3. 残されたもの-2
「その昔、夜はとても怖かった。月明かりがない夜か? いや違う、月明かりの夜こそだ。夜は怖いぞ夜は出歩くな、影に生き血を啜られる。
ほら見るがいい、伸びた自分の影を見ろ。腕はあるのか? 足はあるのか? それは本当にお前の物か? そら見た事か、影がお前を見ているぞ? 見られてしまったか? 見られてしまったな。諦めろ、影がお前に延びてるぞ。ほら眠れない。もう眠れない。呪いがお前を眠らせない。もう夜には眠れない。でも大丈夫、今も夜には月が出る……。
だから夜には出歩くな、眠りたければ出歩くな。今夜も月が出ているぞ……」
淡々とファチェッロの口から語られた民話は、感情の起伏を感じさせないその口調によって、殊更得体の知れなさを増していた。今も、と言う事は、その化け物は生き続けているのだろうか、と思案するレイロードの隣で、桜花が自身を包み込むようにして両腕を摩っている。
「むぅ、ぞっとしませんね」
「ふぅむ、聞いた事のない話ですなぁ……」
目を細めて首を傾げるカピタン警部に、ファチェッロが頷く。一切の変化を見せないその表情が、先の話と相まって、言いようのない不気味さ与えていた。
「そうですね、プラソユ都心で、この話を聞いた事はありません。代わりに、国境沿いでは細々と語られていたようです。
イヴァーニウカ辺りでは、その不死の化け物を、ヴァンパイア、と言う呼んでいたようですね。
私自身、子供を寝かし付けるための与太話かと思っていたのですが……あの顔を見た時、この話を思い出し、呪いなどと書いてしまったのでしょう」
そう語ったファチェッロの瞳の中に、レイロードは確かに見た。戻らない何時かを、未だ忘れられず、然れど諦めてしまった者達の目を。戦場でよく見た目だ。詮索する気は起きなかった。それは恐らく、レイロード自身がそうであったからか。
レイロードが一方的な親近感を覚えている傍らで、そん感情を知ろう筈もないファチェッロは、話を締め括ろうとしていた。
「私がお話し出来るのは、この程度です。参考になるような事でもないかもしれませんが」
「いえいえ、とんでもない。たぁいへん参考になりましたよぉ?」
「実際、存在しないとも限りませんしね。しかし、ヴァンパイア、ですか……ふふっ、中々に骨が折れそうだ」
どことなく目を輝かせる桜花に呆れつつ、レイロードは、何時の間に御伽噺の世界に紛れ込んだのかと、と少々陰鬱な気持ちに囚われた。銃砲火器にオートマタ、科学技術が敵であった頃が、嫌に懐かしく感じられる。重みの足りなくなった腰が心細く思えた時、猜疑を孕んだファチェッの声が聞こえた。
「それはどうでしょうか。当時のアルトリウス王国が、対ロマーニへの足掛かりとするために、イバネシュティを孤立させようと画策したのだ、とする説もあるようですから」
「ああ、成程。昔は噂話こそが真実だったんでしょうしなぁ」
その内容に、拍子抜けした、とでも言うようにカピタナン警部が呟いた。実体のそぐわない言い掛かりや、レッテル貼りなど、己顕士に限らずともよくある話だ。昨日のプラソユ市警での出来事がいい例だろう。何時の時代も変わらないなと、疎ましさから目を逸らすように、窓へと視線を飛ばす。レイロードの己顕光にも似た日暮れの空は、窮屈なその身と違い、何処までも広大に広がっていた。ままならないものだと、レイロードは失笑交じりに鼻を鳴らす。
「ハッ、何ともはた迷惑な話だ……」
「何で黄昏てるんですか……?」
僅かばかりの感傷に浸る間もなく飛んできたのは桜花の半目。刀を直し損ねた恨みを若干、ほん若干込めつつ、レイロードは鬱陶しげに桜花の顔を手で押し込み、無理矢理正面へと向けさせながら、ファチェッロに一つの疑問を投げ掛けた。
「所でドクター、先程から気になっていたのですが、不死、と言う物は、存在しうるのでしょうか?」
「……不可能でしょうね……」
若干の間を置いて発せられたファチェッロの否定に、レイロードは、流石にそんなものは非現実的か、と嘆息した。心なしか、桜花もしょげているように見える。共に、心の何処かでは、不死を肯定されたかったのかもしれない。そうすれば、光に消えたあの紅き王も、この空の何処かを漂っているのかもしれないと、惰弱な妄想に浸れる気がしたのだ。
