4. 貌なし-1
一体どれ程の時間が経ったのか、閉じられたまぶたの下では分からなかった。1秒かも知れないし、1年かも知れない。どちらでもいいし、どちらでもよくはない。最早どうでもいい気がしたが、どうにかもしたかった。朦朧とする意識の中で、ただ一つ言えた事は、誰かの歌が聞こえた、そんな気がした。
――ひっとつめの夜~が来て、心っが、生っま~れ~た――
済んだ歌声だった。優しくも、儚げな歌声。しかし、その芯には、折れない力強さを感じさせる歌声。聞いた事はない筈なのに、何処かで聞いた事のある声だった。
決して気のせいなどではない。
――ふったつめの昼~が来て、命、が、芽~生えた~――
静かに届く歌声は、子守歌のようでもあり、そしてまた、目を覚ませと、訴え掛けて居るようでもあった。奈落の奥底へと落ちてしまいそうな眠気に、何とか抗いながら、力の籠もらないまぶたを、無理矢理開かせる。
僅かな明りに照らされて、ボンヤリと光る背中が映る。しゃがみ込んだ誰かの背中。見覚えのある背中。気が付けば、いつも自分の前を歩いている背中。鬱陶しくて、放っておけなくて、少し、頼りになる、亜麻色の髪をした、小柄な背中だ。
「……ラナ……?」
「よかった、フルール、目が覚めたんだ。俺達が起きても全然目を覚まさないから、どうしようかと……」
フルールの呟きに答えたのは、その背中ではなく、安堵の吐息を漏らすレオルだった。胸をなで下ろす姿は、心の底からフルールの安否を気遣っている様が窺い知れ、どことなく気恥ずかしい。
が、直ぐに状況を思い出し、一瞬緩んだ心に活を入れると、現状の判断に勤めんと周囲を見渡す。
一人別世界にでも居るかのように、僅かな変調を伴ってラナは歌い続けていた。
「みっつ~めの朝が~ぁ来て、花が、涸れ落~ち~た~ぁ」
それを横目に、フルールはレオルへと視線を向けると、問い掛ける。
「あれからどうなったの?」
「フルールがやられたと思って、俺もラナもアレに向かっていったんだけど、為す術なく、ね……己顕法も顕装術も、まるで上手く出せなかった……」
眉根を歪め、胸元を握り締めたレオルが浮かばせた悔しさに共感しながらも、視線は油断なく辺りを見回す。石壁と樹木に覆われた地下室は変わらないが、端々に松明の明りが見て取れる。所々闇を照らす炎が、一辺倒の闇よりも不気味に感じられた。
そして何より、3人の周囲を取り囲んでいる鈍色の檻が、フルールの絶望感を煽り、思わず体を摩る。この程度の物では、大した障害にはならないと言うのに。
「よっつ~めの言葉~ぁは、旅路の、終っわぁり~で」
大丈夫? と、不安げに顔を歪めたレオルを、大丈夫と手で制し、腰に手を当てる。レイピアは何故か、奪われてはいなかった。レオルの剣、エグザキューターも、ブレードラックごと放置されている。手足にも拘束具の類いは見受けられない。安堵よりも疑問が浮かんだが、先ずはいいと、正面を見据える。
「いっつつめの~なみ~だ~は、誰に、も、と~どかな~い」
目に映るのは、緩やかに揺れながら、歌うラナの背中。その背を見つめながらレオルに問う。
「ねぇ、レオル。ラナ、どうしたの?」
「……俺にもよく分からないんだ……情けないけどね……」
悲しげに顔を伏せたレオルに、何故そこで情けない、と言う感情が生まれるのかと、フルールの心は言いようのない憂愁に閉ざされ掛ける。その心を無理矢理に開いたモノが居た。
『"北の民"の結び詩か……また懐かしいものを……』
「…………っ!?」
背後から届いた声に、反射的に身構え距離を取る。何か叫んだのか、それとも何も発しなかったのか、それすら判断出来ない程に動揺が走った。鼓動の音が跳ね上がる。
目の前に、白いローブが立っていた。距離は3メートルもない。確実に象圏で捉えられる距離。しかし、何の気配も感じさせない。余りにも異質。
冷たい汗が流れる中、更に変調を伴ったラナの歌声は、一切の揺らぎは感じられなかった。
「むっつ~めの喜~びは、誰か、の哀しぃみ~で」
