3. 残されたもの-4
◇
「あぁ、そうなの? いんやぁ、ありがと。いやいやぁ、助かってるよぉ」
煌々と照らす照明の下、間延びしたしゃがれ声が響く。軽く返される相槌とは裏腹に、PDを握る手には力が籠もっていた。
時刻は既に明日へと近づきつつある。大半の人間は家で寛いでいる時間だろう。ともなれば、通信対応もおざなりになりそうなものだが、相手を労う声からは、そのような気配は感じられない。
「そぉんな事ないよう? 今まではなぁんにも分からなかったんだから。大きな進歩だと思うよう? あぁ、うん、それじゃぁ引き続きお願いねぇ?」
朗らかに返しながらも、鑑査研からの通信を切るカピタナンの顔には、落胆の色が浮かんでいた。預けた物証の一つ、麻の繊維は1400年程前の物、法歴1450年付近の代物である事が判明したが……それが何の役に立つと言うのだろうか。
年代からすれば博物館物だが、盗難届けなど出てはいない。そもそも、何に使われていたのかも分からなければ、どれ程の大きさの物から零れたのかも分からない。結局それ単体では、何の役にも立ちそうになかった。
進展は望めない。が、PDのディスプレイに映るアナログ時計は、寡黙に任務を遂行している。反時計回りに撫でて見た所で、時間が戻る事はかった。
「ミオリぃ~」
溜め息を吐きながら、愛犬の名を呼ぶ。あのふかふかの被毛を撫でていると、幾分か気が紛れる。本人も気持ちよさそうにしている以上、お互いにとっていい関係だろう。尤も、それは人間のエゴに過ぎないのだろうが。が、その巨体が見つからない。大して広くもない署の自室だ。見失おう筈もない。
ガラス張りのドアから、捜査一課の室内を見渡すも、それらしい影もなく。ならばと、自室を出ながらミオリを呼ぶ。
「お~い、ミオリィ~? どぉこだぁ~い?」
「警部? え? ミオリくん居なくなっちゃたんですか?」
「ちょおっと、嫌な言い方しないでよお。すこぉし出歩いてるだけだよぉ?」
すみませんと、頭を掻いて強縮する若い部下に眉を顰めながら、カピタナンはもう一度、軽く室内を見渡す。
100人程が使えるように添えられたデスクには、疎らに人が点在するばかり。目当ての白黒は見つからない。ミオリは、昼間はあまり出歩かないが、人の少ない夜間には、偶に署を探索している。縄張りの確認のような物だろうが、その行動は刑事のそれとよく似ており、カピタナンの心を和ませていた。
通路に向かい様、机に突っ伏していた刑事の頭を小突く。ビクリと体を震わせた刑事が机を揺らし、何事かと勢いよく首を振った。
カピタナンは、それを見向きもしないで仮眠室を指差すと、あくびをかみころす部下の姿を横目に捜査一課を出る。その際、階段付近に、プラソユ市警の防弾チョッキを着込んだ刑事の姿を捉え、その背中に小走りで向かう。
「おぉい、アンドレ、ミオリ見なかったあ?」
「ああん? あんなモン見失うかよ?」
如何にも苛立った様子で振り向いたアンドレは、その様子を隠そうともせず盛大に顔を歪めた。
面長の顔に、やや痩けた頬。窪んだ眼孔の上には、太い眉が歪に乗っている。ドスの利いた声が、その迫力に拍車を掛けていた。
万人が万人、悪党と認識するだろうその形相は、30代そこそことはとてもそうは思えない。付け加えれば、刑事と言うより、マフィアの類いと言えわれた方が、遙かにしっくりとくるだろう。尤、カピタナンは、この男の顔が嫌いではなかった。が、そんな事はおくびにも出さず話を続ける。
「おんや、見掛けたの?」
「ああ? ああ、あれだ、お前が連れてきた、あの鬱陶しい顔の騎士モドキ、あの野郎が連れってたぜ。上じゃねぇか? ったく、我が物顔で歩き回りやがってよ、分を弁えろッてんだよ。
昨日も昨日で陰険な顔してスカシやがって……己顕士共がどんだけプラソユを引っかき回したと思ってんだ……ムナクソ悪いぜ、ったくよ」
「まぁ、本場の己顕士さん達なんだし、そこら辺のゴロツキとは違うと思うよう? 多分ねぇ」
