2. 不可解-4
東イグノーツェに位置する国家イバネシュティ。その首都プラソユの中央区、さらにその中心部には、円上に広場が組まれ、噴水が蒼穹に向けて清々しい雫のカーテンを紡いでいる。
尤も、噴水自体はイグノーツェ諸国では珍しい物ではなく、ごく一般的に見る事が出来る物だ。これは、ロマーニの首都、アッレサンドロ・エマネエーレの造りを真似たためと言われるが、実際の所は定かではない。敢えて物珍しい情景を示すのならば、その噴水の縁に座する騎士の姿だろうか。
クラシカルスタイルの全身鎧が、チタンシルバーに空しく輝き、藍色のサーコートが哀愁を漂わせる。夜色のマントは、騎士の心情を写しているかの如く沈んでいた。大きく開いた足、その膝上にそれぞれの肘を乗せ俯く姿は、どれ程の胆力があろうと声を掛けられるような雰囲気ではない。
その様子を桜花は何時もの半目で眺めていた。
「はいよ、ゼロ・コーク二つ」
「ああ、ありがとうございます」
人の良さそうな屋台の店主から掛けられた声に振り向く。艶めく長い黒髪が、蒼に舞った。屋台の端末にPDを翳して支払いを済ますと、ノンカロリーのコークを受け取り、疲れた騎士の元へと向かう。
一縷の望みを掛けて、朝方速くから市内を駆けずり回り、現場検証を行っては見た物の、成果は大して得られなかった。
最初の事件は二十日前、元々は残留物があったとしても、既になくなっているだろう。そもそも、捜査のプロが何も見つけられなかったのだ、無理はない。現場は残り1カ所だが、この調子では望み薄だ。
とは言え、ああも落ち込まれると居心地が悪い。犬がいれば手っ取り早そうだが、流石に見ず知らずの人から拝借する訳にもいかない。こんな物で回復するとも思えないが、何もしないよりはマシだろうと、桜花は、腰掛け項垂れるレイロードにコークを差し出した。
「どうぞ、桜花さんのおごりですよ?」
「そうか」
レイロードが力なく経口タブレットを口に放り込み、受け取ったコークに口を付ける。ハッカと炭酸による無駄な爽快感の合わせ技にも、何時もの渋面は何の変化も起こす事はなかった。
眼前で繰り広げられた下らない惨劇に、桜花は思わず顔を顰めるも、気を取り直し、気持ち柔らかめに声を掛ける。
「落ち込んでいても仕方ありません。月並みですが、やれる事をやりましょう」
「……落ち込む……?」
が、気を遣った筈の相棒は、何を言われているのか分からない、と言った表情で首を傾げていた。尤も、その表情は、大抵の人間からすれば、威嚇されていると感じる形相であったが。
ややして、その強面が得心がいったと氷解し、そしてつまらなそうにコークへ向けられた。
「ああ……いや……。
ハッ、未だに体の怠さが抜け切らん……年だか適応力だかは知らんが、億劫な事だ……」
「コーク代請求してもいいですか?」
誰の影響か、実にケチ臭い台詞が口を衝いて出る。桜花の魔眼プリミティブ・レイ、物事の本質を識るその力は、レイロードが口にした内容が、一切の偽りなく事実であると識らせていた。
達観したかのようなその姿に、恨みがましい視線を送りながら、コークを口に運ぶ。桜花の心情とは裏腹に、露出した四肢に当たる夏の日差しと、喉を潤すコークは、実に清々しかった。
見下ろす先には、一方的に冷たい視線を送る桜花など何処吹く風と、レイロードがコークを啜りながらPDを弄っている。実にふてぶてしい。腹立たしい限りだが、レイロードの状態を見誤ったのは桜花自身の失策だ。痛手ではあったが、失敗もまた、一つの収穫だろうと、無理矢理自身を納得させる。
今回の事件も、簡単に収穫が得られればと、天を仰ぎ、レイロードの声が届いた。
「アズライトか、俺だ」