『昔はまだ、彼らの姿を見た物だが……今は呪術師などと、名ばかりの紛い物ばかり……嘆かわしい事だ……』
顔の見えないフードが、寂しげに左右に揺れる。北の民、呪術師、紛い物、関連性は見いだせなかったが、少なくともフルールの知る常識とは、根底から異なっているだろう事は想像出来た。
「なに……何なの、貴方……」
フルールの口から漏れた言葉は、そんな当たり前の疑問。動揺を見せないレオルが、少し、頼もしかった。そしてラナもまた、ただ歌い続けていた。
「ななつ~めの、綻~びぃは、あなたぁの口も~と~」
『所で、君は誰に教わったのかな? もしかして、末裔なのかな? もしかしたら、知己の子孫だったりすのかね』
白ローブが、フルールもレオルも目に入らないとばかりに、興味深げにラナを覗っていたが、しかしラナはと言えば、興味がないとばかりに、何ら反応を見せる事なく歌い続けていた。
「やっつ~めの~欠片~捨てた、蒼は、どちらなの~」
何時も陽気に、無鉄砲に、周りを巻き込んでいた幼馴染みの、見た事もない姿に不安だけが募っていく。よくよく見れば、ラナの体に何かが、朧気に取り憑いているようにも見えた。焦燥感に駆られ、思わず声を上げそうになった時、歌が大きく変調を迎えた。
「ここっのつ、めぇ~に~、零れ、落ちた、果ての、果ての、そのさ~きぃは、
とおの、昔、あの日~の夢、朽ちた、や、く、そ、く~……」
ラナの歌声が止んだ。たった一人の声が聞こえなくなっただけで、恐ろしい程の静寂が押し寄せてくる。押し潰されそうな恐怖に、フルールが声を上げ掛けた時、何処かで松明が弾けた。何時の時代の物とも知れぬその音に紛れ、ラナの声が聞こえ――。
「……"旅路"って詩。子守歌だったんだよね~これ、んでさ、"本当"の、詩詠魔法なんだよ……、
ねえぇえええええ!」
『ほう!?』
――全身から翡翠に輝く何かを迸らせたラナが、その拳が、猛る爆炎が、フルールの目の前を遮る檻を、白ローブを、尽くに吹き飛ばしていた。
「え……」
「ラナッ!? ダメだっ!」
もうもうと立ち上る土煙と、こびり付いた耳鳴りにふらつきながら、フルールはラナを呆然と眺める。動くは出来なかった。ただ純粋に、反応する事が出来なかったのだ。ラナの動きにも、状況の変化にも。
咎めるようなレオルの視線に舌打ちしつつ、手甲の下で軽く拳を握り直す。確かな感覚が掌と指先から伝わってきた。問題なく正常。一歩配合を間違えれば死んでいただろう。マナ濃度が、地上に比べて濃かった事が功を奏した。ぶっつけ本番で試したにしては上出来だろう。とは言え、悠長に感触を確かめている時間もないと、ラナは足へと力を込める。今ならばラナの戦闘能力は、カテゴリーBに比肩する。やるならば今しかなかった。
「ちょ~と待ってて! サクッとやってくる! ってか出来なきゃやばいんだよね、これ!」
「なに? ラナ!?」
「待てよラナッ! Shit!」
二人の言葉を聞き終わるより早く、未だ晴れない土煙を突っ切り踏み込むと、象圏で以て捉えた白ローブへ、勢いのまま拳を振り下ろす。鈍い衝撃。防がれた。体制を崩しながらも、白ローブの骨張った掌が、ラナの拳を受け止めている。更には、白ローブの掌に向かい、力が吸い上げられていく感覚に臍を噛む。昨日やられた時に見舞われたモノと同質。見れば、白ローブの骨張っていた手に、生気が戻り始めている。この得体の知れなさはマズいと、喊声一つ、脇腹へ左膝を叩き込む。
「ナメんなっ!」
『ヌゥ!?』
直撃、ヤケに硬い。が、衝撃は白ローブの体を浮かせる。すかさずに手を振り払い、怯んでいる白ローブへ渾身の右後ろ回し蹴り。激しい衝突音を響かせて、白ローブを土煙の外へと弾き飛ばす。やはり硬いと、ラナは顔を歪める。並の己顕士ならば、顕装術を使おうが即死だろうが……。
『やってくれる』
やはり、白ローブに致命傷は見受けられない。とは言え、その足は勢いよく地を滑り、体制を立て直せているとは言い難い。近接戦は明らかに分が悪い。が、攻め込むならば今しかない。幸いにも、翡翠の輝きは薄れていない。ならば、武器はあるのだ。
