3. 残されたもの-3
◇
窓辺に浮かぶ茜色、その中に漂う目映い光が、夜を引き連れながら地平に沈み行く。鮮烈な光に照らされ鎮座するビル群が、自らの影に飲み込まれていく姿は、幻想的でもあり、言い知れぬ不安をも駆り立たてる。その姿を、男はただただ眺めている事しか出来なかった。
体を動かそうとはしてみても、足の先から手の先まで、至る所に力が入らない。まるで神経を引き抜かれたかのようだ。電源の入らない家電製品にも似た有様で、虚ろな瞳を周囲へ巡らす。役目を終えた幾つもの古兵達が、静かにその身を休めていた。
その中で唯一人、身を削り、芯を折られてもまだ、立ち上がろうとする者が目に映る。嫌でも目に映る。その気持ちは、嘗て男の中にもあったのだ。今は、何処かにレンタルしてしまっているようだが。
鈍い光を放つ地肌が、何故何もしないのだ、何故再び立ち上がらせてくれないのだ、そう訴え掛けてくる。その光に、年老いた無念な顔を幻視し、心まで飲み込まれそうになった時、耳元に届いた声が、辛うじて男を現実に引き留めた。
「ソール……無理をしないで……お父さんが亡くなって、どれ程あなたが苦しんできたのか、私は知ってる……ずっと見てきたから……何かに怯えて、何かに耐えて、必死に忘れようとして……そんなあなたの姿を見るのは、私は見たくない……ねぇ、ソール、お父さんは、もう居ないの。ずっと……居なかったの……ねえ、目を逸らしたっていいじゃない……例え、お父さんが出来た事を、あなたが出来なかったとしても、あなたは、お父さんに出来なかった事をしてきたじゃない……」
胸元に顔を埋める妻の、抑揚のない、然れど切実な力強さが込められた声にしかし、ソールは頷く事が出来なかった。禄に動かない腕が、緩慢な動作でゆっくりと、胸元の妻を引き離す。まるで慈しむように。
「ソール……?」
「違うんだ……アンナ……きっと、違う……逃げていただけなんだよ、俺は……」
戸惑うアンナに、ソールは力なく微笑み掛ける。都合のいい事に、言い訳だけは、直ぐに口を衝いて出ていた。
「そうさ……俺は親父の後を継がなかったんじゃない……継げなかったんだ……。
逃げたんだ……誰からも責められない事をいい事に……。
俺は、結局、親父と同じ事は出来なかった……職人技術じゃ追いつけないから、工業技術を取り入れてみたりして、それっぽくしたけどさ……」
CTスキャンによる断層解析、NC加工による精密な外観構成、トリアジンジチオールを用いた分子接着材による断層の結合、プラズマコーティングによる耐熱性などなど、色々とやって来た。結果だけ見れば、出来上がってきた物は、父、ディヌ・イリエのそれと同様、若しくは、それ以上だった筈だ。
「結局、それをやっているのは機械なんだよな……俺じゃない……親父の、技術じゃ、ない……」
「いいじゃない機械だって……なんだってそうじゃない? 人はそうやって、文明を築いてきたんだもの……木の家が、コンクリートになって、木の食器がプラスチックなって、本がディスプレイになって……私達が当たり前にマナだって、昔は人間が直接使っていたって言うじゃない? 凄く嘘っぽいけど。私はそんな人、見た事も聞いた事もないもの」
泣きそうな笑顔で、必至にソールを肯定しようとするアンナに、それでもソールは頷く事は出来なかった。理由は、この小さな古戦場のそこかしこに散らばっていた。
「でも、そうじゃないものもある……今、剣を振るう連中は、己顕士くらいのもんだ……あの連中の力は、科学じゃ解明されていない……訳の分からない力を、それっぽい理由を付けて、原理も分からず使ってる……」