きっと、日暮れの空に、一際目映い紅を幻視したせいだろう、そうレイロードは納得しようとしたが、ファチェッロの言葉は、それだけでは終わらなかった。
「それは、死、と言う物を、どう受け取るのか、と言う話しになりますから」
「ふむ、と言うと?」
少々哲学的とも取れる返しに、桜花が小首を傾げて問い返す。それはレイロードにしても、そしてカピタナン警部にしても同じであったらしく、男二人は、厳つい顔で眉を顰めていた。
「ベニクラゲ、と言う生き物を知っていますか? その名の通り、クラゲなのですが、このクラゲは恐らく寿命を持ちません。老化した後、若返るからです。これはテロメアを再構築する機能を内包しているからだと思われますが、それはさておき、これを人間に当てはめてみるとどうでしょう?」
「ふむ、老人から赤ちゃんになると……? それは流石に……」
桜花が顔を下げたまま思案げに呟くが、出てきた答えはそのままの物。当然、自身でも納得がいく物ではないらしく、変わらず首を捻っている。レイロードにしても、似たような答えしか思い浮かばず、桜花に補足する形で先を続けた。
「体格が変わりすぎるからな……精々が若いだけじゃないのか?」
「そうですなぁ、となると、老化20代半ばからぁ、とされていますから、その辺りを行き来するんでしょうかねぇ?」
眉を顰めるレイロードに続き、カピタナン警部が話を総括する。リレー形式で出された回答であったが、ファチェッロは鷹揚に頷くと先を続けた。
「そんな所でしょうね。とは言え、純粋な細胞分裂による細胞の刷新とは異なり、テロメアが作り直されるとなると、それは肉体のリセットと言った方が近いでしょう。そして、そこには例外などない筈です」
「例外、ですかぁ? そりゃまた一体?」
ファチェッロの講義を受ける三人を代表して、と言う訳でもないだろうが、カピタナン警部の疑問は、受講者全員の疑問でもあった。そして、間髪置かず、もったい付けず、その回答は提示される。
「脳です。脳も例外なくリセットされるでしょう。それはつまり、記憶が失われる、と言う事です。これは、記憶喪失とは異なる事象だと考えられます。記憶喪失では、全てがなくなる訳ではありません。思考や仕草などに、以前の面影を見る事が出来ますから。
しかし、脳がリセットされれば、全てが失われます。見た目は同じでも、中身は全くの別人となっている事でしょう。果たして、その状態を同じ人間が生き続けている、と言えるのでしょうか?」
「言えんよ。忘れる事の出来ない思い出がある。経験がある。業がある。それが嫌忌であってもな。それをなくせば、今の俺は居なくなる」
「ええ、それは私の死だ。認められませんね。私なら、間違いなく、それは死ですよ」
即答だった。まるで、祈るように手を握り合わせるレイロード、ファチェッロに力強い眼差しを向ける桜花。仕草こそ違えども、その答えを導き出す事に、時間など必要としなかった。
「成程、己顕士さん方らしい、お答えですなぁ。あたしは……どうでしょうねぇ。法的には生存となるんでしょうが……何とも難しいですなぁ」
天井を見つめるカピタナン警部の声は、どこか皮肉めいたものだっただが、それが、レイロードと桜花に向けた物だったのか、明言出来ない自身に向けての物だったのかは、判別出来ない。
三者共に、難しい表情を浮かべる中、ただ一人、話を切り出したファチェッロだけが、表情一つ変える事なく、淡々と頷き話を続けていた。
「そうですね、難しい話です。生き続けている、と言う方もいれば、もう死んでいる、と言う方も居るでしょう。
では、よしんば、記憶は残ると仮定してみましょう。しかし、脳にも限界容量は存在しています。百数十年、とされているそれを越えた時は? 新たに脳が作り替えられる時に、それまでの様記憶を引き継ぐとするならば、新たに記憶出来る余裕はありません。海馬の性質を考えれば、一瞬は記憶出来ますが、直ぐに忘れてしまう……。
誰も覚えられず、何も覚えられない。過ぎゆく時間とは裏腹に、本人は過去にだけ囚われ過ぎてゆく、それもまた、生きていると言えるのでしょうか?」