語気を荒げてまくし立てるアンドレに、カピタナンは肩を竦ませる。立場上擁護するしかなかったが、カピタナン自身、己顕士の価値観は理解に及ぶ物ではない。それに加え、件の二人に関する人柄を熟知している訳でもない。寧ろ、アンドレの心情にこそ近い物を感じるくらいだった。
当のアンドレはと言えば、不機嫌さが足下にも伝搬したのか、つま先で小刻みに床を叩いている。あの二人を思い出して、と言うには、少々苛立ち過ぎだ。そう思い、カピタナンは眉を顰めた。
「そぉんな事より、何かあったのお?」
「ああ? チッ、毎度の事だ……」
「まさか例のヤツかぁい?」
「マフィアのドンパチだ……流れ弾だとよ」
表情を曇らせながら尋ねるカピタナンに、アンドレイもまた、曇った表情で答え視線を逸らす。想定していた最悪の事態ではなかった事に、カピタナンは僅かに安堵し肩の力を抜く。が、直ぐさまに、そう感じてしまった自身に大きな落胆を覚え、苦悶の吐息を漏らした。
「……そぉかい……でもこっちには来なかったよぉ?」
「直ぐに行くだろ……ドイツもッコイツもッ、バカばかりだッ! 殺し合いがしたけりゃ、どっかに籠もって殺し合ってろよッ! フザケやがってッ!」
悪人面を更に歪め、グシャグシャと髪を掻き毟るアンドレからは、降って沸く理不尽と、それをどうする事も出来ない無力さへの苛立ちが、手に取るように伝わってくる。だとしても、カピタナンに出来る事など有り様もなく、精々がアンドレが酷使している体の一部を気遣う程度だった。
「薄くなるよお?」
「ウルセえよッ!」
ちょいちょいと、指先で頭を指すカピタナンにアンドレが噛みつくが、その表情は先と比べれば、幾分と和らいだものになっていた。その事を確かめると、カピタナンも人懐っこい笑顔を浮かべてはにかむ。
「……ったく……んじゃよ、俺は行くぜ……お前も、あんな連中とはとっと手を切っちまえよ」
「ああ、助かったよぉ」
観念したように舌打ちし背を向けるアンドレに、カピタナンは軽く手を挙げる。レイロード達の事には触れる事はなかった。
遠ざかるアンドレの背中には、再び怒気が漲っている。性格は顔に出ると言う。悪人に見えるアンドレの人相は、彼の中にある正義感の表れあのだ。あの憤怒を湛えた表情は、犯罪者達への怒りが滲み出たもの。そう考えれば、少々思い込みが強く、行き過ぎた嫌いもあるあの男を、カピタナンはどうしても嫌いにはなれなかった。
「でもねぇ、アンドレ……多分もう、あたし達じゃぁ、手に負えないと思うよう?」
階段の先を見上げ、カピタナンは至極沈痛な面持ちで呟く。見上げた先に浮かぶのは、あの渋面。性格は顔に出ると言う。ならば彼の人物は、何を想い、何に苦悩し、何故にあの渋面を貼り付けるに至ったのか。知る事が出来れば、それは信用となるのか、それとも不信となるのか。
階段を上る足取りが重かったが、それは恐らく歳や体重の所為だけではないのだろう。半開きになった屋上の扉から差し込む月明かりを見ながら、カピタナンは目を細める。その先には、白く長い被毛が一本抜け落ちていた。
どうやら場所に間違いはないらしい。そう判断すると、カピタナンは半ば習性のように壁際へと張り付きながら屋上の様子を窺う。7月も程近い夜の風が、心地よい涼やかさを運んできた。
その先には、しゃがみ込んだ騎士甲冑。右手は横に延び、騎士の座高よりも高い大きなモノクロの被毛を撫でている。床には外されたガントレットが見て取れる。ミオリの毛に絡まないよう配慮したのだろう事が窺えた。
コンクリートの床と、ステンレスの手摺。家々から所々漏れる照明の光。巨体だが、愛嬌の滲み出るモノクロの犬。しゃがみ込んだクラシカルな意匠の騎士甲冑。それらが織りなす光景は、ともすればちぐはぐで、滑稽な印象をカピタナンに与えた。
だが、それと同時に、ミオリを撫でるたびに揺れる夜色のマントが、何処か哀愁を漂わせている。カピタナはそう感じ、何であろうかと眉根を寄せた時、ミオリが勢いよく振り向いた。