実に馬鹿馬鹿しい話だと、たどたどしく口にしながらソールは苦笑する。群れを、科学を、人間の文明を否定するように、今でも己顕士達は剣を振るっている。嘗て剣を振るっていた軍は、人間の文明に従い銃砲火器で武装した。彼の者達の何と原始的な事だろうか、そう思う事も、確かにあった。
「でもさ……だから親父は、そんな連中が命を預ける相棒を、人の手で、届けてやりたかったんだと思う……」
――何だか味気ないな――
ソールが、漸く満足の出来る仕上がりになったと思った剣を、手に取った己顕士がそう呟いた。実に僅かな、それこそ、本人は口に出した事すら気が付かないだろう程の僅かな声。それが、何故か耳に届いた。
そんな筈はないと思いながら、ディヌの収集していた古兵達を、久方ぶりに眺めたのだ。確かに、それらは皆、ソールの作った剣からすれば、精緻さはなかった。しかし、華はあったのだ。そこに込められた想いの全てが分かった訳ではない。だが、刃に映る情念は、明確に見て取れた。愕然とした。だが、それ以上に、何処か納得している自分も、確かにいた。
「それが分かってからさ、剣を作ろうとする度、親父の顔が浮かんできた……何をやっちょるんだ……そんなモンが刀であってたまるかっ、てさ……。
……あ、"あの時"の! "あの時"の親父の顔がッ! お、俺をッ! 責めているようでッ!」
「ソール!? 大丈夫! 大丈夫だからっ!」
再び浮かんだ父の顔に、取り乱し掛けたソールを、アンナが必至に諫める。強く抱きしめられた体に感じた温もりに、荒い息と、虚ろな瞳を浮かべながらも、ソールは何とか止まる事が出来た。
「あ、ああ……っ、分かってる……分かって、いるんだ……」
「ソール……」
結局、何も分かっていなかった。弱々しく、アンナに応えた言葉とは裏腹に、あの時のソールは、明確にそれを感じていた。だから、工作機を仕入れた伝を使い、同メイカー製の家電を売り始めたのだ。他店よりも比較的安く手に入れられたそれらは、つまり、値段を下げる事も容易だった。後は裾野を広げていくだけ。剣を作るための積み重ねは、それよりも、家電を売る事へ力を発揮していた。だが、それ以上に――。
「もう、終わっていたんだよな……親父が逝っちまったあの時に……」
「…………」
――そう、本当は、諦めていたのだ。だから、父の残した技法を追う事を、止めていた。
漸く力の戻ってきた四肢に、なけなしの力を込めて、ソールは緩慢な動作で身を起こす。一方でアンナは、ソール以上に力なく項垂れ、言葉を発する事はなかった。
愛想を尽かされたかもしれないな、そう感じながらも、それも仕方がない事だと、何処かで納得していた。父、ディヌが亡くなってから、ずっと傍で支え続けてくれていた。弱音を吐いた事もある、情けない姿も見せてきた。だが、父の後を継ぐと言い張り、心の底で諦めていた事は、隠していた。
「アンナ……それ……警察にに届けておいてくれ……ははっ、持ち主が、何処の誰かも、聞いてなかったからさ……ほら、イクスタッドなのか、ルーデルヴォルフなのかも、分からない、だろ?」
力なく愛想笑いを浮かべてみた所で結局、目を背ける事しか出来なかった。何をやっているのだろうかと思った所で、何も出来はしない。精々が部屋の片隅に残された刃から、目を背ける事くらいだった。
父に、妻に、愛する者達に、何も報いられない自身の無力さが情けなかった。その事から目を背け続けた自身が、情けなかった。
「……諦める、の……? "また"、諦めるの……?」
「え……?」
静かに響いた思いも寄らぬアンナの声に、ソールの瞳はその姿へ釘付けにされていた。
何を言っているのか、直ぐには判断出来なかった。ただ、狼狽える事すら忘れてソールはアンナを見つめた。俯くその姿からは表情を窺い知る事は出来ない。見知っていた筈の妻の姿が、得体の知れない何かに思えて、ソールは知らずと後退っていた。