「You late! ha,ha! Circuit,Access!」
体を動かすようにごく自然に、それこそ生まれ持った機能のように、手足の黒い装甲内に格納されたディスクから、マナサーキットを"直接"ロードする。右手甲第1カートリッジ、アクアスラスト。左手甲第3カートリッジ、スタンバインド。左脚甲第1カートリッジ、エアブースト。
右手に纏わり付くように水の刃が吹き出し、左手に雷光が迸ると同時に大地を蹴り抜く。"旅路"で強化された身体能力に、エアブーストが合わさった爆発的な加速力は、軽く音速を超えてラナを撃ち出す。
一瞬にして接近したラナに、白ローブの反応は明らかに遅れていた。先ずは左、拳を当てずに振り払う。放電が白ローブへ伝搬し、体の自由を奪い取った。
『っ!?』
「だから遅いって!」
立て続けに右腕で薙ぎ払う。舞い散るの水刃が、ローブを切り裂き肉を立つ。が、血飛沫は飛ばず、青白い燐光が撒き散らされた。
その様は最早、人ではなくクイントのそれ。崩れる白ローブの中に、顔の見えない闇の中に、瞳を見た、そんな気がした。瞬間、言いようのない怖気が、ラナの背筋を凍らせる。
――ここで仕留めなきゃ絶対にマズい!――
焦燥感に駆られながら、右脚甲第1カートリッジ、エクスプロージョンをロード。更には纏っていた翡翠の輝きでサーキットの効果を増幅させる。ラナの持ち得る最大級の火力。
「Claymore!」
その一撃を、気合いと共に踵落としよろしく大地に叩き付ける。爆炎が、ラナ諸共白ローブを包み込んだ。
「ラナ!?」
「あいつ!」
悲痛な叫び声を上げるフルールに構う事なく、炎は天井まで立ち上り吹き荒れ、轟音が鳴り響き、朽ちた樹木が弾け、舞い散る欠片が燃え尽き灰と化す。
その中心に居ながらも、ラナは辛うじて持ち堪えていた。自身の力を混ぜ込んだ炎だ、耐性は高い。眼前には、炎に包まれながら、身動き一つしない白ローブ。取って置きの前に、せめて後一撃、とは思ったが、周囲の酸素は燃え尽き、呼吸もままならない。口惜しさを残しつつ、大地を蹴って炎から飛び出すと、レオルとフルールの前へと舞い戻る。
「ラナ!? よかった……無事だった……」
「無茶するなら先に言えよ! バカ!」
「うっさい気が散る! ちょっと黙ってろ!」
胸をなで下ろすフルール心を綻ばせ、咎めるレオルに悪態を吐く。批難の視線を向けるレオルにそれ以上構う事なく、ラナは右腕を大きく広げた。
「Break Role Inheritance――」
術を棄却、力を新たな術へと継承させる宣言。体中を覆っていた翡翠の力が、右掌に収束されていく。吹き抜ける翠の風に晒されながら、ラナは何故か、幼かった日々の欠片を思い出していた。
ラナの父親は、類い希なる剣才に恵まれていた。それこそ、将来天窮騎士に届くのではないかと噂される程に。
一方で彼女の父親は、家族を見ていなかった。少なくとも、幼い日のラナは、そう感じていた。何時も庭先で剣を振るっていた事を覚えている。一挙手一投足、その尽くは、ラナにとって全く理解出来ない領域で、恐らくは今でも、欠片程も理解出来ないであろう太刀筋。酷く綺麗で、悲しくなる程に寂しげで、何かを悔い、誰かに赦しを請うような。よくは思い出せないが、何故泣いているのか、そんな事を聞いた記憶がある。
――ラナは不思議な事を聞くね。何でボクが泣いていると思ったんだい? 皆が居るから、泣く必要なんてないじゃないか――
そう、父親は言っていた。皆とは誰なのだろうか、幼いラナの心に、それが深いわだかまりとなって残った。何時も誰かの、ラナの知らない誰かの事を想っているようで。
彼女の父親は、アルトリウス独立戦争激化に伴い、家族をロマーニの知人に預け、自らは戦線に留まった。それ以来、会う事は殆どなくなった。皆とは結局、皆だったのか。それとも別の誰かだったのか。だからラナは、天窮騎士が嫌いだ。