ともなれば、長い被毛もそれに合せて大きく宙を舞い、隣に鎮座した騎士の頬を直撃する。眉を顰めた渋面の騎士から、何処か沈んだ声色が漏れ出した。
「やるな……実戦ならば死んでいた」
その声色とは似つかない、なんともな言い草を吐きながら、何を気にするでもなくミオリの顎を撫でる姿に、カピタナンは思わず吹き出していた。直後、カピタナンに真鍮の瞳が向けられる。機械の如く無機質な瞳だ。然れど、初めて会った時程のおぞましさを感じる事は、何故かなかった。
突如聞こえた笑い声に振り向けば、恰幅のいい壮年の男性が一人、屋上のドアから顔を覗かせている。見紛うはずもなく、今、レイロードが撫でている大型犬の飼い主、カピタン警部だ。象圏で誰かが居る事だけは確認出来ていたが、明確には捉え切れてはいなかった。コンクリートは己顕を通し難い。己顕士の死角を考慮した、いい位置取りと言える。恐らくは尾行の賜なのだろうと、レイロードは意味もなく一人頷いた。
「いやぁ、すみませんねぇ、ミオリのお相手をして頂いてぇ」
「なに、俺が相手をして貰っていたただけだ」
「いんえ、とんでもない。所でお嬢さんはあ?」
「警邏だと」
主人を見つけたミオリが、被毛に隠れて見えない表情の分まで、大きな尻尾で感情を表わしながら離れていく様子を、僅かばかりの寂寥感を湛えながら見送る。その際に、ぱたぱた、と言うよりも、ばさばさと揺れる被毛が頬を撫でていった。
「……フラれてしまったな」
「そうでなけりゃぁ、あたしが落ち込んでしまいますよう?」
「ハッ、確かにな」
豪快にミオリの頭を撫でて、はにかむカピタナン警部を見ながらレイロードは苦笑する。家族を愛おしむ、常が常そう上手くいく訳でもないが、そうである事に越した事はないのだ。
レイロードは経口タブレットを放り込むと、足下に転がしたガントレットを腕に戻しながら立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
PDのディスプレイに映る右腕部をタッチすれば、モーター音と機械音を発しながら、ガントレットが強固なロッキングを施す。その様子を、カピタナン警部が物珍しそうに眺めて呟いた。
「おんや、最近の鎧は便利なんですねぇ」
「その分、多少脆くなるが……ハッ、それ以上に値段が高い。考え物だな」
レイロードは少々おどけた仕草で、ガントレットが固定された右腕を振る。カピタナン警部が、それは大変だと、肩眉を下げて苦笑した。
とは言え、このリーネア・レガーレRP996と言う鎧は、レイロード・ピースメイカーの頭文字を取った物だ。早々無碍に出来ようもない。これもしがらみだろうかと、思う所はあったが、そんな事は何時でも考えられると、一息吐いて多少なりとも気持ちを切り替える。
「……で、警部、進展は?」
「……芳しくは、ありませんなぁ……昼にお伝えした麻の繊維が、法歴1450年頃の物と判明した程度です……もう一つは未だ不明、と言う事です」
「……そうか……」
期待していなかった、と言えば嘘になる。どちらの物証も、発見出来たこと事態奇跡的だった。で、あれば、それが大きな進展をもたらす可能性に期待してしまうのは、致し方のない事だろう。
レイロードが複雑な顔をする中、一つ、とカピタナン警部が指だけで示す。レイロードもそれに倣い、手だけで続きを促した。
「エッスィオ・ファチェッロ、征帝歴965年9月18日生まれの33歳。
プラソユ郊外オルレンテ東地区出身。イーストオルレンテ・ジュニアスクールからぁ、ベルデ・ジュニアハイスクールへ。まぁ、地区内の公立校ですなぁ。え~その後ぉプラソユ・ハイスクールを経て、プラソユ医学校へ進学。中々のエリートコースです。
あ~インターンの時、ロマーニのセントヘレナ総合病院から誘いを受けぇ、卒業後ぉ同医院へ勤務。だぁい出世ですなぁ。
選考は外科、脳外科、神経外科ぁ。現在"不死"に関する研究に取り組んでいるぅ……。