こんな時、己顕士達ならば、象圏で知る事が出来るのだろうかと、ソールは現実逃避にも似た思考を巡らすが、再び届いたアンナの声はそれすらも許さなかった。
「知ってた……」
「え……?」
「あなたが、お父さんの影から逃げていた事、すぐに気が付いた……それでもいいと思った……あなたが、少しでも前向きに考えてくれるならって、少しでも、心が楽になれる習って……。
でもね、ねぇ、知ってた? あなたがモニター越しに、剣の出来上がりを待っている姿……」
日がな一日、自身を眺めている程ソールはナルシストではなく、故に、問われた所で答えなど出よう筈もない。ただ、ソール自身に宿る記憶では、苦悶に顔を歪めている、そんな気がしていた。が、アンナの口から届いた声は、またもソールが予想だにしていない物だった。
「楽しそうだった……すごく、楽しそうだったの」
「おれ……が……?」
訳が分からないと、呆けた声を上げるソールの前で、アンナが静かに顔を上げる。そこには、化粧も崩れ、泣腫らした跡がくっきりと残っていた。が、発せられた声は、その様に反して、実に力強いものだった。
「そう、あなたが」
そう微笑み掛けるアンナの笑顔は、ソールにとって、変えようがない程の美しさを放っていた。
だと言うのに、滑稽な悲嘆に暮れるソールには、その笑顔は寧ろ、自身を責めるているように思えてならず、奥底に淀んだ暗い感情を急激に揺り起こす。
「ち、がう…………。
違うッ! 違う違う違うッ! ……だったら、だったらこの感情は何だッ!? 体を掻き毟るようなこの感覚はッ!? お、俺はッ! 何時も感じていたんだ! 剣を打つ度にさっ! 漸く全部忘れられそうだったんだ! なのに! なのに! あ、あれが、あの刀がッ! アレを直せるかと問われてッ! またッ! 何で、あの子もッ! 君もッ! 何でッ!? ……っ!」
何処の誰とも知れない者が置き去った刀へ、わななく指から、囚われた激情を叩き付けるが如く差し向ける。その瞬間、鈍い光を打ち返す刀身に、ソールの瞳はそれを捉えた。父の顔を。歯を食いしばり、眉を歪め、怨嗟の念を募らせる、おどろおどろしい顔を。
「……っ!」
息を飲み、反射的に指を引いたソールの前で、その顔に怯えが浮かんだ。今のソール、そのもののように。
違う、そうではない。気付いたのだ。父の顔ではないと。その顔は、紛う事なく自身の顔。何も出来ない悔しさに、届かなかった口惜しさに、届かなかった場所を、未練がましく睨み付けている、ソール自身の顔だったのだと。自身の苦渋を、父の面影に重ねていたのだと。
そしてその瞬間、唐突に理解した。してしまった。それは二人が親子だったからなのか、共に目指した先が同じだったからなのかは、分からなかったが。
「そう、か……そう、だったのか……はは……はははははは……」
「ソール……?」
顔を歪め、涙を浮かべ、壊れたように乾いた笑い声を上げるソールに、アンナが困惑の声を掛ける。しかし、それすら耳に入らないのか、ソールは掠れた笑い声を上げながら、己が体を引き裂かんばかりに抱きしめ、そしてまた、嗤う。
「アンナ、アンナ……分かったんだよ、俺は分かったんだよ……親父が逝っちまった時、何を考えたのか……何を想ったのか……漸く分かったんだよ……」
「……え……?」
実に単純な答えだった。実に分かり易い答えだった筈なのだ。日がな一日剣を鍛える事を考え続けた男が、死の瞬間に思い描いた事などは。
「親父は……悔しかっただけなんだ……もう、剣を打てなくなる事が……悔しくて悔しくて仕様がなかったんだ……あの時の親父は……もっと剣を打たせろとッ! たったそれだけの事だったんだッ! 今更分かった所でッ! ……ツ!?」
小さな古戦場に響いた、鍛冶士の唐突な嗚咽はしかし、同様にして唐突に止まる。その、赤くなった瞳は、眼前に横たわる刃へ吸い込まれていた。