彼女の母親は、実に不思議な人だった。手から花を咲かせてみたり、掌の上で、影絵を踊らせてみたり。幼いラナは、己顕法なのかと、尋ねた事がある。
――これはね、ウィッチクラフト、って言うの。そうね、ずっとずっと昔、人間がまだ、人間ではなかった時代の魔法、みたいなものなの――
それが答えだった。現代に於ける魔法とは、マナが別の事象に変換される現象の事を指し、全くの別物であったのだが、幼い日のラナは、それが魔法だと信じ込んだ。
自身について多くを語らない人で、何処から来たのかすら、ラナは知らない。イバネシュティに、呪術師と言う職業がある事を知って以来、イバネシュティの出身かと思っていたが、白ローブの語り草からすれば、恐らくは違うのだろう。今になって思えば、本当に人であったのかも怪しい。
その母も、死んでしまったのか、それとも捨てられたのか、何であったのか、ラナはまるで覚えていないが、気が付けば居なくなっていた。
だが、何時も寂しげな瞳を湛え、静かな微笑みで子守歌を歌ってくれていた事は、忘れられない。その度に母親が、歌の情景を描き出していたウィッチクラフト、太古の魔法も。だから、ラナは魔術が好きだ。
結局、ラナはどちらにも似なかった。己顕士の資質は遺伝しない。あくまで個人の資質だからだ。精々が型を後生に伝える程度。それはいい。しかし、性格や"起源"は、生活環境に左右される。そしてラナは、そのどちらも似ていなかった。両親と言うだけの他人、そんな気がしてならないのが、酷く心に突き刺さるのだ。
こんな事を思い出したのは恐らく、読み上げた詩、"旅路"が、その先が、体を吹き抜けたからだ。右掌に収束され尽くした、翡翠の輝きを見て、ラナはそう思う。
そして、輝きの中に見出したそんな思い出達を、振り払うように、仕舞うように、ラナは翡翠の輝きを握り潰した。
「――"旅路の果て"」
薄暗い地下を翡翠が染め上げる。そして、砕け散った無数の輝きが、夜空に煌めく幾千の流星が如く、石壁を砕きながら白ローブへと一斉に降り注ぐ。或いは直線的に、或いは曲線を描き、或いは変則的に乱れて、目で追う事すら不可能な程に、果ての光が荒れ狂った。
翡翠の輝きが、至る方向から白ローブを貫いては再び舞い戻り、そしてまた貫いていく。最後はそこに帰るしかないのだと示すように。最早、白ローブは動くとさえままならないらしく、彼方を見上げ、一方的に打たれ続けていた。幾度も幾度も翡翠は輝き、巡り続け、そして徐々に輝きを失っていく。
「……きれいね……」
「そう、だね」
力ない呟きが、フルールから漏れ出した。フルールは、自身の力が及びもしない事に打ちのめされ何も出来なかった。精々が、へたり込んで翡翠の情景を眺める事くらい。レオルにしても、それは同様だったらしい。だが、幸か不幸か、悠長な失意は、それ程長く続きはしなかった。
「……っ!?」
「ラナ!?」
翡翠の輝きが完全に消え去るのと同時に、ラナの体が崩れ落ちた。咄嗟に体が動く。が、それよりも早くレオルが飛び出していた。そして、ラナが地面にあわや激突する寸前、その間に体を滑り込ませる。その際目に入った白ローブは、天を見上げたまま、朽ち果てたように動かなくなっていた。安堵と共に、レオルがラナへ向ける感情の強さに、再び失意が胸を刺すが、響いた大声にビクリと顔を上げた。
「無茶するからだろう!」
「いや~だってさ、無茶しなきゃ、どうにもならんかったっしょ?」
「俺だって! ……無茶すれば多少……手は、あるんじゃ……」
言っては見た物の、自信のなさからか、レオルの語尾が弱まる。実際の所、その手が通じるかは、分かった物ではなかったのだろう。
「へ~、ほ~、んでさ~、それって通じるの?」
レオルの心情を見透かしたように、レオルの腕の中でラナが、意地の悪い笑顔でニヤつく。レオルが半ばふて腐れて顔を逸らした。釣られるようにその視線を追い、捉えてしまった出来事に、フルールの顔から色が抜け落ちた。呆然と、息すら出来ずに。
