エピローグ
雨が降っていた。冷たい雨だ。本当は暖かかったのかもしれない。
空と大地が銀で埋まっていた。それはきっと、壮観と言って良かったのだろう。
弱かった訳では、決してない。十二分に強かった筈なのだ。生き残った事が不思議なくらいに。
雨が降っていた。別れを惜しみ、すすり泣く雨だ。別れの涙を貫いて、声が聞こえた。
――ローマニの銀として死ねるとは思わなかった、ありがとう――
名も知らぬ銀が、血だまりの中、息も絶え絶えに口にした言葉が。
あの銀に誇れる天窮騎士になれたのだろうか? 分からない。
それが出来るまで、レイロード・ピースメイカーは、きっと紛い物なのだ。
目を覚ましたレイロードの視界に映った物は、白い天井と蛍光灯だった。寝かされたベッドも、枕も、布団も、清潔に整えられている。左腕には点滴のチューブ。最近はご無沙汰だったが、昔はよく世話になったものだ。詰まる所、病院のベッドの上で目が覚めた、と言う事である。ならば必然とあの後は上手くいってれたのだろう。レイロード一人では危ない所だった。流石に桜花を置いて行く、と言う選択肢はなかったが、結果的に最良と言って良い落とし所を得たのだろう。
「おや、目が覚めましたか? ドクターを呼びますね。何と言うか、タイミングのいい人だ」
隣のベッドから件の桜花の声が届く。眉根を寄せ、首を軋ませながらそちらを向けば、ファッション雑誌を捲っていた桜花が呼び鈴を押していた。未だ体が言う事を聞かないレイロードに比べれば、随分と調子はよさそうだ。
室内は二人きり。それも非常に広く立派な物だ。浴室から洗面所まで、一通りの完備されているように見受けられる。最早、病室と言うよりもホテルと言った方が近い。VIP用の特別病室だと見て取れた。
PDの身元照会から天窮騎士の素性が判明し、関係者と思われる桜花共々、ここに回されたのだろう。この時ばかりは、重荷と思っていた称が、素直に有り難かった。
話をするにも話し難いと、ベッド脇のスイッチを押す。僅かな駆動音を伴って、ベッドが起き上がった。
「……あれから、どうなった?」
絞り出された声は、自身が驚く程低く、且つ、掠れていた。丁度枕元に置かれていた時計に目が留まる。指し示していた日付は6月12日11時。4日間近く眠っていた事になる。声も出ない訳だ。
「もう、大変でしたよ? あなたはバカみたいに重くて、私では引き摺る事も出来ませんでしたし。
クイントは寄ってくるわで。速やかにお却り頂きましたが。
丁度、通信配送業者の機馬が通らなかったらどうなっていたか。禄に動けなかった私が言えた義理ではありませんが」
「いや、あの付近なら最低でも日に3回は通る筈だった。上手くいったな……言っていなかったか?」
「聞いてませんよ……」
疲れた顔をしながら頭を振る桜花に、レイロードは特に表情を変える事なく告げた。のだが、桜花の半目に少々気後れし、結経、何時も通りに眉を顰めるに至った。
現代では、大都市間に関しては、地下に設けられたトンネルを通る専用回線で通信が繋がるが、そこから外れた小規模の町村では、直通で通信が繋がらない事も多い。そのため、データパックを機馬で輸送し、大都市で処理する業務が発生している。そして、業者は機馬の走破性能を利用し、街道を通らない事も多いのだ。その騎馬に発見されるのを見込んでの位置取りだった。
「そうか、済まんな。体調は?」
「私はメディカルポッドに入ったので。怪我は治っていますね。
しかし……始めて使ったんですが、出てから倦怠感が抜けきりません。体と感覚のズレも想像以上に酷いんですが……まるで思うように動いてくれません。こんな物なんですか?」
「個人差がかなりあるらしいからな。お前はそんなものなのだろう」
軽く謝罪し、桜花に容態を聞くも、怪我は治れど入院生活には変わりがなかったらしい。首を捻る桜花に軽く笑った時、ドアからノック音と男の声が響いた。
「ピースメイカー卿、担当医を申しつかりました、エッスィオ・ファチェッロと申します。入室をご許可頂けますか?」
「どうぞお構いなく。楽にして頂いて結構ですので」
少々固い声色に、レイロードはなるべく柔らかく答え招き入れる。その声に従い入室して来た医師は、30歳代半ばといった所。何の変哲もない黒いフレームのメガネが、神経質そうな印象を与える。看護婦1名を従え、硬い表情のままレイロードの元に寄り、失礼します、と簡潔に一声掛けた後、簡単な問診を行った。
「経過は順調のご様子。少々骨や筋肉に損傷は残っているでしょうが、暫く休息を取られれば回復なさるでしょう」
「なに?」
体は随分とガタが来ていた。数日寝て治るものでもない。特に問題無いと言われ、レイロードは思わず眉を潜めた。その仕草にか、医師と看護婦の肩が揺れた。しまったと思いフォローしようとするより早く、医師が口を開く。