おかしい、何かがおかしい。初めて見た時には、これ程の刀を直せるのか、と言う不安から目が曇っていた。が、喚き散らした事が功を奏したのか、緊張は霧散し、目の前にある二振りの刀を、冷静な心で捉えさせる。
「ソー、ル……?」
不安げな妻の声も耳に届かないように、夢遊病患者もかくやと言う足取りで、ソールは騎士の残した刀を手に取った。未だ覇気を失わないその刀身を、穴が空く程に見つめる。そして、撫でるように刀身へ指を滑らせた。その地肌は、不気味な程に一切の歪みなく整えられ、人の手で作られた事さえ疑念に思わせる。
「ね、ねぇ……」
軽く刀身をしならせれば、粘りのある弾力が指を押し返す。そのまま刀身の中程まで指を滑らせれば、そこだけ粘りが薄い。やはり、芯金が折れてるか、大きく損傷している。
やはり、おかしい。芯金は、刀の中で最も柔らかい部分だ。その芯金が損傷しているにも関わらず、最も硬い刃金には、大きな損傷は見られない。鎬にもだ。
「…………」
実に不可解な現象である。オリハルコンであればいざ知らず、現代において、鉄の刃同士を打ち合わせる事は考えられない。容易く砕けるからだ。が、それでも、芯金が損傷した以上、何らかの衝撃が刀身に加えられた筈なのだ。であるのに、その痕跡が見られない。
恐らくは、折り重ねた刃の積層がズレ、歪み、衝撃を受け流した。そして、それらの力を一身に受けた芯金が、遂ぞ耐えきれずに折れたのだろう。そう推測した事に、根拠がない訳ではなかった。それを
「アンナ……覚えてるか……? 親父が亡くなった日に作った、刀の事……」
「え? え……? あ……もしかして、失敗して割れちゃった、あの……?」
頑なに閉ざされていたソールの口から零れた言葉に、アンナが素っ頓狂な声を上げる。そこから発せられたものは恐らく、当時のアンナが感じていた素直な感想だったのだろう。自ら口にした言葉にハッとして、口元を押さえるアンナに、疲れた笑みを見せながらソールは頷いた。
「はは……、まぁ失敗したんだ、間違ってはいないさ。そう、そいつだ……」
「え、あ、それが……どう、したの……?」
「同じなんだ……」
「え……?」
恐る恐ると尋ねるアンナに振り向く事はなかった。脳裏に浮かぶのは、出来たと思い込んでいた刀。ソールにとって忌まわしい記憶でしかないその刀。それは、分子接着剤を使い、極薄の積層と、四方詰めを再現しようとした刀。その刀が割れた時と、よく似ているのだ。
その際も、刀身の歪みが伝搬し、結合箇所に収束して割れた。出来映えこそ比較にならないが、起きた現象は同一の物だろう。
「同じ、なんだ……」
「…………」
そう口にしたソールの言葉が、震える。もう一つ、同じ物があったのだ。アンナが手を伸ばそうとし、結局胸元に木戻した事を感じながら、ソールは眼前の刃を軽くなぞる。それが、この地肌。そこに刻まれた、加工跡。刀身の曲線と一切紛う事ない極小の溝が、這わせた指から伝わってくる。人の手によるモノでは、ない。間違いなく、NC加工によるヘアラインだ。
「そう……同じなんだ、同じなんだよ……」
震える声は、もう一つの残された物に向かっていた。鎬が削ぎ落とされ、芯金が露出し、手の施しようがなくなった、もう一つの刀。それでも尚、見た事のないような、それこそ幻想のような輝きを放つ刀。手で打ったのだと、一目で看破できる程の優しさと、覇気を感じさせた刀。それも、同じ。
削られた断面の積層が、幾ら何でも綺麗すぎた。つまりは、"加工"した物だったのだ。無論、それだけではない。それだけでは、この美しさは作り上げられない。
ディヌが目指した、人の技術による刀。ソールが作り上げようとした、機械工学による刀。その二つが合わさった到達点、それが、この二振りだった。
