった事が、無性に腹立たしかった。
「もういいですよ……で、頭は冷えましたか? 無様に戦うなら私が出ますから、援護を」
「ハッ、何を……」
そんな想いを振り払うべく、少し熱くなったくらいで何をと、胡乱げに手を振るレイロードをぞんざいにあしらい、桜花はフェイスレスに向き直る。人の声が全く聞こえなくなる程狂乱しておいて、何が少しかと、桜花は目尻を釣り上げたが、構う事なくレイロードは続けた。
「……まぁいい、兎に角アレに触れるな。ローブに刀が触れた瞬間、何か得体の知れない物が腕を伝ってきた……やるなら、一瞬で振り抜かねば囚われる……借りは、返す……必ずな」
私怨の籠もった声を放つレイロードに眉を顰めるが、これ以上の問答は何の益にもならないかと、桜花は気持ちを切り替え聞き返す。
「ふむ……凶悪なリアクティブアーマーの類ですかね?」
「……情緒の欠片もないな……」
レイロードが頭を振るが、そんな事は桜花にとってどうでもよかった。眼前の化け物が、様子を覗っているのか、それとも何も考えていないのか、桜花の眼は何も識らせなかったが、それでも桜花は腕を引き絞る。
「さて、やってみましょうか……」
踏み込みは亜音速に達し、一瞬で間合いをゼロへと変える。感覚は狂っていても、象圏であれば動きは掴めた。
ならばと、右拳をフェイスレスの左足へ打ち下ろす。フェイスレスが左足を引きながらの半身に。併せて左の剣が桜花の右腕に、右の剣が首筋に打ち込まれていた。
その時、桜花の瞳は確かに見た。白いフードに埋もれる暗黒の中に、収束する二つの光を。桜花の瞳と同じ、己顕の収束光を、確かに。
『…………』
「んっ、のぉおっ!」
強ばり掛けた体を無理矢理捻り、トンボを切って旋転。危機に反して、朱のマフラーが艶やかに螺旋を描く。その端を紅い刃が捉え掛けるが、割り込んだ真鍮の羽刃が逸らし、桜花の安全圏を押し広げ、僅かに崩れたフェイスレスへ、前後左右上下、12振り12方向からの交差射撃。
しかし、フェイスレスが僅かに速い。羽刃は、床に、壁に、天井に突き刺さり、フェイスレスは離れ、桜花は再び地に着く。桜花の口から、感情の消えたような、静かな呟きが漏れる。
「レイロード……多分……私と同じ眼を持っている」
「チッ……道理でスルスルと……」
「どうでしょうね……」
眉を釣り上げ悪態を吐くレイロードとは目を合わさず、桜花はすかさず距離を詰める。溜めは最小限に、頭部への左ジャブ。軽く頭を振って避けられるが、気にせず右脇へのショートフック。フェイスレスがすかさず引く。合せて、羽刃が唐竹に。フェイスレスは桜花の右へ避ける。踏み込みながら、脇に向けていた右拳で頭部への裏拳。逸れるがそのまま肩口へ打ち下ろし。瞬時に半身で躱される。そこへ頭部と足へ真鍮の閃光が。嫌ってか、フェイスレスが剣で受け流す。
胴が開いた。右腕の下を通して左の掌打。桜花の動きに合わせ、フェイスレスが大きく跳んだ。白いローブを霞のように揺らめかせ、右の通路へ飛び込みながら、無造作に左腕を振る。その指先から、今正に飛ばされようとする、針状の物体を桜花は捉え、怪訝そうに呟く。
「千本?」
投擲の速度は余りにも遅く、常人でも投げられるだろう速度であったが、追撃を止め、投擲された飛び道具を大きく避けて、軌道を視線で追う。仕掛けを警戒してだ。その間にフェイスレレスの姿を見失ったが、致し方がない。
千本はレイロードの遙か横を通り過ぎ、成り行きを見守るだけだった3人へ。ラナがポカンと口を開けている。
「へ? え?」
「マズっ!」