とまぁ綺麗なもんです。順風満帆ですなぁ。叩いてもなぁんにも出ないでしょう、これは」
つらつらと、ファチェッロの経歴を暗唱するカピタナン警部に、よくもまぁすんなりと頭に入る物だと、レイレードは感心したが、同時に、どうにも歯切れの悪さをも、感じていた。
「……問題が?」
「いんえ、なぁんにも。なぁんにもないんで困っちまうんです」
どういう事かと頭を捻るレイロードを横目に、カピタナン警部がミオリの顎を優しく撫でる。夜空に向けられたミオリの大きな鼻が軽快に揺れていた。その一方で、カピタナン警部が見せる眼差しの奥は、重々しさを漂わせていた。そして、その重さに耐えきれなくなったかのように、カピタナン警部の口が開かれた。
「バートリー・キュルデンクラインはぁ、内戦による戦時需要により規模を拡大してきた会社です。西側からの医療品は、NPO頼りになっていましたからねぇ。市場は、ほぉぼ独占と言っても過言じゃぁありませんでした」
「……あれは……成程、そう言う……」
レイロードは眉を顰めながらも、得心がいったと頷く。頭を過ぎったのは、アルトリウス独立戦争時の野戦病院だ。そこに置かれていた機材、薬品の殆どが、バートリー・キュルデンクライン製だった事を思い出す。西側では余り聞かない名だったために、印象に残っていたのだろう。
「西側には存在しない薬品も多く生み出しましたからぁ、全くのヤブって訳でもなかったんでしょうけどねえ?
まぁ、それに気をよくしたんでしょうなぁ、イバネシュティを足掛かりに、西側へ市場を拡大しようとした訳です。流石にロマーニへ直接乗り込む程、慢心してはいなかったようですが」
「そして、当時のイバネシュティ政府は飛びついた……」
「これ幸いにと。戦火の拡大は財政にも飛び火しましたからねぇ。主導が政府だったのか、財務省の独断だったのかは、明らかになっとりませんが……」
アルトリウス周辺諸国の独立への機運が高まる程に、戦火は拡大し、国境の近いイバネシュティも影響を受けた。結果、外敵への対処へ想定以上に予算を回さなくてはならなくなった事は、火を見るより明らかだ。そしてそれは、国民全体へのしわ寄せとなって返ってきた筈だ。顎に手をやり、レイロードは眉根を寄せる。それを肯定するように、カピタナン警部の声が耳に届いた。
「分からんでもないんですよお? あたしら公務員の給料も削られてましたからねぇ、あの時期は。なぁんせボイコットも起きる始末で。そんな事をしてる場合じゃなかったんですが」
苦笑するカピタナン警部の横顔に、レイロードは幾ばくかの陰りを捉える。カピタナン警部が、当時己顕士と交戦したと語っていたが、行政機構の機能不全による治安の悪化も原因だったのだろう。そしてその一翼を警察も、カピタナン警部自身も担ってしまった、そう解釈出来る陰りだった。
「ともあれぇ……バートリー・キュルデンクラインが、いざ、と言うその矢先、レジスタンス側の勝利によって、永きに渡った内戦は、突如として終わってしまいましたぁ。
加えてぇ、終戦と共に国号をアルトリウス共和国に変更、正式にイグノーツェ諸国連合へ帰属ときたもんです」
「……その結果、今度は西側が攻勢を掛けてきた、と」
あの戦争は、エナ・シャロン・フィア・ダルリアダが生存していた時点で詰んでいた、識者の見解はそう一致している。
多くのアルトリウス国民に慕われていたお転婆姫の悲報。歳月を経て、レジスタンス旗頭としての帰還。明らかにされた王女謀殺の真実。
実にセンセーショナルに報じられたその出来事は、外へよりも内へと効果を現した。バートリー・キュルデンクラインも顔を青くしただろう事は、想像に難くない。
「出鼻を挫かれた形ですなぁ。いやぁ、あたしら庶民にはありがたい事なんですけどねえ? 現に、カミさんの薬もだぁいぶ安くなりましたしねぇ。
いやぁ、やっこさんの上層部は大層慌てたんでしょうなぁ。その頃を境に、隠蔽工作が杜撰になっているんですよぉ。ああ、まぁそれは兎も角、今日に至るまで業績は下降し続けた」
