1. 暗雲-1
暖かな日差しに、小川のせせらぎが心地よく届く。
若草が揺れ、新緑が芽吹き、木々のざわめきが涼やかさを演出する。
流れ来る風は優しく過ぎ行き、草木と土の匂いを和やかに運ぶ。
天から届く日差しは笑顔のように柔らかい。
衣替えを終えたキツネが軽快に踊り、背の高い草葉を揺らす。
水辺からカワセミが舞い、青と朱が鮮やかに煌めく。
草原を駆け抜ける清流から、魚が1匹飛び出した。
現れた波紋は流れて消えて、家路に着いた魚がまた一つ、波紋を広げる。
木漏れ日の下で、1組の若い男女が、腰を下ろし寄り添いながら、その様子をうっとりと眺めていた。
「きれい……それに良い風ね……」
「あぁ、ここは何年経っても変わらず穏やかだね……」
「ふふふっ、つい眠くなってしまいそう」
女が男の肩にもたれ掛かり呟く。男がその髪を軽く撫で、女が吐息を漏らす。そんな、甘く緩やかな空気を漂わす二人の背後で、突如木々がざわめいた。男は咄嗟に顔を上げ背後へ振り向く。
「な、何だ!?」
「なぁに? きっと、ただの葉擦れよ」
男の慌てた様子に、女はクスリとはにかむだけで、特に気にもしていない。その様子に、男はそれもそうかと、心拍数の上がった胸を撫で下ろす。が、今はそれ程に風は強くない。木々を薙ぐ程の風ではない筈だ。そう思った途端、草原から森林へと変わる境界線の向こう側が、まるで異界にでも通じる門のように不気味に感じられた。
「そ、そうだね、でも少し場所を変えようか?」
「もう、怖がりなんだから」
男は女の体をそっと抱き寄せると、心に沸き立った怯えの色を諌めながら女に促す。女がふてながらも、笑って立ち上がろうとした時、背後の森林に4つの赤い光が灯った。
『kekekekekeke』
「ひっ!」
それはどちらが上げたものか、男女は共に腰を抜かし後退る。されどそんな事などお構いなしに、ユラユラと揺れながら、4つの赤は二人に迫った。低く低く響き、大気を震わす唸り声を上げながら、ゆっくりと、ゆっくりと。
そして、木々の合間から差し込んだ光が、それを白日の下に晒し出す。焼け焦げたように黒い被毛、太い四肢は大地を憎々しげに踏み締め、大きく裂けた口にはおぞましい牙が立ち並ぶ。三角形の大きな耳は心音すら逃さぬように直立し、燃えるような赤い瞳は狂乱に輝く。
狼にも似た姿のクイント、フィアナータ。それが2匹、口の端から炎の舌を垂らして、闇から這いずり出て来ていた。
『KihakiHa……kiHaaaaHaHAHahahaha』
「ク、クイント!? な、なんでだよ!?」
「い、いやぁぁぁあああ!」
ガタガタと震え後退る男女を、2匹のフィアナータは嘲笑うかの如くねっとりと追い縋る。
クイントが人類の天敵足り得なくなって幾星。しかし、何の力も持たぬ徒人にとって、それは死の宣告に等しかった。女は半ば錯乱気味に足元の草を毟って投げ付けるが、フィアナータの口から漏れた炎に依って灰と化す。その醜悪な姿を見るだけの胆力も消え失せ、泣きながら目を逸らした。
滲み霞んだ視界の先で更に見る。若草が盛り上がり、草原を小さな波のようにうねりながら、葉擦れの音を伴い凄まじい速さで寄る様を。
「な、何なの……」
なけなしの勇気を振り絞り、女の盾となった男にそれは見えず、得てして獲物にしか視線を向けていなかったフィアナータもまた、気が付かない。
『KekeCaCaCaCaKh!』
そして、フィアナータの1匹が、炎の涎を舞い散らしながら宙に舞い、草原の波も二人を飲み込むように湧き上がった。そして、宙を舞い今にも獲物に喰らいつかんとしたフィアナータが、鈍い音を上げ――草の塊に文字通り一蹴されていた。
『Gau!?』
『GhaAAAkuCa!?』
「へ?」
「は?」
男女が呆けて珍妙な声を出す。大地に叩き付けられたフィアナータが、キャンッと見た目にそぐわぬ可愛らしい声で鳴く。そして、足を生やした草の塊が、庇うように男女の前へと立ちはだかった。
「ふぅ、危ない所でしたね。ああ、ご心配なく。私はイクスタッドです、怪しくないですよ?