「落とせる!」
「触れるなッ!」
慌てて対処しようとしたレオルとフルールをレイロードが一喝し、千本を明鴉で叩き落すと即、桜花に指示が飛んでくる。
「離れてはいない! 距離40ッ! 残った設備も物証になる! 可能な限り壊すなッ! 回れっ!」
「あなた壊してましたよね……前は頼みますよ!」
桜花は、ジットリとした半目で、PDを取り出しつつぼやきながらも、PDを振って応えるレイロードに先立ち、地を蹴る。
桜花では感知出来ない以上、レイロードの広大な象圏に頼らざる負えない。コンクリートの檻にあっても、フェイスレスの居場所程度なら感知出来た事は、素直に有り難かった。
物証の事はすっかり頭から抜けて落ちており、強くは出られなかった事も、多少はあったが。
桜花はフェイスレスが消えた通路とは反対の左側へ。遅れて、レイロードが右へと駆けた。
状況の変化に着いて行けなかったフルール達は、半ば放心状態で、レイロードと桜花が去って行く姿を見守っていた。残されたのは、宙に浮ぶ、真鍮色をした無数の羽刃。
その羽刃の基部を、ラナがボンヤリとつついていると、視認出来ない通路の向こうから、何かがぶつかる音が、間断なく響き始める。交戦の音を聞きいたラナが、やはりボンヤリとぼやいた。
「ってゆーかさ、あたし達ここに居る意味ないよね……」
その途端、嫌な予感がフルールの胸を締め付けた。
あの二人は、分かっているのだろうか。この二人は、分かっているのだろうか。フェイスレスの狙いが、ラナであろう事に。ならば何故、伝えなかったのか。
積もる不安は、掠れた呟となり、フルールの口から漏れ出していた。
「ダメ……絶対に動かないで……絶対にダメ……」
簡単な事だ。怖かったからだ。ラナに、レオルに、その事を知られる事が。理由を問われる事が。ほんの一欠片程生まれて消えた、フルールの黒い願いを知られる事が。
「フルール? どうしたの?」
「うえ? ……って、なんか顔色悪よ……だいじょうぶなん?」
怪訝そうな顔でレオルが覗き込み、ラナがペタペタとフルールの体に触れる。その感触が幽愁の檻に囚われ掛けていた心を引き摺り上げた。フルールは、ハッとして顔を跳ね上げると、咄嗟に作り笑顔で応えて誤魔化す。出来ていたかは分からないが。
「ご、ごめん、大丈夫だから」
「ん~そう? ん~?」
ラナが訝しむも、結局それ以上追求する事はなく、ラナの気が変わらない内に、フルールは話題を逸らす。
「逃げるにしたって、アレの……フェイスレスの気配が読めない以上、奇襲されたら……ピースメイカー卿達が、抑えきれているのかも分からないし……トラップが仕掛けられている可能性だって……だったら、このアウトスパーダに護られていた方が、安全だと思う……悔しいけどね……」
言いながら、フルールは周囲を囲むアウトスパーダを眺め、そして力なく笑った。話題を逸らすつもりではあったが、無力感までは、逸らしようがなかった。
ラナが、人差し指を口元に当て、何かを考え込んでいる。碌な事ではない気がしたが、ラナから出てきた台詞は、やはり、碌なものではなかった。
「ん~、いっその事さ、あたし達も加勢したら?」
「なに無茶言ってんの。俺達がどうにか出来る次元じゃないよ。
……あの剣撃……多分、匹敵するしね……」
呆れたと言わんばかりに、レオルが肩を竦ませるが、その後半は、思う所があるのか、鋭く目を細め居ていた。その様子に、ラナがムッとした表情を湛える。それが何に対しての物であったのかは、分からなかったが、少なくとも、フルール達に適う相手ではない、と言う見解には同意だった。