「失礼致しました。こちらがお運び入れました時点で、意識不明、全身の筋肉及び骨格に断裂が見られ、加えてマナ汚染による壊死も散見されると言う重篤な症状でしたので、当院の判断にてメディカルポッドでの早期治療を試みさせて頂きました」
道理で自身の認識に比べれば体の負担が少ない訳だ。メディカルポッドは好きではないが、話を聞く限り、想定した状態より遥かに酷かったらしい。マナ汚染はイグノーツェに弾かれた時に負ったものだろう
か。どちらにしろ過ぎた事だと首を振る。
「成る程、いや失礼しました。何分、私の認識では全身に怪我を負ったままでしたので。助かりました。
問題ないのでしたら、もう一休みさせて頂いて構いませんか?」
「勿論です。十分な休養をお取り下さい」
竦み上がっているように見える医師に気を使い退室を促せば、医師は一礼し、そそくさとその場を後にする。隣のベッドでは、桜花が枕に顔を埋め、必至に笑いを堪えていた。実に理不尽である。
どうしてくれようかとコメカミを抑えていると、再びドアがノックされ、若くとも相応とも取れる声が、実によく知った声が届いた。
「ひ~めちゃ~ん、荷物持ってきたよ~」
「あ、はい、ぷふっ、ど、どうぞ」
桜花がそれに吹き出しながら答え、開かれたドアから荷物を抱えたナロニーが現れた。
「お邪魔するね~って!? レダくん!? 目が覚めたんだ!? いや~よかった~!」
「丁度先程な」
レイロードの顔を見るやいなや、大仰に安堵して見せるナロニーに軽く手を上げ答える。目覚めた時に桜花が口にした、タイミングがいいとはこの事だろう。
次いで、椅子持ってくるね、と奥に消えたナロニーの代わりに、新たな声が響いた。
「あら? ピースメイカーも目が覚めたの? 僥倖ね」
「おー、んだよ。ナイスタイミングじゃねーか」
絡み付くような声と、何処か軽薄そうな声が。そして、顔を覗かせたのは、紫銀の髪と、グレーの髪。黒いゴシックロリータファッションに身を包んだ長身の女と、松葉杖を突いた軽薄そうな長身の男。黒龍とアズライトであった。
「ハッ、そちらも無事だったか」
「ははっ、こっちは運良く人里近くに落ちたんでな。直ぐに連絡が付いたんだよ。収容先はここじゃなかったけどな。俺は単なる肉離れで済んだしよ」
口の端を釣り上げ笑うレイロードに、アズライトも笑いながら返してくる。黒竜はと言えば、大きなバスケットを持って桜花の横に立っていた。そちらに視線を向ければ、黒龍が紫銀の髪を弄りながら朗らかに口を開いた。
「ああ、これ? 何だかオニキスが気に入ったみたいなのよね。同じ色だからかしら? 考えてみれば、あの子達の前で、この色を見せた事はなかったのよね。だからまぁ、これでいいのよ」
レイロードは別にそれを聞いた訳ではなかったのだが、本人が納得している以上、口を挟む理由など何もなかった。ただ、結局意思の疎通が儘ならない、と言う事が露呈しただけだった。何処までいっても、分り合えない人間は居るものなのだろう。
レイロードが感慨に耽る間に、黒龍は桜花へと向き直ると、バスケットへ手を差し入れた。
「はい、おみやげよ」
言いながら、黒龍がバスケットから引き出した物は、モノクロームの物体。瞳が隠れた長い被毛。鼻先から頭頂、肩口から前に掛けては白。垂れた耳と胴は黒。足先と尻尾の先には、可愛らしく白が乗っている。そんな特徴を持った中型犬、のヌイグルミであった。
「むぅ~! ゆきむね~! ありがとうございます!」
「はいはい、ふふふっ」
桜花が嬌声を上げヌイグルミに抱きつくと、そのまま実に幸せそうな顔で頬擦りをしている。桜花の家、佐伯家の愛犬なのだろう。その様子を優しい呆れ顔で黒龍が宥めている。釣られてレイロードにも、柔らかな苦笑が漏れた。
それはそれとして、一つ重要な案件が発生した事に気付く。
「ん? 何だ、俺の分はないのか?」
そう、レイロード・ピースメイカーへの見舞いの品、である。レイロードの発言にアズライトが苦笑し、椅子を取って戻って来たナロニー含め、女性陣は冷たい視線を送ってくる。
何かおかしな事を言ったのだろうかと眉を顰めるが、黒龍が投げ渡してきた物を手に取り、ほんの少し納得した。
赤毛だが首周りは白く、足先と尻尾も白い。やや大きめの頭部にふっくらとした腹部。眠たげな瞳が実に愛らしい。小ぶりな中型犬程の大きさの子犬、正確に言えば、ヨアケオオカミの子狼、のヌイグルミであった。
成る程、ヌイグルミの催促をしたと思われていたと言う事か。そして、桜花に渡した物を見れば催促してくるだろうと思われていたと。何とも理不尽な話だ。
