4. 故に死者は歩く-1
鼓膜の奥にこびり付いた耳鳴りが、三半規管を揺らし平衡感覚を奪う。揺らぐ視界が拍車を掛け、鼻を衝く刺激臭に吐き気がこみ上げ、圧迫された呼吸器が悲鳴を上げて、息を詰まらせる。
「く、ぁ、はっ、かぁ……! はぁ……かほっ!」
無理矢理吐き出した咳でもって荒く呼吸を整え、何とか体を起こしたフルールの耳に、ラナの喚声が追い打ちを掛けた。
「くっそ! なんだっての!? う、うぇ……て、テロ……?」
「耳が……くぅ……ふ、二人とも無事みたい、だね……」
「何とか……ラナ、大声出さないで……響く……」
疲れ切った声で窘めれば、ラナが珍しく素直に肯定の意を手で返しきた。少しばかりの安堵と共に、何故か全身が水浸しになっている事に気が付く。が、見上げれば何の事はない、スプリンクラーだ。吹き抜ける風が、濡れた体を冷やし、僅かばかりの冷静さを取り戻させるに一役買った。
周囲を見渡たせば、フロア一面の、窓と言う窓からガラスが抜け去り、変わりにとその破片が散乱している。今居る通路の内側に窓はなく、にも関わらず、量はそれ程多くもない。前方にはひしゃげたドアが転がっていた。内から外へ弾けたと推測出来る。
内装には所々焼けた跡が見られるが、大きな損傷は見られず、規模に比べて威力は低いと言える。兵器としての爆発物ではなく、可燃性の薬剤か何かに引火したのだろう、そうフルールは結論付けた。
「……多分、事故……だと思う……。
うっ、つぅっ……なん、だっけ……?」
遅まきにラナの疑問へ返答し、一先ずの精神的安静を作り出すと、朦朧とした頭で混乱した記憶をたぐり寄せる。意識を明確にするため、思い浮かんだ内容を声に出す。
「……完全な安全性……確証が持てないから……」
簡易の血液検査によって、白血球の量が多いと診断されたのだ。白血球の増加は、何らかの感染症を引き起こしている可能性も疑われる。そのため、施設の充実してるバートリー・キュルデンクラインに搬送された。そのまま、レスキュー車を隔離用の通路に付け、その中を通る。
「……エレベーター……・? そうだ、エレベーターで上がって……誰かが慌てて……」
妙に人気の少ないこの階層に着いた途端、待ち構えていたように、研究員らしい男が走り寄ってくるや、ドクター・ファチェッロと揉めだした。何故ここに連れてきた、だの、何故警察を入らせるだの、アレが回収されたら終わりだ、だの。物騒な気配に身構える3人に、ドクター・ファチェッロが話を付けてくると言い残し、室内に消え――そしてあの爆発だ。
「っ! ドクターは!? 他の人達は!? 見なかった!?」
一般人の救出確保と言う、重大な使命を忘れ果て、身内の安全だけに気を取られていた事を恥じながら、壁を頼りに体を起こす。
「……うえ、大声出さないで……あれ……そう言えば……?」
「……ゴメン、っ……俺は確認出来てない……」
「分かった……中を見てくる」
漸く意識が明確になってきた二人を一先ず残し、フルールはふらつく足で、ドアのなくなったその先を恐る恐ると覗き込む。
その先にはまたも通路。20メートル程先には、T字路状の通路も窺える。フロアの端から端までの4分の1程度の距離。テロ対策用に、入り組んだ作りをしているのだろう事が窺える。そこに隣接しているのは、ラボラトリーらしき施設の数々だ。その一面を覆っていたであろう窓ガラスが、例外なく弾けて通路にばらまかれている。何の研究をしていたのかも分からないが、爆発はこのラボの中で起こった可能性は高まるものの、損壊状況はそれ程酷く感じられない。
「……事故、なのよね……?」