「ええ……正直、あの応酬に割って入る余地なんてない……全てが都合よく転んで、撃ち込める隙が出来たとしても、精々2、3撃……それじゃあ、足を引っ張るだけ……」
「2、3……そっか……でも……うん……俺も……いや、でも……」
フルールの弁を聞いた途端、レオルが顎に手をやり、ブツブツと考え込み始める。そこへラナの、眉をハの字に歪ませた顔が、ズイッと近づく。
「はぁ~? なに? フルールと張れると思ってんの? ばっかじゃない? 模擬戦で奇跡的に1回勝っただけっしょ?」
「うるっさいよ!? 分かってるよ!?」
表情そのままの辛辣な発言に、レオルが声を裏返して叫ぶ。賑やかな、或いは緊張感のない光景は、フルールの昏く淀んだ気持ちを、少なくない光で照らした。
なくしたくはない、心の奥底から湧き出してくる。胸元で、祈るように拳を握り、静かな決意を胸に込めた。
「絶対に、死なせない……」
先ずは謝ろう、罵倒されようが何をされようが、許されるまで、何度でも。そんな思いとは裏腹に、胸騒ぎが静まる事はなかった。
桜花は、レイロードと分かれた点から抜けて直進、直ぐさま右へと折れる。PDに目を落せば、方眼状の平坦なマップに表示されているのは、レイロードから送信された、フェイスレスの大凡の位置だ。位置情報は余り当てにならないが、ないよりは遙かにマシと、得体の知れない機材を横目に駆け抜ける。
フェイスレスとバートリー・キュルデンクラインの違法薬、どちらも問題であり、どちらも今しか手を打てない可能性がある。どちらも取れるならば、どちらも取る。
それは、レイロード・ピースメイカーの、強迫観念じみた天窮騎士像がそうさせるのだろうが……。
「ま、やぶさかでもないんですかね? ……ふむ」
口にした言葉は、案外耳に馴染んだ。どうやら、無茶に付き合う事は、嫌ではないらしいと、桜花は目を細め、速度を上げる。
歪曲空間を足場に、並の己顕士には、建造物内で出せない速度で以て、迷路のような構造を駆け抜ければ、真鍮の羽刃を躱す、白い影が目に飛び込んでくる。
通路には明鴉が至る所に立ち並び、真鍮の林と言った様相を呈していた。その中に踊るフェイスレスは、迫る桜花には気が付いていないのか、それとも誘ってるのか、その背は隙だらけで判断に迷う。
「っ……」
やりにくさに歯噛みするもPDを仕舞い、桜花は右手の指先に、己顕の刃を形成した。レイロードの使った、イミテーション・コアの模倣。
突撃の勢いを緩める事なく、がら空きの背へ貫手を叩き込む。が、その一撃は脇を逸れ、代わりに桜花の視界を白が覆う。
「肘っ!?」
瞬時に上体を反らすと共にブレーキを掛け、フェイスレスの右肘を避けるも、突撃の速度を殺しきれずに体が軋む。が、手を止める訳にはいかない。
「っ……のっ!」
無理矢理に体を捻り右のハイキック。躱したフェイスレスが右手の剣を振り下ろす。回転し、左足に振るわれていたフェイスレスの左剣も躱しての、左踵落とし。頭部への一撃を、フェイスレスが下がって躱すが、既に明鴉12振りが射出されていた。
フェイスレスは焦る素振りも見せず、回転による斬撃で桜花を牽制しつつ、沈み込んで回避。その横へ、今まで影も見せていなかったレイロードが、地を滑るように間合いを詰めていた。
今にも抜かんとする構えとは裏腹に、何の気配も感じられない、万全の剣。ともなれば、タイミングも読み切れず、結局は連携も何もないと、桜花は僅かに微笑んだ。が、直ぐさま気を引き締め蹴りを打ち下ろし、レイロードの鞘からは黒閃が疾走る。その寸前、フェイスレスの剣が動いていた。