相当に焦っていたのだろう。根本的な技術レベルは西側が大きく勝っている。それはどの分野にも言える事だ。謂わば御山の大将を気取っていた居た所に、本当の大将が攻め入ってきた。それなりに上手くこなしてきた隠蔽が露骨になるのも頷ける。
「それが一転、起死回生のチャンスが訪れた……」
「前後関係は分かりませんがぁ、伝承か何かから、不死が実現出来る可能性を見つけたんでしょう。
ドクター・ファチェッロの言葉を借りれば、イバネシュティ国境付近には、物騒な伝承が細々と語り継がれていたようですからねぇ。
ディヌ・イリエ氏の件を考慮するとぉ、終戦前に何らかの情報を得ていた可能性が高いでしょうなぁ」
不死、それが完全な物ではなくとも、近しい物が出来れば、ほぼ全ての病気を治す事が可能になるだろう。そこから生まれる利益は、どれだけ莫大になるか、想像も付かない。
しかし、となれば、何故外部から人を招いたのだろうか。そう思い眉を顰めるレイロードの思考を汲んだよに、カピタナン警部が話を続けた。
「本来は成果の全てを独占するつもりだったと思いますよう? だぁけど、そう簡単にはいかなかった。そんな折り、イバネシュティ出身で不死の研究をしているドクター・ファチェッロの話を聞き付けぇ、オブザーバーとして招き入れた。資金繰りはぁ、余り芳しくなかったようですから」
「あぁ……単純な話か……」
「ええ。一つ、ドクター・ファチェッロにとって誤算だったのは、手当たり次第、過去の遺産を掘り返し始めた事だったんでしょう。
その結果ぁ、触れてはならない物に触れてしまったぁ……まぁ、こんな所でしょうかなぁ……」
大凡の推測を、溜め息混じりに吐き出したカピタナン警部が、ミオリの毛並みを整えるように撫でる。反面、カピタナン警部自身の表情は、釈然としない思いを抱えているように思えてならず、レイロードは
「……警部?」
「いえねえ? ネタが揃ってしまえば、実に単純なお話しです。単純すぎて怖いくらいだぁ。
でぇすがぁ……だったらあたしゃあ、誰を捕まえればいいんでしょうねぇ……」
それは、今も誰かを襲っているかも知れない化け物か、世に放ったバートリー・キュルデンクラインか、足掛かりを作ったドクター・ファチェッロか、はたまた企業拡大に手を貸したイバネシュティ政府か、独自の王政を続けていたアルトリウス王国か。
「……それは……」
答えに窮し、レイロードは思わずミオリを見た。だが、当然の如く答えはなく、どうしたの? とでも言うように首を傾げるだけだ。
逃れるように目を外し、手摺の先に見える明りに移す。コンクリートで出来た樹海の中に、一際巨大な樹が茂る。何を養分にすれば、あれだけ大きくなるのか分からないその樹は、バートーリー・キュルデンクライン・イバネシュティ法人支部のビルだった。
レイロードの戦場には、明確な敵が居た。そして戦場には、指揮官にせよ、アズライトにせよ、ナロニーにせよ、指示を下す誰かしらが居た。後はその場に赴き敵を斬る、それだけだ。
それは、今回の件でも同じ事だと思っていたのだ。得体の知れない何かを見つけて、それを斬る。今まで通りに。事実、レイロードの仕事はそこまでだ。しかし、カピタナン警部の仕事は、まだ先がある。だが、その敵が見えない。あれ程にも堂々と、敵陣は佇んでいるというのに。
「理不尽だな……」
「ああ、いやぁ、失礼しましたぁ。それを考えるのが、あたしらの仕事でしたぁ。なぁんともお恥ずかしい……他人任せじゃぁ、示しが付きせんしなぁ……持ちつ持たれつ、それでいいんでしょう」
「いやそうでは……いや、そう、だな……」
疲れた笑みを見せ、肩を竦めるカピタナン警部に、レイロードは戸惑うが、返す事が出来たのは、歯切れの悪い言葉だけだった。それはある意味で、己顕士は所詮戦うだけの兵器である、と言う事と同意である事に気付いたからだ。
災害救助にしても、小規模なら兎も角、大規模になれば軍の範疇だ。継続的な力を出せない己顕士では、繊細な除去作業は出来ようはずもない。