ファチェッロの問い掛けに、今度は即答出来るものは居らず、僅かな空白が生まれる。一見すれば、認知症に近しいが、受け答え自体は破綻しない筈だ。ただ、その事を覚えていないだけ。それは何なのであろうか? 答えなど出ようはずもなく、レイロードは頬杖を突きながら嘆息した。
「それは流石に、何とも言えん……」
「人として生きているのかは、どうでしょうね……それが私だとして……どうでしょうね……」
「これもまた難しい話ですなぁ……」
釣られるように、桜花もまた、難しい顔で続き、カピタナン警部も眉根を寄せる。
「そうですね、これもまた、生死の判別は人によって異なるでしょう。肉体的な話だけでも、これだけ錯綜するのです。もっと精神的な話になれば、誰かの心に生き続ければ、肉体は滅びれど生き続けている、などと捉えられる事もあります。それこそ、きりがなくなってしまう……」
飲みかけのワイングラスを手に取り、赤い水面を覗き込むファチェッロの表情は、終始変わる事なく、その瞳の先に何が映っているのか、判別しようがない。ただただ、黙々と何かを見続けながら、言葉を続けるだけ。
「人間は死を恐れました。それが故に、生きる術を探したのです。そして、様々な生の形を生み出していった……。それが故に、絶対的な死の定義が出来上がらない限り、絶対的な不死の定義も出来ない、私はそう考えています」
一頻り話し終えたのか、ファチェッロがワインを飲み干し、大きく肩で息を吐く。しかし、それは満足げな物とは程遠く感じる物。不可能である事を自らに言い聞かせている、と言う様子でもなく、過去を悔いるような、そう、まるで、悔恨の溜息だった。
なんであろうかと、レイロードが眉間に皺を寄せる傍らで、カピタナン警部の声が飛ぶ。
「成程ぉ、それで記憶のバックアップに繋がる訳ですねぇ?」
「ええ、恐らく肉体を保つ技術は可能となるでしょうか……。
……やはり、事前に私を調べられていた、と言う事ですか……」
「いえぇ、話の流れから、そんな気がしただけですよぉ?」
人好きのする笑顔を浮かべながら、実にいけしゃあしゃあと告げる姿は、詐欺師にも似たものがあるなと、レイロードが渋り、桜花が何時もの半目を向けている。どうしたんです? と、訳が分からないフリをするカピタナン警部に、ファチェッロの口から盛大な溜息が漏れていた。
「貴方がどうお考えになろうが構いませんが、私との接点はないでしょうね」
「あたしはねぇ、ドクター、貴方のお話を伺って、その化け物が今回の犯人だと、直感的に感じたんですよぉ。確信したと言ってもいい」
カピタン警部の口から出た言葉は、決して冗談めいた響きは感じられなかった。レイロードは咄嗟に桜花を見やったが、訝しみながらも、首を横に振るだけだ。そして、訝しんでいたのは、ファチェッロも同様らしく、眉根を寄せながらおもむろに口を開く。
「あんな得体の知れない話を、ですか?」
「ええ、そうです。ですから、その不死の化け物が存在しうる、その可能性が欲しいだけなんですよ、ドクター。貴方の研究はそれに近しいんでしょう?」
不死の化け物、それが存在するのかは分からないが、レイロードの頭の片隅に、何か引っ掛かる物はある。霞掛った思考を、何とか纏めようとするレイロードを置き去りにして、カピタナン警部の追求は進んでいた。
「それに……本当に無関係なんですかぁ? バートーリー・キュルデンクラインの新薬ぅ、老化の抑制なんて代物だそうじゃないですかぁ。先のお話と、どうぉも無関係とも思えない。
かのメーカーはぁ、昔からこの辺りを調査していた形跡があるんですよぉ。それにぃ、ここ最近、ドクターの名前で、イクスタッドへの調査依頼が100件近く出されている。それでも無関係だと? その内の何かが、触れてはいけない物に触れてしまったんでは?」
「……確かに、名義貸しはしましたが、何処の調査をしていたのかまでは知りません。それが罪だと言うのなら、罪なのでしょう」
うんざりとしながら、ファチェッロの瞳がレイロードを捉えた。一人思案していたレイロードが、その視線を捉えてしまった事は、単なる偶然だったのだが、おおよその意味は理解してしまった。思考を中断された事に渋ぶりながらも、仕方なしに助け船を出す。
「警部、他国の企業が、ロマーニで依頼を出す際に、人を集めやすいよう、懇意にしているロマーニ人の名義を貸りるのは、半ば常套手段になっている。責任は各企業が負う形だ。ロマーニでは、名義を貸した側は、被害者だよ……」