「ほれほれ~、おねーさんに言ってみ~」
茶化すラナの声は耳に入らなかった。こちらに視線を寄越したレオルも、恐る恐ると、フルールの視線を追う。立っていた。白ローブが立っていた。こちらを見つめるように、立っていた。フードに覆われた顔の中は見えない。しかし、笑っている、確かに、そう感じた。
「Kidding……」
『酷い事をする。見たまえ、折角のローブがボロボロだ』
呆然と呟くラナに、白ローブが袖をヒラヒラと舞わせてみせる。至る所に穴が空き、ボロ布同然となったローブを。その下に、金属光を捉える。
「鎧か……」
レオルが呟く。フルールにも、そう捉えられた。青白い輝きは、ミスリルの光だろうか。アレが致命傷を防いだのかとも考えたが、ラナの放った"旅路の果て"は、白ローブを貫いていた。ミスリルが己顕やマナを通したとしても、肉体は無事では済まない筈。肉体を貫いた? その疑問に至った時、フルールの口から、驚嘆とした呟きが漏れていた。
「まさか……」
フルールに、レオルが何かを尋ねようとした素振りを見せるが、それよりも早く、答えは白ローブから届く。
『ああ、そうか、これは済まない。勘違いをさせてしまったかな? 別に手である必要はないのだよ、便利だろう?』
実に単純な見当違い。手で触れられた箇所から、力を抜き取られた事から、手に触れさえしなければいいと思っていた。付け加えるならば、ラナの翡翠の輝きは、吸い取れないものだとばかり思っていた事もある。
「……ざけんな」
ラナが悪態を吐くが、見るからに弱々しい。もう、戦えるだけの体力はないだろう。それどころか、戦えたとしても、意味が無い。しかし、その瞳に諦めの色は見えない。
本当に何をやっているのだろうか、何故自分は、ただ呆然とへたり込んでいるだけなのか。フルールの中で絶望が、沸々と怒りに変わって湧き出してくる。
その感情に後押しされ、足に力が込もる。体は重いが、立ち上がれる。手に力を込める。剣を振るうには十分だ。そもそも、この手は何の為にあるものか。誰かに触れる為? 違う。 誰かと繋ぐ為? 違う。剣を奮うためにだ。そして、何の為に剣にを奮うのか。大切なものを守るため。己顕士の誇りを、友を守るため。
白ローブに己顕系の己顕法は、恐らく効かない。ならば物理型での勝負。となれば、自分の出番だ。差し違えてでもアレを討つ。フルールはそう決意を固めると、レオルのブレードラックを手に、二人の元に向かいながら告げる。
「二人共逃げて……食い止めるだけなら、出来るから……」
出された声は、ここ最近の何処か力ない声ではない。悲壮感に満ちた、その実、燃えるような熱さを湛えた声。レオル達と白ローブを遮るように立ったフルールは、エグザキューターを静かに置く。
ラナを起き上がらせたレオルが、ブレードラックを握る。そのままラナを連れて逃げて欲しい、無駄な期待をしてしまいそうだから。そう願うフルールの想いとは裏腹に、レオルの足が一歩、踏み出された。
「レオル……」
フルールは、嬉しさと哀しさが、ない交ぜになったような微笑みを浮かべた。何となく、この少年はこの場に残るのではないか、との思いはあった。まだ、どちらか片方を見捨てる、と言う選択が出来ないだろうから。
それは、己顕士とすれば惰弱であるが、人としては正しい姿なのだろう。そして、フルールは、そんなレオルが好きだった。しかし一方で、気持ちが自分に向けられているような錯覚も感じてしまう。それが惨めで、嫌だった。
「一人より二人の方が、まだマシだろ? ラナは逃げて。どうせ戦えない」
フルールの感情を知りようもないレオルがはにかみ、ブレードラックに搭載されたもう一本、ただの直剣を引き抜く。エグザキューターの強度では持ちそうもないからだろう。
「ふざっけんな! あんたの腕でどうにかなるヤツじゃないっての!」
「ふざけてないよ、今のラナよりは遙かにマシだから。邪魔だからとっと逃げて」