「チッ!」
「抜けられるっ!?」
フェイスレスが体を捻りつつ、右の剣で刀を叩き上げ、左の剣で蹴りに展開した歪曲空間を突き、その反動を利用して、刀の下を仰向けに潜り真鍮の林へ滑る。位置取りは奇妙だが、体を起こせば即、二人へ同時に攻撃できる体勢でもある。
考える間もなく、体を起こしながらフェイスレスの両手が振るわれた。予想通りの行動に、二人は慌てる事なく距離を取り、紅い剣閃が間を分かつ。
追撃を警戒したが、フェイスレスは仕掛けては来ず、ユラリと姿勢を正した。
やはり奇妙だ、桜花はそう感じ、隣で同様に眉根を寄せるレイロードに声を掛ける。
「レイロード、おかしいですよ、アレ」
「見りゃ分かる」
「いえ、まぁ、そりゃそうですけど……」
素気なく返され眉尻を下げるが、それも一瞬。
「……お前、アレの真似が出来るか……?」
「無理ですね。読めるからと言って、そうそう避けられるものではないですよ?」
レイロードの問いに、桜花は迷う事なく即答した。今までフェイスレスは、殆どの攻撃を捌く事なく避けて見せた。これは己顕士の戦い方としては異常だ。殆どの場合、剣の腹などを叩いて捌く。躱せるのは、打ち込み初動のタイミングを読み切った場合くらい。要するに、フェイスレスの回避能力が異次元なのだ。
「特に速い訳でもないですし」
フェイスレスの体捌き自体は、決して速いものではない。剣の振りに関してもそうだ。回避能力を生かしたカウンターは驚異ではあるが、剣速だけを見れば、並の己顕士程度。その余りにもなアンバランスさには、首を捻るしかない。
「攻撃全てがカウンター、と言うのも引っ掛かる……。
……単に、能動的に攻める手立てがないだけかも知れませんが」
「さぁな……何であれ、こちらも届かん以上、どうしようもない……引きずり出せればな……」
せめて開けた場所であればと、眉根を寄せる二人を前に、フェイスレスがおもむろに、感情の見えない声を上げた。
『おぞましいな……全くおぞましいな、君達は……私の永遠を、高々数十、十数年で越えてくる……何より私にそう思わせる……実におぞましいよ、君達は……』
それが何を思っての事か、桜花の眼は何も識らせなかった。レイロードにも推し量る事は出来なかったらしく、もういいと、軽く手を払いながら、明鴉12振りを展開。切っ先をフェイスレスに向け、その手もまた、フェイスレスへ翳した。
「ハッ、その永遠とやらもここで終わらせる……お前に天窮騎士を求めた、俺が馬鹿だったよ……」
「レイロード……」
展開した明鴉はフェイント、本命は散らばり突き刺さっている明鴉。桜花の眼で識る事が出来るならば、フェイスレスもまた同じ。
『私が望んだ訳ではない。誰かが望んだのだ。天窮騎士の称も、フェイスレスの名も。私はただ、受け入れたに過ぎない』
淡々と紡がれるフェイスレスの言葉に、レイロードの渋面に凄みが増し、最早聞く耳は持たないと、翳していた手で、指を弾く。
「ブラストパージ……」
「っ!?」
眼前の全てが、真鍮の輝きに飲み込まれた。散らばる明鴉、その外殻とでも言うべき箇所全てが、細かな破片となって弾け飛んだのだ。
百の刃が、幾千、幾万の欠片となって、フェイスレスを覆い尽くす。それは、山野を覆う草花の芽吹きにも、黄昏を照り返す湖面の煌めきにも似て、桜花は息を呑んだ。
が、徐々に晴れていく真鍮を前に、レイロードの表情は優れない。
「……アレも躱しきるか……本当にどうなっている……」
「っ、上ですか……」