「多分……この二振りを打ったのは、同一人物だと、思う……そうでなけりゃ、こんなに根幹の技術が似るはずない……いや、そんな事はどうでもいいんだ……どうでも、いいんだ……」
そう、それよりも今、ソールにとって大切な事があった。それは、捨てようとして、捨てきれず、未練がましくも、未だに心の何処かで縋っていた、希望の欠片。何処に仕舞っていたのかすら曖昧な、その欠片。それこそが――、
「アンナ……アンナ……こいつは……こいつは……きっと、俺にしか、直せない……」
「ソール……」
――眼前に横たわる刃を、蘇らせるために必要な、技術だった。目頭が熱い。湧き出たその熱さは、ソールの頬をこぼれ落ち、そしてまた湧き出てくる。感情に引き摺られ、止めどなく溢れて零れる。
「ああ……そうだ! こいつは! 親父には直せない! そうだッ! 俺にしかッ! 俺にしか直せないッ! 直せないんだッ! ……っくぅ、ぅうあああああ! 俺は! 俺はやっと! 親父には出来ない事を見つけられたッ!」
ソールは叫んだ。ただ叫んだ。己の感情の赴くままに、押し込めていた負の念を吐き出すように。それは、忘れようとした物を、再び手にした歓喜なのか、求めていた物に辿り着くまでに流れた、無為な日々への悲嘆だったのか。それとも、心の奥底に閉じ込めた感情を、知ろうとしなかった自身への嘲笑なのか。
ソールには分からなかった。分かりようもなかった。そして、そんな事はもう、どうでもよくなっていた。
「ソール……じゃあ、もう泣かないの。だってほら、錆びちゃうでしょ?」
「う、あ……あ、は、ははは……そうだな、錆びちまうもんな……ああ、錆びちまうもんな」
目元を拭うアンナの指に、暖かに響く声に、ソールは嗚咽混じりで応えた。然れど、その声は、それまでのような空虚な物ではなく、確かな気力を感じさせる。そして、アンナに促されるように、目元の湿り気を拭ったソールの瞳にはやはり、燦然とした輝きが宿っていた。
その瞳を見たであろうアンナからも、穏やかな声が紡がれる。
「うん、大丈夫、錆びてない。錆びてなんか、ない」
「……あ~、アンナ、その、だな……」
「ん? なに?」
心底に安心したような吐息を漏らすアンナを余所に、ソールの口から零れた声は、何故かぎこちない。やや怪訝な顔をしながらも、聞き返すアンナに、ソールは少しばかりの躊躇と共に口を開く。
「いや、持ち主の件、警察に連絡してくれって言ったの、ちょっと待ってくんね? いやほらまだ直ると決まった訳じゃないから下手に期待を持たせるのもアレじゃないかってな?」
最後は息つく暇もなく、矢継ぎ早に繰り出された台詞に、アンナが呆気に取られたようにポカンと口を開け、そして次の瞬間には眉尻を釣り上げた。
「ちょっと~!? 最後にそれぇ~!?」
「いや~ははは、まぁそのなんだよアレだよ!」
「も~!」
その柔らかな剣幕を、引きつった笑みでもって両手で押さえつつ、先程のアンナの言葉を思い出す。錆びていない、それは刀に向けられた物か、ソールに向けられた物か。それとも、両方だったのだろうか。それは分からなかったし、掘り返す気にもならなかった。どちらにせよ、最早、言葉の真意は関係なかったからだ。
ソールは視線を鈍色の刃に向ける。錆び付くには共に早すぎるだろう、との想いを噛みしめて。
窓から覗く睦まじい二人、そこから離れた塀の上で、何かが蠢いた。夜に紛れ、姿は判然としないが、確しかに、何かがうずくまり、淡々と二人を捉えていた。
一時漂った不穏な空気を打ち破り笑い合う姿に、宵の風に、絹糸の如き何かが大挙して踊る。楽しそうに、面白そうに、実に愉快だと、宙に舞う。
「ふふっ、ふふふっ……」
何かの口の端から嬌笑が零れた。その笑みに釣られるが如く、雲間から月明かりが差し込む。柔らかな光が、踊る絹糸を煌めかせ、そしてその姿を照らし出す。