「ですから、これ以上はバートリー・キュルデンクラインと交渉して下さい」
気分を害した言わんばかりに、ファチェッロが席を立った。レイロードにしも、桜花にしても、それを諫める手段など、持ち合わせていない。となれば、ただ見送る事しか出来ようもなかった。一人を除いては。
「こりゃぁ失礼しましたぁ。30年近くここだけでやっとりますんでぇ、なぁんせ、ここはロマーニじゃありませんからねぇ?」
面目ないと、はにかむカピタナン警部の言葉はしかし、ロマーニだからとて、目を背けるつもりはない、と言う意思が明、確に込められていた。
だが、冷たく見下ろすファチェッロには、動揺の影など見受けられず、それどころか、実にどうでもいいと言わんばかりに背を背ける。そして、去り際にその口から発せられた言葉もまた。
「その時は、お好きにどうぞ」
振り向く事なくその場を去ろうとするその背中からは、先に垣間見られた情緒の欠片は垣間見られない。そんな鉄面皮で覆われた背中に、カピタナン警部が最後の問いを投げ掛けた。
「ああ、ドクター、最後に一つ。なぁんで貴方は不死、なんて物を研究しとるんですかぁ?」
「……どうも勘違いをなさっているようですから、これだけは言っておきます。私は記憶のバックアップを研究しているだけです。バートーリー・キュルデンクラインに協力しているのも、その一環に過ぎない。不死に興味はないんですよ。だから、今の今まで、あの話を忘れていたんです」
「本当にぃ?」
「しつこい方だ……私は、終わりが来るからこそ、始まりと過程に重みがあるのだと、そう思っています。永遠など、私からすれば、掃き溜めに過ぎないんですよ。
そうれに……癌、と言う病気があります。細胞が死なず、増殖し続ける病気です。人間が皆、不死になれば、それこそ癌細胞と変わりはない。そうなれば、治療が必要です。癌の治療法を知っていますか? 今では薬一つで治りますが、その方法は今も昔も変わりません。
……殺すんですよ、癌細胞を。そう言う事です……」
要は、人間が死なず、増え続けたとしても、結局最後には、溢れた人口を賄いきれなくなり、生き残れるだけの人口を残して、他を殺すしかなくなる、と言う事だ。ならば、不死を求める事など、初めから意味がない。ファチェッロはそう語っていた。
「ああ、それとピースメイカー卿。
もし、暫くしても、体の淀みが消えないようでしたら、剣を振る事をお勧めします。多少乱暴なやり方ですが、その方が馴染み易いでしょう」
最後にそれだけ付け加えると、ファチェッロはその場を去って行った。今度こそ、カピタナン警部も、その足を引き留める事はなかった。一様に皆、静かに見守るばかり。そして、その姿がエレベーターへと完全に消えると、誰からともなく、大きく息を吐いた。その第一声は桜花から。
「いや、何ですかね、自分の事なら何でない筈なんですが、人事だと妙に緊張しますね……」
「戦場の方が遙かに気楽だったな……」
それなりに慎ましい胸を撫で下ろす桜花に、レイロードはおおよそ一般人には理解出来ないであろう感想で返す。しかし、急遽展開された場違いな尋問劇は、確実に二人の胃を蝕んでいた。
「胃に穴が空いたら、労災下りますかね?」
「下りん」
胸元から胃へと、手の位置を変える桜花に冷たく言い放つ。それ以前に、労災を組んでいたか、そもそも組めたのかすら不鮮明だ。胃に痛い事情が増えた事に蓋をするように、レイロードは経口タブレットを放り込んだ。ミントの香りは、気分を持ち直してはくれなかったが、鎮痛作用は胃に効いた、そんな気がした。
「いやぁ、どうもお疲れ様でしたぁ、でぇも、有益な情報は得られたと思いますよぉ? あたしはこのまま、もっと時間を遡って、似た事件を調べてみますが……おんや、お疲れですかぁ? まぁ、後で署までお越し下さいなぁ」
再び、いけしゃあしゃあと宣うカピタナン警部に、レイロードと桜花の恨みがましい視線が飛ぶが、そんな物は何処吹く風と、カピタナン警部が席を立つ。取り敢えず、程度の低い恨みは端に追いやり、レイロードは問い掛けた。
「警部、目星は、付いたのか?」