『おう、お前のアズライトさんだぜ? どうした?』
レイロードの持つPDの向こう側から、軽薄そうな声が風に乗って桜花に届く。盗み聞くつもりはなかったが、桜花の耳には十分過ぎる音量。通信相手は、エレニアナで世話になったレイロードの知己、アズライト・ロッソだった。
「流行って、いるのか……?」
『んあ? 何がだ?』
怪訝な顔で呟くレイロードにアズライトが訪ねたが、レイロードは何でもない、とその場で手を振る。所作だけでPDの向こう側に伝わる訳がないだろうにと、桜花は冷ややかな視線を送った。
『そっか』
が、以心伝心、伝わったらしいアズライトの声に目を見開く。そして、驚愕する桜花を置き去りにし、レイロードはつらつらと話を進めていた。
「今対応している案件で手が欲しい。空いているか?」
『場所によるわな。んで、何処よ?』
「ならば、無理か……因みにだが、イバネシュティだ」
確かに、アズライトの手が借りられれば心強い。報酬の分配にしても、融通は利きそうだ。が、場所によるならば、イバネシュティは遠すぎる。そうそう上手くは行ってくれないらしい。レイロードも、今回は間違いなく落胆していた。
『んあー、そりゃちーっと無理だわ。こっちもこの間の件が尾を引いててなー。騎士団がゴタゴタしてて、イクスタッドに結構仕事回されてんだわ』
「それは……大丈夫なのか?」
一瞬、不穏な気配を感じ、桜花は眉を潜める。それはレイロードも同じらしく、眉を顰めていた。
『騎士団の命令系統がどうとかの話だ。ヤバイもんじゃねーよ』
が、大した事ではないようで肩の力を抜く。レイロードも分かりにくい表情ながら安堵していた。実際の所、騎士団が正常に機能していない事は問題だが、曲がりなりにもローマの傘下。いざとなればそちらから手が借りられる筈だ。イグノーツェの情勢に関しては、桜花よりもレイロードやアズライトの方が遙かに通じている。彼らが問題ないと言う以上、問題ないのだろう。そう桜花は結論付けた。
「そうか……ならばいいが……あぁ、所で、黒龍の空いている時間は分かるか?」
『ヒメナ? あー、どうだったかな。確か、12時以降は空いてた筈だぜ?』
「分かった。データの確認を頼みたい旨、伝えておいてくれ。追って連絡すると。
……すまん、手間を取らせた」
『はいよ、っつか、こっちこそすまねーな、手、貸せなくてよ』
「結局、先もお前達に助けられた、気にするな。こちらは精々桜花をこき使うさ。では、またな」
『ははっ、んじゃぁな。あんま手荒くすっと、ナロニーみたいに誰かに取られちまうぞ~』
「だからナロニーとは、そもそもあれと何の関係が……切ったか」
不満げな仏頂面を湛えたレイロードだが、すぐに軽く笑うとPDを仕舞う。最後に何か聞き捨てならない事を双方が宣っていた気がするが、きっと冗談だろう。冗談だと思いたい。そう願ってみても、桜花の眼とて見えない物は識りようもなく、そして見える一方が、願いを無慈悲に否定していた。
「さて、残りを片付けるか……」
「……精々期待に応えましょう」
桜花のささやかな願いを遮るように、レイロードが覇気なく立ち上がり首を回す。桜花もまた、覇気なく肩を竦め、そしてまた、レイロードの姿を盗み見た。
レイロードとアズライトは6月頭に再会するまで、実に10年の月日があったと言う。それでも、二人の間に、いや、もう一人、アズライトの妻である黒龍との間には、10年の溝は感じられなかった。
ほんの数日ぶりに顔を合わせたような、そんな関係。ロッソ家に滞在した時も感じた事を、今一度思う。自身にも、あんな関係を築ける誰かが出来るのだろうかと。
見上げた空は、桜花に何も教えてはくれなかった。