それだけでは判断もつかず、フルールは各ラボ内を見て回る。攪拌機やロボアーム等の精密機が見て取れた。ラボの壁一面に設置されているのは、大型のアクアメモリーだろうか。安定した水の分子構造と、液体による安易な流動性を利用するそれは、当然発熱量も低い。単一電子トランジスタに依って、殆ど発熱しない昨今のプロセッサと共に、一括管理を前提としないのであれば、現代のデータセンターは場所を選ばない。
「使い物には、ならない、か……」
尤も、割れて内容液が漏れ出してしたそれが、使い物になるとは思えなかったが。とは言え、データ消去が容易である事は、一つの利点ではあるのだ。機密データの等の処分が楽に行える。現状がそうであるのかは、判断しようがなかったが。
そして、やはり人気は感じられない。焼死体の山も覚悟していただけに、拍子抜けしたが、それが逆に薄気味悪さに繋がってもいた。
安堵と不安に苛まれながら、奥へ進もうかと迷っていた時、左右に伸びる通路の影から、何かが割れる軽い音を聞く。咄嗟に腰のレイピアへ手を伸ばし……現れた姿に肩の力を抜く。間髪置かずに、その人物から声が掛けられた。
「貴方も無事でしたか……お友達は?」
「何とか……ドクターも無事で何よりです。お怪我は?」
「ご心配なく。医者ですので。それよりも、そこを動かない方がいい」
その回答は、まるで理由になっておらず、思わず首を捻ったのだが、きっとそうなのだろうと無理矢理納得し、それよりも、動くなと言う真意を問おうとした瞬間、何かが蠢めき言葉に詰まる。そんなフルールの代わりに、と言う訳でもないのだろうが、背後からラナの声が聞こえていた。
「うあぁ~ったま痛い……うへ~たっかそうな機材の山~もったいな~い……んでさ、ドクター……それ、なに……?」
ラナが指差した先には、壊れたオモチャのように地を這う、鈍色の何か。まるで人の形をした、そう、まるで、あの白ローブの中身を彷彿とさせるような、"何か"。
が、ファチェッロは、全くの平静を、寧ろ何の感情も持ち合わせていないかのように、それを睥睨し、そして何の説明にもならない言葉を口にした。
「なり損ないの、なり損ないです。何になり損ねたのかは、分かりませんが」
途端、声に反応でもしたのか、"何か"が緩慢な動作で起き上がる。ユラリ持ち上げられた顔には、目と鼻と口の跡らしき、僅かな窪みが残るだけ。思わず息を呑む。理解の出来ない怖気だけが、フルール達の体中を駆け巡っていた。
そんな中、ファチェッロが無造作に、白衣から筒状の物体を取り出していた。長さ5センチ程、目の前の"何か"と同じ、鈍色の液体を収めた、細長いボトルを。
「ご心配なく。大方これが欲しいだけでしょから。意味もないのに……意味もない事すら、もう理解が出来ない」
「……意味、分かんな……」
『u……uuuUUU……aaaAAaaa……』
指先で抓んだそれを振りながら、淡々と声を発するファチェッロへ、ラナがなけなしの強がりを言い終える前に、低い呻き声が遮った。その発信源たる鈍色の"何か"は、覚束ない足取りで、真っ直ぐにファチェッロへと向かう。斬り付ける事など容易い筈の動き。しかしフルールは、ラナも、ただただ見ている事しか出来なかった。精々レオルが、声を震わせる程度。
「……ねぇ、ドクター……それ、何だよ……」
「さあ? 何でしょうね。結局私も分からなかった。分かった事と言えば、マナが体組織を破壊する効果を利用し、一度肉体を破壊。そして、マナや己顕を吸収し、再生し続ける、謂わば不死とも呼べる肉体へと組み替える。その程度です。これも一つのイレギュラーナンバーと言えるでしょうか」