膝まで届こうかという程に長い、烏の濡れ羽色をした髪。四肢を露出させた服装。肩に羽織った朱のマフラーは、スプリッター迷彩を施され、鮮やかに棚引いていた。
「私の出る幕など、一切合切何処にもありませんでしたよ、レイロード……」
ここには居ない相棒の名を呟きながら、桜花は夜空を見上げる。レイロードのマントに似た空色は、輝かしい星々が無数に散らばっている。天体望遠鏡がなかった時代、人々はあの光に何を見たのだろうか。それぞれが、果ても知れぬ何かの可能性なのだろうか。少なくとも、桜花には今、そう思えたのだ。
「ふふっ、刀一振りの修復にさえ口添え出来ぬこの身の、何と無力な事でしょうか……ふふふっ、ええ、私は無力、私は弱い……。
……ええ、実に素晴らしいですね」
黒真珠の瞳に、己顕の収束光と、煌めく夜空を映しながら、桜花は穏やかに微笑み、大きく息を吸い込む。遍く光を飲み込むように。そして、吐き出す。体の中に溜まった、全ての淀みを吐き出すように。
「まぁ、正直助かりましたが……」
桜花自身も気づかぬうちに、心の端が言葉となってついと漏れ出していた。
それは淀みの欠片だったのだろう。無意味に格好を付けてはみたが、手の打ちようなど、何も見つからなかったからだ。
先ずは謝ろうか、しかし、そんな事をすれば、彼にまた要らぬ記憶を呼び起こさせるかも知れない。ならば客らしく、金は出すから直せと迫るか……幾ら何でも横暴過ぎる。ならばならば、説教一つをぶち上げて奮い立たせるか……何様のつもりだろうか。
と、悶々と先の見えない自問自答を繰り返した結果、しゃがみ込み、ストーカー紛いに様子を窺う事へと相成った。
ご近所の方々にでも見つかれば、息を吸うように通報されていただろ。そして身元非請け人として、渋面を更に渋らせたあの男が迎えに来るのだ。堪った物ではない。
「むぅ……」
詮無き妄想とはいえ、余りにもおぞましい結末に、桜花は思わず眉を顰めながら呻き……そこでふと首を傾げた。何を疑問に思ったのだろうかと一瞬迷うが、直ぐに原因へと思い至る。その結果、桜花は小さな吐息を溢した。
「やっぱり、甘えているんですかねぇ……」
レイロードが迎えに来る事を、当たり前のように妄想していた。無意識の内に、頼る相手だと認識していた。桜花自身のために、越えるべき壁となって貰わなけらばならない、"敵"を。
尤も、今だとて、待遇改善の前に立ちはだかる強敵ではあるが、それは桜花の求める敵とは少々違うのだ。強大である事は事実だが。
「まったく、ままならないものだ――」
思い通りに進めた道に、石ころが転がり始めたのは、何時からの事だろう。あの日、あの時、あの男の太刀筋に、心を奪われた時からだろうか。それとも、妹が心を閉ざした時から既に、平坦な道などなかったのだろうか。分からない。
考えても埒がないかと、桜花は軽く頭を振って伸びをする。どちらにせよ、人々の目の前に広がる道は、桜花など無関係に進んでいく。目の前の夫婦のように。
世界の中心は桜花ではないのだ。それどころか、歯車ですらないのかも知れない。その事実は、桜花にとってこれ以上もなく……。
「――実に……ふふっ、ええ、面白い」
見えない先の何と愉快な事だろうかと、桜花は微笑んだ。苦難の先に広がる未来が、上々に転がるのであれば、殊更に面白い。
折れ掛けていた鍛冶士の芯金は折ず、上々に転がった。ならば、姿なき化け物と、その終着点はどう転ぶのだろうか。
きっと上手く転ぶに違いない。何の根拠も示されない行く末を見据え、桜花は夜の闇へと飛び込んだ。もしやもすれば、件の化け物の凶行を、止められるかも知れないと、淡い期待に揺れながら。刀を握る、あの渋面を思い浮かべながら。