緩やかに衰退していくだけの生物。分かってはいたつもりだったが、他者からの言葉は、自身で考えていた答えより、重く感じた。瞬間、その重さにも似た、カピタナン警部の重苦しい声が届く。
「……失礼ついでに……もう一つ、宜しいですかぁ?」
「答えられるなら」
「……でしたらぁ……」
押し潰されないよう、レイロードは努めて軽く応えた。了承の意に、ミオリへ視線を落していたカピタナン警部が、重々しく顔を上げる。触れるつもりはなかった物へ、意を決して手を伸ばすように。
「……でしたらぁ……昼間、鑑査研で貴方は、平和な事だと仰ったぁ。その意味が、あたしにゃ、理解出来なかった……そうは思えなかったんですよぉ」
「ハッ、卑小な戯れ言だ。他意はない」
「…………」
無言の抗議を受け流し、レイロードは天を仰ぐ。事と次第によっては、協力関係にひびを入れる事になりかねないが、言葉通り他意はなく、返答に窮していた。
現代の戦場において、死者は出にくい。が、出にくいだけで、当然出る。己顕士の戦場ならば尚更だ。
あの地点は危険だ、ならばこちらから攻めよう、戦士として死ねたんだ、奴らは運がいい。誰かが死んでも、そんな会話が飛ぶ程度。
そんな過去の記憶に程遠く、見上げる先には、幾万、幾億という、星々の瞬きで満ちていた。中には既に消滅してしまった星もある。輝いているように見えるだけ。戦場に立つ命もまた、似たようなものだ。
「……戦場に立つは即ち、その身は屍と知れ……然れど、剣に死せらば屍にあらず……その身は己顕士と知れ……」
それが己顕士であり、それに何の疑問も抱かない者もまた、己顕士だ。故に、躊躇いなく斬れる。斬ってしまえる。何も感じる事すらなく。その理不尽を斬ろうとしていた刃もまた、ただの理不尽だった。そんなものは、そんな事は、戦場だけで十分だ。だから――。
胸中を駆け巡る漠然とした想いを自戒し、静かに視線を空から外す。ユラリと振り返った真鍮の瞳に映ったものは、悲痛な表情を湛えた険しい顔だ。己顕士ではない、人間の顔だ。
「命など軽いよ、警部。どうしようもなく、軽い……」
「……高々12名の死者なんぞ、物の数にも入らないとお? 貴方達に……己顕士さんに取っては?」
落ち着いた声だった。しかし、その奥底には、大火が渦巻いている。恐らくは、幼き日、レイロード自身にも灯っていた火、何時の間にか、残り火と化していた火。正しい人の感情を宿した、優しい大火が。
そうではない、決定的な見解の相違に異を唱えようとレイロードは口を開きかけた。が、そこから発せられるよりも早く、別の言葉が届いていた。
「ふむ、もっと恥ずかしい事考えてますよ? その人は」
涼やかな、それでいて、どことなく横柄そうな声。頭上から流れた、よく知る誰かの声に、レイロードとカピタナン警部、そしてミオリの視線までもが一斉に跳ね上がる。その先には、雲の切れ間から落ちてきたかのように、人影が宙を舞っていた。
肩に羽織った朱のマフラーが夜風に揺れる。長い長い黒髪が優美に舞い、月明かりを照り返して妖艶に輝いた。見紛う事のないその姿から、再び声が紡がれる。
「そうですね……そのどうしようもない軽さに、多くの人々が全力を尽くして奔走している。ただ一人を想える。その事こそが平和なのだと……まぁ、そんな感じなんですよ、きっと」
「……桜花……」
「お嬢さん……そいつぁ……」
音もなく地に降り立った桜花が、したり顔で髪を梳き上げる。黒髪が再び艶やかに舞った。微笑む桜花の姿は何処か誇らしげであり、その身を包む雰囲気には、昼間のような迷いは微塵も見て取れない。何があったのか、レイロードには知る由もなかったが、完全に調子を取り戻した桜花が、そこには居た。
そんな桜花へ、男二人の視線と指先が向けられ……。
「道交法違反だ」
「現行犯ですなぁ」
「ええ!? いえ待って下さい! ほ、ほら、あれですよ! え、えと、その……あ……そ、そうです!