淡々と、実に淡々と告げたファチェッロは、にじり寄る"何か"に、顔色一つ変える事なく、鈍色の液体を見つめる。その姿が、フルールには、途方もなくおぞましいモノに見えていた。
「尤も、上手く適合すれば、の話ですが……結局私は、意識を保っていられた例を、1例しか知りません。それですら、なり損ないでしたが」
「それ、って……」
あの白ローブの、そう言い掛け、フルールは喉を詰まらせる。何時の間にか、"何か"がファチェッロの目の前に迫っていた。だと言うのに、誰も動かない、動けない。当のファチェッロもまた、鈍色の液体に視線を落し、動かすのは口だけだ。
「意味がないのです。意識がなければ。無理矢理組み替えた体に意識を浸透させる事で、マナを介し肉体の形状を保っているのですから。だからほら、こんな事になる」
それまでボトルに注がれていた無機質な瞳が、胡乱げに"何か"へ向けられると共に、手もまた伸ばされる。軽く触れただけ、ただそれだけで、"何か"の体が小刻みに震え出す。
『GuuhUUU! AAAooOOOeeoo……』
そして、断末魔の雄叫びを上げると、事切れたように、その場へと倒れ伏した。のも束の間、鈍色の体表が融解し、床へ溶け広がると、燐光となって消えていく。後には、人の骨格が丸々と残されていた。
「……これ、って……・」
口にしたのは誰だったのか、眼前の光景が、ドラクル城地下に散らばる、無数の骨と重なっていた。自然と足が引ける。視線が白衣へ向けられる。無機質に光を返す眼鏡が、無表情を更に隠し、得体の知れない何かに見せる。
「恐れに駆られ、訳も分からず、訳の分からない物に手を伸ばす。だから何者もなれない。愚かな賢人に利用されるだけ……そもそもが、人間には過ぎた技術だったのです。貴方達も、そう思いませんか?」
「…………」
尋ねるファチェッロに、肯定でも否定でもなく、ただただ拒むように首を振る。一歩、通路の影からファチェッロが踏みだし、逆にフルールは一歩後退り、声を振り絞る。
「……ドクター、貴方の白衣……妙に綺麗よね……?」
「戦術爆薬ではないのです。知っていれば、爆発の影に入る事も出来るでしょう」
また一歩、近づいてくる。その右手には、1メートルを超える細長い布袋。だから、フルール達は一歩、後退り、今度はレオルが口を開く。
「ねぇ、ドクター……その手に持ってる物、剣、じゃないよな……?」
「ご心配なく。私の物ではありませんから」
何の回答にもならない回答を吐きながら、また一歩、ファチェッロが近づく。その左腰には、長く、薄く、赤い、二つの金属らしき物が、揺れ、擦れ、軽快な金属音を響かせた。当然のように後退り、次いで響くはラナの声。
「んじゃ、さ……その腰のヤツもさ、剣じゃない、んだよね……?」
「ご心配なく。大して斬れませんから」
そしてまた、何の回答にもならない回答。不毛な問答が繰り返される度、フルール達の足は後ろへと、後ろへと、後退を繰り返す。少なくとも、眼前の医師からは、強者の纏う、あの白ローブや桜花のような、気圧される空気は感じられない。寧ろ、戦う者の気配すら感じられない。だと言うのに、切り込めない。レイロード・ピースメイカーの影がちらついて、切り込めない。
あの男も同じだったのだ。纏う雰囲気から感じ取った力は、精々がフルールと同程度。しかし、その実力は比べ物にならなかった。だから、眼前に迫る男の実力を見極めきれず、足が下がる。臆病風に吹かれる。頬を撫でる風は、真夏に差し掛かろうと言うには、少々冷たすぎた。
「ちょ、押さなっ……って?」
「……いつの間に」
ラナとレオルの声と共に、背中が押され、フルールは思わず振り向く。
「え……?」
見れば、望は数々建造物、その頂。遙か眼下にそれらが並ぶ。気が付けば窓際まで後退していた。