そして、桜花もまた、捉えた。真鍮のカーテンの向こう側、天井に、紅い剣を突き立てへばり付く、フェイスレスの姿を。
『さあ、覆してみるがいい』
頭を覆うフードが、その中の見えない貌が、通路で遮られた学生達へ向けられるや、フェイスレスが跳ぶ。
「レイロードっ! あの子達っ!」
「クソがッ! 欠片に触れるなッ! 消せんッ!」
「ああっ! もうっ!」
歯噛みする時間も惜しく、桜花は右手側の壁を殴り壊し、隣部屋へ抜けると、粉塵で覆われた中を一直線に駆ける。レイロードも踏み込むが、やはり一歩遅い。遮られた視界が焦燥感を煽る。僅か20メートル程の距離が、恐ろしく長く感じる。姿の見えないフェイスレスが、焦燥感を更に煽る。歯を噛みしめ、桜花は眼前の壁面を殴り撃つ。視界が開けた。
「抜けたっ!」
粉砕した先には白い影。3人との距離はまだある。その先には、ラナを庇い、明鴉共々迎え撃とうとするフルールを捉えた。フェイスレスの気配が読めない事にか、その表情は困惑に包まれている。明鴉はレイロードとの距離がやや遠く、動きもやや鈍い。
比べて、フェイスレスの動きに淀みはない。射出された明鴉を壁に張り付き躱し、そこを足場に跳躍。3人へ跳ぶ。が、その分、確実にロスが生まれた。
あと少し、4歩あれば追いつける、桜花がそう確信した矢先、フェイスレスが両の腕を左に振りかぶる。見え透いたフェイント。そのまま回転しての右からが本命。あと3歩。桜花は咄嗟に叫び、それはレイロードの叫びと重なった。
「左っ!」
「右だッ!」
言わんとした事は同じだ。フルールから見て、左手側から攻撃が来る、右手側に避けろ。あと2歩。
二人の言葉に、フルールの視線が左右に泳ぎ、そして、ラナを引き摺りながら、フルールの左手側、フェイスレスの右手側へと飛び込んだ。叫ぶ間もない。あと1歩。
フェイスレスの体が回り、剣が近づく。飛び込んだ二人へ、ラナへ。
訳が分からないと、ラナが呆けた表情で、その切っ先を見た。紅い刃が届く――。
「ゼロっ! 遅いんですよっ!」
――寸前、その2振りの凶刃を、外側から片手の指でそれぞれ挟み捻り上げる。刃が逸れた。
すかさずフェイスレスが剣を捻るが、指を斬られる前に離すと、無防備になった白いフードへ蹴り込む。が、届くより速く、フェイスレスが地を蹴り距離を取る。
「たす、かった……?」
「へあ……?」
『……いや、届いた……』
呆けたようなフルールとラナの呟きに紛れ、フェイスレスが意味の分からない言葉を漏らす。
――何を――
桜花は、確かにそう発したつもりだったが、実際に口から漏れたのは、
「……ぇ?」
二人よりも、更に力ない呟きだった。
指先から力が抜けていく。感覚がなくなる。それは指先だけに留まらず、手の平から感覚が消え、腕の感覚も消えていく。頭の中が霞み掛かり覚束ない思考で、桜花は両腕を目の前に上げる。恐らくは、上げた。その感覚すら、消えていた。
そして、掲げた筈の腕が、桜の花びらとなって散っていくのを見る。散った桜が、風に吹かれて儚く消えた。
『それが……君の見出した死の形か……』
フェイスレスの声が、嫌にすんなりと腑に落ちた。
浮ぶのは、暖かい日溜まり。満開の桜が、艶やかな花吹雪で彩る青空。これならきっと、穏やかに逝ける。これならきっと、賑やかに逝ける。涙で濡れた瞳で、空を見上げていた。
それは、何時か見た日の光景。佐伯織佳の愛犬、ユキムネが旅立った記憶。
ならば、フェイスレスの言葉は確かにそうだ。
――ああ、これはもう助からない――