……屋上だって、ふふっ……通路です!」
やってやったと桜花が吠えた。左手は腰へ置かれ、それなりに慎ましい胸元には、右手の指先がたおやかに置かれている。言ってしまえば、桜花がよく取るポーズだ。
渾身の出来だと言わんばかりに、満足げな笑顔を浮かべるその右手へ……強化樹脂の輪が無情にも落とされた。桜花が目を白黒させて、黒いリング状の物体と、カピタナン警部を交互に見つめる。
「お、おや? えと、いえ、あの、警部、出来ればこのちょっと小洒落たブレスレットを外して貰えると助かるのですが?」
「いやぁ、あたしも刑事ですんでねぇ。仕事はせんといかんでしょう? 」
「そんな……ちょ、れいろーど! あ、そーだ、み、みおりも、おとーさんに何か言ってあげて下さいよ!」
非情なる宣告。眉尻を下げて狼狽え、ミオリに縋り付く桜花。しきりに小首を傾げるミオリ。楽しげに笑うカピタナン警部。そして、レイロードもまた、笑っていた。気が付けば一触即発の窮地は霧散し、場違いな平穏が訪れていた。
そして、レイロードは思う。自らの役立たずさに比べ、この少女には何時も救われている、と。自嘲にも似た笑みを浮かべレイロードはカピタナン警部に投げ掛ける。
「警部、言い出してなんだが、その辺にしてやってくれ。第三級警戒態勢による状況判断、とでも言っておけば、何とでもなるだろうさ」
「いえいえぇ、半分は冗談でしたからぁ」
「えと、残り、は……? あの、2、3人見つけました、よ?」
恐る恐る尋ねる桜花に返されたものは、何とも意地の悪い微笑みだった。実際、市内における己顕法や顕装術の無断使用は犯罪行為に該当するのだ。尤も、敵の襲撃による迎撃態勢など、第三級警戒態勢と呼ばれる範囲に納める事で、有名無実化していたが。
「まぁ、気を付けて下さいねぇ。ロマーニでは些細な事なのかも知りませんが、こっちじゃ結構目の敵にする刑事も多いんですからぁ」
「むぅ、そうでしたか……すみません……」
手首をさすりながら、桜花が申し訳ないと頭を下げた。その姿に、手錠を仕舞ったカピタナン警部が、それはよかったと、手で応える。先に感じた大火は、既にレイロードへは向けられていなかった。だが、確実に燃えているのだ。見えない何かに向かって。その事だけは、ミオリを撫でる姿から、感じ取れた。
「それじゃぁ、あたしは戻りますねぇ。ほ~ら、ミオリ、おいでぇ」
「む、ミオリ、おやすみなさい」
「すまなかったな」
モノクロの巨体へ桜花が手を振り、それを引き連れる背へ向かい、レイロードは声を掛ける。言葉足らずだった事に大してであったが、その言葉は、カピタナン警部と桜花、双方に向けられていた。その時、カピタナン警部が足を止めると、人差し指を上げながら振り向いた。
「ああ、そうでした。一つ、宜しいですか?」
「答えられるなら」
「ふむ、なんなりと」
先と似た問答。しかし、その意味は、まるで別物。聞くまでもなく、レイロードはそれを感じ取っていた。そして、届いた言葉もまた。
「宜しく頼みます」
「共にな」
「無論、こちらこそ、ですよ」
頭を下げるカピタナン警部と共に、ミオリも大きな頭を可愛らしく下げる。レイロードは軽く手を挙げ首肯し、桜花が一歩足を引きながら、優雅な礼で応える。短い言葉の中に、信用の芽が見えていた。
何とも穏やかな風が、その場を包む。それこそ、今が日常であると囁くように。この街は、安らぎの中にあるのだと、伝えるように。
――だから、平穏な日々の中で、死者など出る必要はないのだ。そんなものは、そんな事は、戦場だけで十分だ。
そう信じて、見えない理不尽を握り潰すかの如く、レイロードは拳を握り込む。桜花の黒い瞳に奔る己顕光もまた、一際に強い輝きを放っているように思えた。とは言え……。
「……先ずは……寝るか」
「まぁ、そうですね……」
「いやぁ、睡眠も仕事の内ですからねぇ」
やれる事に変わりはなく、レイロードは仕方なしに呟いた。何時もの半目を飛ばしながら、桜花も仕方なしにと同調する。仕方ないですねと、はにかむピタナン警部と共に、ミオリを撫でつつ、一行は星空の下を後にした。
そしてその夜は結局、何も起きる事はなかった。