罵声を浴びせるラナに、レオルが冷たく言い放った。そうでも言わなければ、ラナも引き下がらないだろう。頑固な所は、昔から変わらない。レオルは、その事を熟知しているようだった。代わりに、フルールは気休め程度に声を掛ける。
「大丈夫、ネタは割れてる。同じ轍は踏まないから」
「あ~クソっ、あ~もうっ! 絶対! 直ぐに戻るから! そこ動くな!」
逡巡するそぶりを見せたラナだったが、気怠げに腰を上げると、勢いよく指さして言い放つ。目元に、涙らしきモノが浮かんでいたが、見なかった事にしておいた。
後は前を向くのみと、軽く右足を前に出す。レオルの左足が前に出されるタイミングと重なる。右手を胸元に寄せ剣先を上に、レオルが右手に持った直剣を下げ、剣先を下に向ける。二人の構えが、図ったように対になる。何となく可笑しくなくって、二人は微笑んだ。
ラナが背を向けた事を、象圏で捉える。白ローブは動かない。ならば先手と、気勢を上げようとした瞬間、苦悶に咽せた。
「く、ぅっ! ……かっ! っ……!」
「くっ! がっ……! ぁっ……!」
突如眼前に現れた白ローブが、左右の手それぞれで、二人の喉元を締め上げ持ち上げていた。フルールにも、レオルにも反応出来ない、あの時のラナ以上の速さ。力を吸われる感覚に加え、片手で人一人を優に持ち上げる膂力。なけなしの力で、柄がしらをその腕に叩き付けるが、梨の礫。レオルも、その腕を切りつけていたが、甲高い金属音を奏でるだけだった。
「え……なに……」
その音にラナが振り向く。構わず逃げてと、伝えたかったが、白ローブの腕を抑えるだけで精一杯。声など出はしなかった。
『よき食事は、よき活力となる。と言った所だろう。まぁ、逃げてくれても構わんのだが、被害は少ない方がいい、そうは思わないかい?』
「よくもいけしゃあしゃあと……」
眉を釣り上げたラナが、憤慨に体をわななかせ、一歩一歩、歯を食いしばりながら戻ってくる。フルールは、柄頭で白ローブの腕を何度も叩くが、弱々しい力では何も出来はしない。大口を叩いた挙げ句にこの様だ。余りの情けなさに、溢れた悔し涙が頬を伝った。
レオルが歯を食いしばりながら、白ローブの首元に剣を叩き付けたが、又も乾いた音を立てるだけ。何故こうなったのか、何が悪かったのか、やり直せるならば、何か変わるのだろうか。徐々に意識が遠のいていくフルールは、ボンヤリとそんなたわいもない妄想に囚われる。打ちひしがれる視界の端に、何処から舞ったのか、花びらが映った。それは逃避が見せた幻覚だったのか、それとも現実であったのかは判断出来なかったが、薄桜色が、嫌に美しかった。
『だからだね、勘違いをして貰っては困る。私は誰も傷つけたくはないのだよ』
「どの口がっ!」
半ば現実逃避に陥っていた思考が、ラナの怒声で引き戻される。途端に、喉元を締め上げられている感覚が戻り、フルールは苦悶に身悶える。口とは裏腹に、白ローブはフルール達の事など、気に留める素振りすら見えない。
『この口だよ。まぁ聞き給え。私は……』
「だったらその手を離せっ!」
『ふむ』
そんな色ローブに、ラナの怒声が飛んだ。肩を奮わせ、口を固く結び、拳を握り締めていた。頬を伝わる涙を拭う事すら忘れているようだった。
何てバカな事をしようとしたのだろうか、フルールは自信の愚行に気が付く。もし、このままラナだけが生き残ってしまったら、一生この顔をラナにさせていたかもしれない。全員が生き残らなければ意味がない。フルールに気力が戻り掛けた時、突如として喉に込められていた力が緩む。
「かッ! げほっ! はっ、く、はっ、はっ……」
「ごはっ! ぐっ! あぐっ、はぁっ、がっ……」
「フルール! レオル!」
急激に戻ってきた酸素に呼吸が追いつかず、フルールとレオルは、地面に倒れたまま激しく咳き込んだ。滲んだ視界に映るのは、走り寄ってきたラナが二人に抱きつき、憎悪の眼差しを白ローブに向けている姿だった。