中央区、噴水広場近く、石畳の遊歩道に囲われた公園がある。その遊歩道から外れた雑木林の中が、現状最後の犯行現場だ。正確に言えば、遊歩道から続く雑木林になる。桜花とレイロードは、その始まりとなるであろう遊歩道に立っていた。
眼前には立ち入り禁止のテープ。その前で、遊歩道の石畳が無残に割れていた。それは、穏やかな日常の中に異彩を放つ。明確に刻まれた爪痕を見下ろし、桜花は口元に拳を当てる。
「ふむ、急にゴッソリと石畳が削られている所を見るに、ここで戦闘が行われた事に間違いはないようですね」
「体を切り返した痕跡が見られない事を考えると、正面に敵性存在を確認し抜剣。一息で撃ち込んだ場所がここ、と言った所か」
「そして、誘導したのかされたのか、そのまま道を外れ奥の雑木林へ、と……」
レイロードの言葉を継ぎ、桜花は起きたであろう展開を見立てながら、視線をそれに合わせて動かす。痛い程に目を指す日の光が、木々のカーテンに吸い込まれ、徐々に力を失い、最後には僅かな灯火となって燃えていた。
それはこの先に足を踏み入れた者の末路を暗示しているようで、桜花はそっと瞼を伏せる。薄暗い瞳の端に、真鍮色の燐光が流れた。
夜明けにも、夕暮れにも似た光、それが閃光となって奔ると、6対の羽を象った。全長1メートル程の、刃と基部で構成された、何処か機械的な羽。天に憧れながら、それを戒めんとする、哀れで、滑稽で、無様な、そして美しい、明けの鴉。レイロードの己顕法、アウトスパーダ・明鴉の姿を。
「何で出してるんですか……」
「使うからだ」
物騒な物を取り出したレイロードに、桜花は何時もの半目で冷たい視線を投げ飛ばす。しかし、レイロードはと言えば、いいから行けと、声の代わりにアウトスパーダで雑木林を指し示してくる。
何をするかは見れば分かるかと、肩を落して嘆息し、雑木林へ足を向ける。その横を数振りの羽刃が通り抜けていくが、何をするかは、見ても分からなかった。
歪曲空間を足場に、茂った草花を睥睨する。雑木林には、くるぶし辺りまでの草が茂っており、踏み抜いて貴重な物証を見失わないようにするためだ。
後ろのレイロードを見れば、あちらは憧憬の己顕法によって、自力で浮かんでいた。不機嫌そうな渋面に真鍮色の羽を纏い、ふよふよと宙を漂う重装騎士の姿は、実にシュールで不気味だ。夜に出会えば、亡霊の類いに間違われる事請け合いであろう。
「あそこが終点だ」
その亡霊もどきが示した先は、大凡20メートル程先。そこで真鍮の羽刃が手を振るように揺れていた。レイロードの象圏は確かに広大だが、その分、解像度は落ちる。細かい物の探索には向かない筈だ。と、なれば、あの羽刃、あれが目の代わりになるのでは? そう思いながらも宙を行く。
木々の所々に、移動した際に付いたと思われる傷を見るに、確かに方向は間違っていないようだ。引っ掻くように付けられた幹の傷跡を流し見ながら、桜花は弾むように宙を駆ける。そして、羽刃が揺れる幹を最後に、傷跡はなくなっていた。
「確かに。ですが、足取りも終了、ですね……」
現場は既に調査済み。先の情報も調書に記載されていた。やはり無駄だったかと、肩を落し、今後の事を確認しようとレイロードを見やり、目を細めた。
「ほう、やはりアレは……」
桜花の視線の先には、その真鍮の瞳を閉じ、何かに意識を集中させるレイロードの姿。そして、動けぬ主の代わりにと、12振りの羽刃がゆったりと宙を行く。まるで何かを探しているように。
レイロードは余程集中しているのか、何時もの渋面を何時も以上に歪ませている。その表情は最早、憤怒の形相と言っても相違ない。