全身の感覚は最早ない。本当に一瞬の間に、桜花の体を、死が覆い尽くそうとしていた。
しかし、不思議と心は穏やかだった。視界も、いつも以上によく見える。何気なく辺りを見回せば、フルールが両膝を衝き、放心のままに佇んでいた。彷徨い揺れる瞳の焦点は狂い、その心は自責の念が渦巻いている。
別にフルールが悪い訳ではない。あの状況では、結局どちらにも取れた。だから、気に病まないで欲しかった。誰かの思い出には成っても、重荷には成りたくない、と。
その元凶を見る。フェイスレスは動かない。ただ、見えない貌でこちらを見ている。その立ち姿に、今まで見えていなかった物が、漸く見えた。桜花はそれを口ずさむ。
「常死……死と享受……それが貴方の……ふふっ」
『…………』
フェイスレスの貌が、驚愕に歪んだ。少なくとも桜花には、それを識る事が出来た。既に体の半分以上が消えている。もう長くはない。
だのに、急に笑いがこみ上げた。自嘲とも、歓声とも、悲嘆とも言える笑い。
「ああ、結局、ほら、やっぱり、私が勝ってしまう……だって、ほら――」
『…………』
微笑む桜花に、何かを感じたのか、フェイスレスが距離を取ろうと力を込めるが、桜花にとっては、まるで意味がなかった。
「――"貴方は止まる"……」
『ッ……!?』
その言葉だけで、フェイスレスの全てが止まった。
何の事はない。楔を打ち込んだだけだ。誰にも触れ得ない、誰も触れ得ない、誰にも認識出来ない、姿なき絶対の楔。だが、何も問題はない。
「ロマーニの銀に、敗北など、無いのですから……」
『……それが、至り……』
眼前で、フェイスレスの胴が二つに断ち切られ、その上半身が宙を舞っていた。
血の一滴すら零れていなかったが、どうでもよくなっていた。
振り抜かれた刃の奏でる、何処までも澄んだ空虚な鉄の音が、桜花を微睡みに誘う。
閉じかけた目蓋を何とか留め、桜花はレイロードを見る。
斬れる筈のない楔を、造作もなく両断して見せた騎士は、相も変わらぬ何時もの渋面。
違う所があるとすれば、その中身まで、限りなく空虚に近しい事だ。それは、レイロード・ピースメイカーの剣が行き着く先であるのだろうか。桜花は寂しげに微笑む。
「それは……つまらないな……。
……とっとと、元に戻って、下さい、よ……?」
口にした言葉が、レイロードの事なのか、両親の事なのか、妹の事なのか、幕切れであるのか、何であるのか、桜花には分もう、分からなくなっていた。
レイロードには、フェイスレスが何をしたのか、理解出来なかった。が、何が起きたのかは、理解出来た。よくある事が、よくあるように、今ここで起こった。
何も考えられなかった。考える必要はなかった。迷いもなかった。
斬らなければならない、ただ斬らなければならいと、それだけが、心と体を突き動かした。
それは、押し込めていた感情の、更なる奥底に沈んでいた、何時の記憶かも定かではない、始まりの衝動。誰でもなかった少年の刃。
奮われた一太刀は、得体の知れない速さで疾走った。斬れない筈の何かを切り裂き、不敗の銀を断ち切って。
しかしそれは、桜花の残した言葉とは裏腹に、天窮騎士の剣が、誰でもなかった少年の剣に、敗北した事を意味していた。
儚い薄桜が、視界から消える。懐かしい虚無感が、背で揺れる夜色のマントのように、ひたひたと押し寄せ、のし掛かる。
無気力な真鍮の瞳に、地へ落ちんする、フェイスレスの上半身が映り込む。
『……後一歩……ならば、願わざるとも……』
消えて逝った桜花へ向かい、何かを囁く白いフードを、レイロードは無造作に斬り落した。