見下ろす階下は100メートルに満たない。が、動揺に支配された心では、全うに着地出来る姿が想像できず、慌てて再びファチェッロを捉える。
距離は10メートル前後、一歩の間合い。ファチェッロは踏み込む素振りを見せない。歯噛みしながら身構える一行の前で、腕時計を確認する程度。その瞳が、再びフルール達へ向けられた瞬間、真鍮色が煌めいた。何事かと、フルールは焦燥に駆られ周囲を見回したが、そこから漏れ出した声は、安堵したような、気の抜けたような、間の抜けたものだっだ。
「これ、は……」
「オッサンの……」
「アウトスパーダ……」
呆ける3人を、100近い真鍮の羽刃が、守護するように取り囲み、剣先をファチェッロへ向けている。その輝きは何処か昏く、空虚で粗雑で哀しげだ。しかし、その中には、別の光も見える。凄惨なまでに研ぎ澄まされ、今にも朽ち果てそうな、しかし、絶える事ない灯火の光。深淵へと引きずり込むような、危うい輝きが、そこにはあった。
「……皆、無事だな……」
意識の底へ落ちそうになったフルールを引き上げたものは、地上90メートル、窓の外から響く、何処か沈んだ声色。鈍い銀色の甲冑と、藍色のサーコート、陽の光に棚引く夜色のマントが、嫌に印象的だった。
先ずは一安心かと、レイロードは安堵の溜め息と共に、人気の消えたフロアに足を踏み入れるや、何時もの渋面を更に渋らせ、眼前の医師を見据えた。右手に持った布袋の中身は、恐らく曲剣。左腰にぶら下げられた、2枚の紅い金属は直剣だろう。
己顕士でもない者が、何故刀剣を携えているのかと、レイロードは眉を顰めたが、ファチェッロは表情一つ変える事なく、口を開こうとすらしない。代わりに、その背後から、横柄さが見え隠れする、涼やかな声が届いた。
「おや? 今回は先を越されましたか。急がば回れ、と言う事ですかね?」
言うまでもなく桜花の声だ。レイロードはビルの外周から、桜花は即内部へと侵入。結果、レイロードが先に目標を発見した。
「まぁ、そんな事はどうでもいいのですが、所でドクター、ここに来るまでに散見した白骨死体……10名程でしたが……何でしょうかね?」
長い長い黒髪に指を絡ませ弄んでいた桜花の瞳が細められ、怜悧な光を奔らせる。軽くそちらへ振り向いたファチェッロだったが、そこから出された声は、日頃の事務処理を片付けるが如く、淡々としたものだった。
「身に過ぎた幻想へと、手を伸ばした成れの果て。因果応報とでも言うべきでしょうね。忠告はしたつもりでしたが」
「……取り合う気はない、か……」
「…………」
要領を得ない言葉に、レイロードは眉根を寄せる。ファチェッロは微動だにせず、表情の消えた貌で見つめ返すだけ。その先では、桜花が神妙な顔で、その背を見つめている。何かあるのかと、眉を顰めたレイロードの背後から、やや緊張を孕んだフルールの声が届く。
「その、ピースメイカー卿、俄には信じられないかも知れませんが……あの白ローブを作る薬を、研究していたようです……白骨死体と言うのは、恐らくここの……鈍色の人型が、溶けて骨になる瞬間を……見ました……」
「ハッ、不死に興味はない、などとホザいておきながらその様か……」
フルールの言葉がすんなりと腑に落ち、レイロードはそう吐き捨てた。が、当のファチェッロの顔色に、なんら変化は見られない。
「言った通り、興味はありません。蔓延させる事にも。だから処分したのです。まさか彼らも上手く事が進むとも思っていなかったでしょうが……どうでもいい事です。あの液体はもう、作れない。私は、それで十分ですから」