探索を行っている事は、おおよそ間違いはないであろうが、そちらの真相は後でいいかと、一先ず事の成り行きに任せようと天を仰ぎ、
「桜花……」
張り詰めたようなレイロードの声が掛けられた。視界の端には羽刃が二振り。それが幹に刻まれた道沿いの左右で、誘うように揺れている。桜花の居る場所から10メートル程、ゴミを落さないよう気を付けながらその場に急ぎ、到着と共にレイロードへ向く。
「それで、何を見つければいいので?」
「分からん……。
何か……何か引っ掛かる……違和感、か……そこだけ何か……本来とは違う……そんな感覚だ……」
「……ふぅ、分かりました……集中してみましょう」
相変わらずの形相を湛え、途切れ途切れに呟くレイロード。その呟きに対して、桜花は軽く吐息を吐き出し答えると、宙に浮かんだ歪曲空間に膝を突き瞳を閉じる。
桜花は僅かな集中の後、レイロードとは相反するように、その黒真珠の瞳を見開いた。桜花の瞳に奔る放射線状の己顕光が、その力強さを煌々と増し、桜花の視界に映る色彩を変える。
本来識る事のない、マナの、己顕の色。大気を所々漂う青白い光はマナ、樹木が、草花が、潜む動物達が彩る多様な色が己顕だ。己顕は人間の特権ではない。生きとし生ける物全てに宿る。クイントと言う、唯一の例外を除けば。
「どうだ? 何か……」
「急かさないで下さい」
長時間は持たないのか、結果を逸るレイロードを、桜花は素気なく斬り落す。その傍ら、賑やかな色を見つめながら、更に象圏にも意識を集中。半径3メートル、極狭い範囲ではあるが、その分解像度は高い。目で見て、手で触れるのと変わらない、いや、それ以上の精度で周囲を探索していく。そして確かに感じる不協和音。
「確かに何か……」
口に出しながら、その正体が掴めず首を捻る。場所は足下、茂る草の絨毯。そこを象圏で以て、草の1本1本を撫でるように探索する。そして、徐に腰からピンセットとビニールを取り出した。
見失わないようにゆっくりと、確実にそれを目指してピンセットを進める。僅か数秒が数時間にも感じる中、遂に折り重なる草の間から、それを掴む事を成し遂げた。緊張を解くと同時に息を吐き出し、長さ3センチにも満たぬか細い獲物を眼前に掲げる。
「繊維?」
それは何かの糸くずと思わしき物。見ただけでは判別出来ないそれを、慎重にビニールパックへ収納する。これで後一つ。先と同じ作業を繰り返すとなると気が滅入った。が、そうも言っていられず、気怠げに体を立たせると、もう一つの羽刃へ足を向ける。はやくはやくと、犬の尻尾よろしく揺れていたが、本物の犬のように可愛くはなかった。
場所を変えてもやる事は同じ。全神経を集中し、幻のような何かに手を伸ばす。それは、居もしない化け物に挑む、童話の騎士にも似ていた。が、化け物は居る。桜花は自身にそう言い聞かせ、ピンセットを何処かに伸ばす。そして……。
「……毛?」
伸ばした手、もといピンセットの先には、先と変わらない長さの、何かの毛。長さから短毛の生物か、何かだろうが、ウサギやリスくらいなら何処にでも居るだろう。己顕を失ったただの毛では、桜花に何も識らせてはくれなかった。再びビニールパックに証拠品を仕舞う桜花の耳に、陰気な溜息が届く。
「一応は、収穫か……」
「まぁ、結局これが何かに依るんでしょうが……徒労に終わらない事を願いましょう」
全身の力を抜き、不承不承ながらも安堵しているレイロードに、桜花も力を抜きながら答える。手にした糸が、事件の真相を手繰り寄せる事を、何処かの神に祈っておく。
天を仰げば、木々の傘から木漏れ日が落ちている。先は影を作り出すだけだった光だが、先を示す標になるだろうかと、桜花は目を細めた。