ほらほら、危ないのでとっとと下がって下さい」
涼やかな、それでいてやや横柄そうな声が、怪しげな草の塊から響く。何処からともなく生えた手が、追い払うようにシッシと払われていた。その素振りに言葉もなくコクコクと頷き、男女がズリズリと草を引き摺り後退する。
『Grururu……』
『Giiiiigagagaga!』
フィアナータは最早、男女に興味をなくしたのか見向きもしない。代わりに、その矛先は草人間に向けられていた。憤怒の形相を湛えて起き上がったフィアナータが、その片割れと共に、草人間へと業火を吐き出す。それを草人間は軽妙な動作で横に逃れ、難なく躱す。そしてその先で、足をもつれさせ草原へと倒れ込んだ。
「むっ? 絡みましたか?」
無駄に冷静そうに状況を告げながらも、草人間はジタバタとコミカルに藻掻く。その度に葉擦れの音が、笑い声のように木霊した。
『Khehufuheheh!』
『GegegeeGruuu!』
無様なその姿にか、フィアナータがケタケタと炎を漏らしながら嗤い、悠然と歩を進める。その口腔に再び炎が浮かんだ矢先、草人間が炎に包まれた。焼き尽くさんと冷たく滾る、薄桜の炎に。
奇怪なその現象にか、フィアナータが肩を落として警戒体勢に切り替える。その眼前で、薄桜の火達磨は、平然と立ち上がた。そして、何かを打ち鳴らす乾いた音が一つ。と共に、薄桜は跡形もなく消え去さる。代わりにと、人の姿を生み落として。眼前で手を合わせ、涼やかな声を響かせる少女の姿を。
「成る程、流石に無理がありましたか」
『Hau!?』
『haGuaaA!』
儚げで、されど弱々しさは感じさせないスレンダーな体躯。力強い意思の光を湛え、美しい半月を描く黒真珠の瞳。膝まで届こうかと言う程に長い、烏の濡羽色に染まる髪。それと相対して、白く澄んだ乙女雪の如き肌。その四肢を惜しげも無く晒し出す、黒いショートパンツと胸当てに、丈の短い白の上着。肩に羽織った朱のマフラーはスプリット迷彩を施され、その姿を鮮やかに彩る。オーバーカップのブーツとグローブを彩るライトブランが、色彩に柔らかさを与えていた。
「それでは、さっさと片付けてしまいましょう」
『GaAAA!』
『AaaaaGugau!』
造作も無い、薄桜の中から生まれた少女の言葉は、明確にそう告げていた。事実、そこから先は、戦いと呼べる物さえ起こらなかった。
顕装術に依って生み出される爆発的な速度。亜音速に達するそれを以って、左のフィアナータへ瞬時に踏み込む。と同時に、歪曲空間を展開した右拳を超音速で撃ち下ろす。
『GeHii!?』
鈍い音と何かが砕ける音を響かせ、大地に叩き付けられたフィアナータの体が弾んで浮き上がった。そへ、左拳で"閑音"を叩き込む。圧縮空間の開放と破壊に依って生み出された、おぞましいまでの衝撃が世界から音を奪い、哀れなクイントをも掻き消しながら、薄桜の花が青空へと幻想的に舞い散った。
息付く間もなく、幻影一つを置き去って、右手のフィアナータへ。"閑音"を纏った左の回し蹴り。語るべくもなく、その個体も薄桜の中へと散っいった。
その間、僅かコンマ3秒。瞬き程度の時間で以って、起こる筈だった惨劇は泡沫に消えていた。
残心を解くと、短く合掌して弔いの意を示し、桜花は未だに動く事ない背後の二人に向き直る。
「そちらのお二方、怪我はありませんか?
ああ、先ずは大きく、ゆっくりと深呼吸しましょう」
不意に声を掛けられてか、件の二人は一瞬ビクリと身を竦めた。が、身振り手振りで深呼吸を促す桜花に頷くと、何度か大きく深呼吸をj繰り返す。そして漸く落ち着きを取り戻したのか、ぎこちなく口を開いた。
「す、すみません、ありがとうございます。この通り、大丈夫です」
「は、はい、お陰で本当に助かりました」
やや硬さを残すものの、笑みを浮かべる二人の男女。その姿に、桜花は顎に手をやり満足気に頷く。意識の錯乱も見られず落ち着いている。これならば特に問題はないだろう。
「なに、これも仕事の内、気にする事はありませんよ。
もう居ないとは思いますが、今日は安全のために引き上げた方が良いですね」
「え、ええ、そうします……」
「本当にありがとう」
桜花の進言に男が頷き、女が涙ながらに微笑んだ。眼前の二人に桜花は表情をやや緩めると、人差し指を立てて忠言する。
「クイントの発生地域は周期的に変わっています。都市から離れる場合は、イクスタッドのインフォメーションで確認を。必要がないのであれば、見通しのよろしくない場所は避けた方がいいですよ。
ああ、機馬まで送りましょうか?」