その言い草に覚えた既視感と、心なしか、一瞬、和らいだように思えたファチェッロの表情に、レイロードは困惑気味に眉根を寄せる。少なくともこの医師は、不死に興味はない。が、同等に、命にも興味がない。そう思えてならなかったからだ。同様に、ファチェッロの背を見つめる桜花の相貌にもまた、険しさが現われていた。
「……レイロード、何かおかしい……その人、何かおかしいですよ……」
「……だろうな……」
強ばった桜花の声に、レイロードは然もありなんと頷く。見ただけで強さを計る、などと言う器用な真似は、レイロード・ピースメイカーには出来ない。とは言え、相対した者が、己顕士であるかどうか、その程度であれば分かる。己顕士ならば、相応の己顕を放出している。象圏では捉えられなくとも、肉眼でならば多少は見えるからだ。
ファチェッロはからは、何も見えない。"貌なし"のように、象圏へ影響を与える何かもない。と、なれば、ただの人間だ。そんな者が、己顕士5人を相手取り、顔色一つ変えはしない。おかしい事この上ない。
しかし、桜花が何か危険な臭いを感じている。ならば、レイロードには分からない何かがあるのだ。漠然とした確信に、真鍮の瞳がファチェッロを射貫く。
「…………」
「ハッ、語る気はないか……ならばそれでいい」
が、やはり、返される言葉はなく、感情の見えない貌だけがそこにある。ともなれば、幾ら考えた所で詮無き事。やる事は変わらないと、レイロードは明鴉12振りを展開し、言い放った。
「ドクター・ファチェッロ、身柄を拘束させて貰う。ああ、抵抗するのは構わんが……まぁ、お勧めはせんよ。アレから逃げ果せる事など、何者にも出来んだろうさ」
「…………」
軽く桜花を覗き見るレイロードに対する、ファチェッロからの返答は、胸元から何かを外し、レイロードに向けて放り投げる、と言ったものだった。
足下に滑り込んできた物は、ネームプレート。但し、イバネシュティの公文書表記である、姓を前に、名を後に記載した物だ。即ち、記載されていた文字はただ単に、"Facello Essio"、ファチェッロ・エッスィオと言う名だけ。尤も、それはロマーニ語読みの話。
「え…? あ、O入って、って。いやいやいやいや……」
「うん、いや、多分、偶々だよ……きっと……」
「え? どう言う……? あ……」
ラナが、レオルが、乾いた笑いを上げ、フルールが二人の顔を交互に見やり、一拍遅れて何かに気付き、細めた桜花の瞳に奔る己顕が、加速度的に集束されていく。
「……アルフォード語読み……そんな単純な事……」
アルフォード語圏において、その綴りに音を与えるならば、そう読めてもしまうだろう。即ち……。
「……"フェイスレス"……天窮騎士、ナンバーXIII……」
口にしながら、レイロードの胸中は言いようのない感情が渦巻いていた。ロマーニ表記であれば、名は先に来る。エッスィオと言う、ロマーニ系の名を先に見たが故、姓も当然のようにロマーニ語として扱っていた。だが、もし、そう読めた所で、結び付く事はなかっただろう。余りにも接点がなさ過ぎた。悔やむレイロードに、ファチェッロが、いや、フェイスレスが、追い打ちのように言葉を向ける。
「私が名乗った訳ではないがね。一文字二文字……存外、気が付かれない物だ。いや、有り得ないと、脳がその可能性を遮断するのだろう。つくづく、人とは身勝手な生き物だ。そんな事だから、身勝手に憎み、身勝手に嘆き、身勝手に望む……。
……まぁいい。それと、これは君への届け物だ」
フェイスレスが、右手に持っていた布袋を放り投げる。と同時に、その体が純白の己顕に包まれ出した。思考とは無関係にレイロードの体は、反射的に戦闘態勢を取り、しかし瞳は、宙へと向けられる。向けられてしまった。