『そうだな、経緯を話せば、率先して協力してくれるだろう。いやなに、私はね、気が付いたら此処に居た。死んだと思っていたのだがね? いや驚いたよ、私の知っている時代とは何もかもが違いすぎた。そしてだね、気が付いた時には人を襲っていた』
「なに、それ……」
訳の分からない言い草に、声の出せない二人を代弁するように、ラナが怒りの視線を向ける。しかし白ローブは、飄々とその視線を受け流す。
『ああ、何だろうな。まぁ兎に角だ、嘗ての同胞達の末裔を襲ってしまうのは不本意でね。死んでみようと思ったのだが、全く上手くいかない。困っていたら、また人を襲っていた。
そんな事が続いてね、ホトホト困り果てていた所に、偶々騎士を……今では己顕士だったかな? まぁ、それを襲っていた。そうしたらだね、意識の続く感覚が長くなった……後は分かるだろう?』
白ローブの言葉を、皆一様に理解した。フルール達の命など、何時でも奪えるのだと。ただ、そうしないだけ。白ローブにとってのフルール達は、要するに、家畜なのだと。元々僅かだった希望が、完全に潰えた。悔しさに震える視界の端に、また、薄桜色の花びらを捉える。それは、やはり美しかった。
『君達が適度に供給を続けてくれれば、無辜の人々を傷付けずに済む。騎士は人々に尽くすが誉れだろう?』
「残念だけど、私は己顕士だから」
「絶対にお断りだ……」
「寝言は生きてる内にほざいてろ!」
最後に心折れなかった事は、フルール自身意外だった。続くレオルは親指を下に向け、ラナに至っては中指を突き立てていたが、咎める気など起きようはずもなかった。
『嘗ての騎士ならば、喜んでその身を捧げただろうに……嘆かわしい事だ』
白ローブが、顔の見えないフードを左右に揺らし、呆れたと肩を竦め、そして一歩、足を踏み出し――舞乱れる薄桜色の花びらが、その姿を遮った。突然の出来事に、誰一人として声が出ない。そんな中、聞き覚えのない声が聞こえた。薄桜の海から、涼やかな声が。
「もっといい案がありますよ?」
声と共に薄桜の海は晴れ、そして人の姿を象り出した。薄暗い闇の中でも煌めく長い長い黒髪。肩にはマントの如く、スプリッター迷彩を施された朱色のマフラーが棚引く。青白い幾何学模様の光が仄かに輝く。マナ拡散用タクティカルマントの一種だろう。極めつけに、黒いショートパンツと、丈の短い上着からは、ラナと比べても比較にならない程に、四肢を露出させていた。
「貴方が消し飛んでしまえば解決だ」
造作もない、さもそう言わんばかりに、呆気に取られる一行の前で、"それ"は右拳を引き絞る。次いで、一歩踏み込みながら、右足を石畳へ撃ち込んだ。瞬間、地鳴りにも似た轟音を伴って、振動が波紋のように地面を伝って広がっていく。
「ひっ!?」
「な、なに!?」
「動けなっ!?」
『奇っ怪な……』
思わず叫ぶ。その振動は凄まじく、立ち上がる事すら叶わず、白ローブさえ足を取られていた。そして、第一波が過ぎ去る間もなく、今度は彼方から轟きが、それこそ津波よろしく更なる波となって引き返し、"それ"に向かって雪崩れ込んでいく。
「石燕百派月窓流・"土蜘蛛"……」
そして、清廉な声と共に、"それ"の右拳が白ローブに撃ち込まれた。衝撃が、白ローブを突き抜け、遙か先まで大気を振るわす。そしてそれだけで終わるはずもなく、津波を思わせる膨大な力が、白ローブの中で荒れ狂い吹き抜け、それだけでは喰い足りないと、背を突き破り獲物を求めて弾け出る。空間の濁流は白ローブの肉体から骨格を引き剥がし、一息で彼方へと呑み込むと、辺り構わず打ち砕きながら彼岸へと吹き荒れた。
「さて……」
どれだけ経ったのか、それとも一瞬だったのか、嵐は過ぎ去り、"それ"が、打ち抜いた拳を戻す。得体の知れない出来事の連続に、フルール達は頭が回らず、その場で完全に固まっていた。代わりに、静寂の戻った薄暗がりの中、白いローブが力なく舞い落ちる。
「無事ですか? 助けに来ましたよ?」
腰に手を当て、何処か得意気に振り返った"それ"は、フルール達と、そう変わらない年頃の少女だった。