桜花の提言に、大分落ち着きを取り戻したらしい男が不要だと首を振った。
「ありがとう、でも流石にそこまでして貰わなくても大丈夫だよ」
「その……もうアレは、居ないんでしょう?」
男に比べ、続いて問う女の表情は多少不安げだ。PTSDを起こす程ではないようだが、クイントと言う単語自体にも、若干の拒否反応が見える。なれば、多少はその影響を取り除けるだろうと桜花は頷く。
「ええ、森林を避ければ問題ありませんよ」
その一言に、強張っていた表情を崩し、今度こそ安堵の表情を浮かべた男女は、去り際に深く礼をすると、互いに寄り添いながら草原を去っていく。その姿を、ほんの僅かな眺望の眼差しで桜花は見送った。何時か自身も誰かと寄り添う事があるのだろうかと。
男女の姿が見えなくなると、微細な憂愁に囚われ掛けた胸中を洗い流し、桜花はフィアナータが現れた付近で片膝を突く。
焼け焦げた跡と、その周囲に生息していた草木が萎れている事を確認。クイントが発するマナの影響だ。一瞬眉根を寄せ、腰のポーチから小型のビーカーを取り出し、植物と土壌のサンプルを詰める。そしてビーカーをポーチに仕舞い、立ち上がると背後の草原へと振り向いた。
クイントが消え去り、再び広がる穏やかな時の流れに、桜花は黒真珠の瞳を細める。放射状に収束する薄桜の己顕光が、愛おしげに輝いていた。
その瞳が、草原を割って流れる河川、その水面を割って1粒の黒が浮き出るの見る。
「むっ?」
黒い粒を追えば、その先は茶褐色の被毛に2粒のまたも黒。丸みを帯びた小さな三角が顔を出した。それはそのまま草原に這い出ると、キュイキュイと甲高い鳴き声を響かせている。カワウソだ。機敏に動き回る姿が非常に可愛らしい。気付かぬ内に汎用携帯端末、つまりPDを取り出しカメラに納めてしまう程には。
知り合いの黒い女に頼めばヌイグルミを作ってくれるだろうか? しかし、荷物が増えるのも考えものかと、PDを見つめながら思考を巡らす。
「儘ならないものだ……」
現在桜花は借金生活真っ只中。正確には借金ではないのだが、6月頭につい勢い余って壊してしまった施設の賠償金が、保険額では全く足りず、雇い主たるレイロード・ピースメイカーが全額肩代わりしたのだ。
無論、あの男が好き好んでそんな事をする筈もないだろう。支払い請求が発生した時点で、桜花はレイロードの助手としてE.C.U.S.T.A.D.に転向していた。その結果、頭首であるレイロードに支払い義務が移ったが故だ。
平身低頭、只管平謝りに尽くしたお陰か、何とか熱りを覚ます事は出来た。が、代わりに、レイロードが本調子に戻るまでは、桜花が一切の業務を引き受ける運びになっていた。尤も、カテゴリーA以上の高額案件を片付けて、とっととチャラにしてしまいたいのが本音だが。
だと言うのに今日は環境調査だ。正直な所、退屈なだけで、これは雇い主からの新手の嫌がらせかと思っていたのだが……。
PDから顔を上げる。眼前には草木の微笑みが、小川の囁きが、陽光の香りが、生命の輝きが満ち満ちている。
「ふふっ、存外これこそが極楽浄土なのかもしれませんね……」
風に溶け消える程の僅かな呟きが、草原を見渡す桜花の口から零れ出た。
困った事だが、非常に楽しかったのだ。水質、原生樹木、土壌のサンプル、鳥類、動物の生息分布。悠然と佇む自然に触れ、文明社会から解き放たれる。それは、心洗われ無我の境地に至ってしまいそうな程だ。
ともあれ、解脱するには早過ぎると、再び現世に舞い戻る。必要な分のサンプルは収集し終えた。アレスに戻る頃には12時くらい、ランチタイムにはやや早い。ロマーニのランチは14時頃が一般的だ。
暫くここでのんびりしてもいいのだが、ランチの約束くらいは取り付けておこうかと、PDに目を落とす。電波は微弱だが通信は可能。現状、桜花が気軽に声を掛けられるのは一人だけ。それは桜花の雇い主であり、そして、恐らくは相棒と呼んで差し支えない人物。何時も不機嫌そうに眉根を寄せ、渋面を貼り付けたあの男。
あの男も慣れてしまえば割と愉快だと、レイロードのアドレスを呼び出しPDを耳に運ぶ。幾度かのコール音の後、ややくぐもった声が耳に届いた。
『お使いのアドレスは、現在通信範囲外か電源が入っておりません。時間を空けてからお掛け直し下さい』
「……………」
桜花は表情の抜けた貌のまま無言でPDを切ると、草の絨毯へと儘ならないその身を投げ出した。何やらヒンヤリとして心地良い。その感覚とは裏腹に、冷めていた貌に柔らかな笑みが指す。力強い初夏の感触と香りに身を任せ、暫くはこうしていようかと、柔らかく降り注ぐ日差しを遮り、瞼を瞑った。