「え? ちょ、オッサン!? 何してんの!?」
背に向かって叩き付けられた筈のラナの叫声が、何処か遠くから響く。夢の中に、或いは、寧ろ、悪夢の中に居るように。レオルとフルールの恐慌じみた叫びも、また。
「何かマズいよ!? 向こう!」
「桜花も!? 何で!?」
レイロードは、その真鍮色の瞳は、それだけではなく、桜花の黒真珠の瞳も、フェイスレスなど、まるで目に入らないかのように、放り投げられた布袋へ釘付けにされていた。弧を描き宙を舞う布袋に、風に流され晒け出された、その中身に。
「…………」
「何で……」
垣間見えたそれは、真鍮色の柄頭、藍色の柄巻き。そして、ゆるりと落ち始めたそれは、暗闇から這い出るように、その身を現わす。平たく装飾の少ない真鍮色の鍔。大きく弧を描く黒染めの鞘。見間違う事なきその姿は、当然とでも言うように、レイロードの左手に収まっていた。持っただけで、分かってしまった。が、心の何処かで願っていた。そんな筈はないと。
「…………」
レイロードは無言のままに、寧ろ出す声すら忘れて、その鯉口を切るや、刃を引き抜く。しっとりと濡れたような刀身。古刀を偲ばす小切っ先。焼き付く刃紋は、豪壮な大乱れ。
以前より、少し、重い。が、よく手に馴染む。何処か心許なかった刀身に、芯が通ったような、重厚な一体感。直っていた、完全に、それ以上に、レイロード・ピースメイカーの為に誂えたように。
「……レイロード……」
「……これを、どうした……」
桜花の声は、耳に入らなかった。ただただ、刀身に映る自身の姿を、滑稽なその姿を、奥底から湧き出る憤怒を押し込め、見つめる。
返ってきた声は既に、若いのか、年老いているのか、男なのか、女なのか、それすらも分からない物へと変貌していた。
『君に届けたいと、そう願った者がいた』
――最後に……頼みが……ある……これを……届けて、欲しい……――
その言葉は、レイロードの脳裏に、何時かの光景を鮮やかに蘇えらせる。託された幅広のバスタードソード。イレギュラーナンバー、シルヴィア・テスタロッサ。燃え尽きる前の灯火か、燃え紡がれる松明か、その紅く染まった剣先が。今際の際にある、名もなき銀が。
記憶の中の銀と、一人の鍛冶士、その姿が重なった時、レイロードの口からは、怨嗟にも似た声が漏れ出していた。
「……これを、どうしたと聞いた……」
『届けたいと、願った者がいた。それだけだ』
答えなど、求めてはいなかった。ならば、当然のように答えはなく。次いで投げ掛けられた桜花の声は、沸き上がる不安と怒りで、静かに震えていた。
「……殺した、んですか……?」
だが、返される言葉は、無機質で、無情なだけ。
『私は殺さない。見出した死に、呑まれるだけだ』
「……ッ! お前……オマエッ……!」
「抑えて下さい! レイロード!」
沸き上がる感情を、桜花の声と、"自戒"で無理矢理押し殺し、レイロードは静かに顔を上げた。背後に居た3人が、喉奥を詰まらせたような、短い悲鳴を上げてへたり込む。だが、そんな事は目に入らなかった。
それだけをを見ていた。両手に掲げられた、紅い剣。身を覆う純白のローブ。反して、闇に飲み込まれたかのように塗り潰され、貌の見えないフードの奥。
『覆してみるがいい、ピースメイカー。さすれば届く、君の願いに。眼前に在るは、"不敗の銀"だ』
「フザッ……! ッケルなァァァァアアアアアアア!」
瞬間、レイロードの中で何かが弾け、フェイスレスへと斬り掛かっていた。何時の日か、ただ斬れると信じていた、愚かな日々のままに。そこには、挑発も、本意も、願いも、最早関係なかった。