「……いんえ……残念ながら……バートリー・キュルデンクラインの調査依頼の地も、多岐に渡っています。到底カバー出来る量ではないですねぇ……」
「……そうか……」
それはつまり、新たな犠牲者が出る可能性を示唆している。その場を包む空気が、一段と重くなるのを、レイロードは肌で感じていた。その重さを、少しでも軽くしようとか、カピタナン警部が明るく声を上げる。
「何にせよ、お二人は休んで下さい。恐らく、得体の知れない化け物と、戦って頂く事になるんですから」
だが、そう告げたカピタナン警部からは、事件の最重要部分を、部外者に嫌に任さざるを得ない歯がゆさが漂っており、レイロードは言葉に詰まった。が、そんな横腹を小突く者が一人。何を迷う事があるのかと、訴える黒真珠の瞳だ。確かに、その言葉を放つ事には、迷いなど必要はなかった。故に、レイロードは告げたのだ。
「言った筈だ警部。例えロマーニ相手でもどうにかして見せようと。その言葉に、嘘偽りなど、ない」
その言葉を聞いたカピタナン警部は一瞬、呆気に取られたようにポカンと口を開ける。そして、気恥ずかしいような素振りで頭を掻きながら、エレベーターへと足を向ける。その足が二人の元から遠ざかろうとする際に、宜しくお願いしますと、掻いていた手を頭上に掲げると、足早にその場を去って行った。
「ふむ、少しは信用してくれたようですよ?」
「何もしていないに、ありがたい事だな……」
「警部にとって必要な成果は上げていた、と言う事でしょう。
実際、戦うだけなら、どうにでもなりますからね。相手の顔が知れずとも、関係はない」
「顔、か……そう言う事、なのか……?」
桜花の告げた一言が、レイロードの霞掛っていた思考に風を運んだ。そう、"顔"だ。
ソールの口から漏れた、"あのフード"、と言う言葉。夢で見た4年前、ポンチョ姿のレイロード。銀との遭遇。後に知った、ロマーニ総理急逝。6月頭の事件の顛末で聞かされた、"正体不明なイレギュラーナンバーで傷付けられた事により、回復は絶望的"、と言う脚本。そして、死因の掴めない今回の事件。
ロマーニは、"それ"がもたらす死が如何なる物か把握していた筈だ。でなければ、あの時、あの名も知れぬ銀から、その名が出る事はなかった筈なのだ。
そして、不死が成立するのであれば、"それ"が代替わりなどではではなく、本当に生き続けていた可能性が出てくる。幽鬼のような戦い方から付けられた、と言われる通り名にも、納得がいく。それは、レイロードが一方的な因縁を感じる相手。即ち、100年前の天窮騎士――。
「……歩く死者……"フェイスレス"……」
その名を口に出してしまえば、重みのない腰周りが、急激に頼りなく感じてくる。先の言葉まで、何処か空々しく思えてならない。今はない柄を握り込むように、レイロードの拳が硬く結ばれた。
――ロマーニの銀に、敗北などない――
誰かの言葉が、肩に重くのし掛かる。その一方で、隣から届く声は、実に安穏とした物だった。
「だとしても、私が居る。ええ、私が居ますよ、ここには。
それに、私があなたに勝つまでは、あなたは誰にも負けません。私より高性能な人間など、存在しませんからね」
まるで根拠のない台詞を、自信に充ち満ちて告げる桜花。それなりに慎ましい胸元に、そっと手を添えてふんぞり返るお約束のポーズに、レイロードは、不死の化け物は人間ではないと思うのだがと苦笑した。
気が付けば、心にのし掛かっていた重みが、僅かばかり軽くなっていた。その事に気が付き、再び苦笑する。何時までかは分からない、しかし、少なくとも、今ここには、もう一人居るのだと。再び重くならない内にレイロードは腰を上げた。
「ハッ、往くぞ」
「はいはい」
やれる事など、待つ事くらいだったが、動かなければ何も始まらない。澄まし顔で付いてくる桜花に、レイロードは振り向くと、口角を上げた。
「先に一つ言っておく、フェイスレスとは俺がやる。なに、負けんのだろう?」
「え? いえ、それは言葉の綾と言うか、刀があればの話と言うか……本当に同格なら、刀なしでは無理だと思いますよ?」
「…………」
告げた桜花の言葉に、レイロードの表情は、瞬時に相も変わらぬ渋面へと引き戻される。されど、相も変わらず頼りない筈の腰周りは、不思議と気にはならなかった。