が、最近の和雲にはこんな言葉があると聞く。可愛いは正義。ならばこの小狼も正義なのだろう。然らば一体何の問題があろう事か。
「では、名前はアルくんで」
丸く整えられたユキムネの前足で指し示し、真顔で命名する桜花に、レイロードは、まぁそれでいいかと、今回の功労者足る小狼を、膝の上に乗せるのだった。
「んじゃ、チャチャッと国家連合統括機構からの報告だけして帰りますかね~」
比較的大型のディスプレイを取り出し声を発するナロニーに、アズライトと黒龍が用意された椅子に腰掛ける。レイロードも緩んだ気を若干気を引き締めた。
「先ずはマグナ・ドラゴンに関してだけど、当然ながら秘匿扱いね。後、代理通達では受理出来ないとして、天窮騎士からの正式な報告を要求されているから、レダくん、後で送っといてね」
レイロードは、頷く代わりに、膝上のアルくんの前足を上げて応えた。無駄に作り込まれた肉球が光る。が、周りからの反応は特になく、アルくんのつぶらな瞳を、ふかふかの前足で恥ずかしげに覆い隠した。
特に気にした素振りも見せず、ナロニーが言葉を続ける。
「うちに仕掛けてくれちゃったテロリスト共なんだけど、旧ペトラ・マッキナがリーネアレガーレに吸収された時からの職員で、聖地奪回を掲げる教会派、とか言う迷惑な連中だったみたい。唆されてホイホイ付いて行ってしまったよ、っと。
処分はあってないような感じかな。流石にロマーニ帝国御用達の大企業へ、強く出るなんて出来ないもんね~。協会派の一掃で手打ちにしみたい」
そこは余り気にしていない部分であったため、レイロードしては、と言うより、皆大して興味なさげに聞き流していた。その教会派とやらも、今回の3人以外居ない事になるのであろうし。茶番だなと、鼻で笑う。
「んで、聖導教皇エステバン・ルシエンテスに関してだけど、まぁ、表立っては特に何もなし。マグナ・ドランゴンなんて存在していない、っと。
とは言え、野放しには出来ないって事でロマーニで幽閉。対外的には、イクスタッドフォンティアナ局襲撃事件の際居合わせ負傷。一命を取り留めたものの、正体不明なイレギュラーナンバーで傷付けられた事により、回復は絶望的、だってさ」
「ちょっと待て、最後のは何だ?」
ナロニーの放った内容に、レイロードは眉を吊り上げ聞き返す。膝のアルくんも、しっかり耳に手を当て聞き耳を立てていた。
「高々テロ如きで天窮騎士が重症を負った、てのが問題だったみたいね。そんで脚色する事にしたと。
テロリストが雇ったんだってさ。天窮騎士"フェイスレス"を」
"フェイスレス"、その名に、レイロードは僅かに眉を潜める。何とも一方的に因縁のある相手だと。その様子には気付かなかったのか、ナロニーは続ける。
「んで、レダくんと一戦交えて両者痛み分け。但し、教皇はフォンティアナ市民を英雄的に庇い負傷。そう言う粗筋にしたいみたい」
やれやれと肩を竦めて呆れるナロニーに、皆同意見、と言った所だ。黒龍など、明確な侮蔑の溜息を、窓の外へとぶつけていた。
「黒龍、これで良かったんですか?」
その姿に、桜花が真摯な瞳を向け問い掛ける。その視線を受け、目を細めた黒龍が静かに口を開いた。
「私とは関係ないもの、知った事じゃないわ……と、言ってしまいたい所だけれど、実の所少しホッとしているわね。
もう会う事はないだろう事、生きていてくれた事、色々とね。何をどうしようが、結局あの男が父である事に変わりはなかったのね……。
色々遅かったのだけれど、多分、それだけで良かったのよ……」
そして、また視線を窓へと向けた黒龍の肩に、アズライトが優しく手を掛ける。桜花もそれ以上聞く必要はない、とでも言うようにユキムネを抱きしめていた。
桜花自身が、両親の娘となる、と言う目的のために剣を振るっていた事を鑑みれば、この結果は相応に堪えたのかもしれない。だからと言って掛ける言葉も見つからなかったが。
「んで、多分、向こうさんとしては、これが一番重要な件だと思うんだけど、姫ちゃんの事ね」
一瞬思考の海に埋没しかけたレイロードを、ナロニーの声が引き上げる。と言っても、レイロードは比較的に楽天的たった。一方で桜花は、ユキムネを傍らに置いて姿勢を正し、無表情で耳を傾けている。
貌から色を消した桜花を一旦見ると、ナロニーが言葉を続けた。
「和雲皇国佐伯織佳、ルーデルヴォルフ登録名桜花は、怪我の治療が済み次第イグノーツェ大陸から強制退去。以降この地に足を踏み入れる事を禁ず」
黒真珠の瞳に感情は映らず、何を思っているのかは判別出来なかった。代わりとばかりに、黒竜が視線をナロニーに向け、眉を吊り上げている。アズライトがその肩を苦笑しながら諌めていた。
レイロードは、特に関心がないとばかりに、アルくんを撫でる。理由など簡単だった。
「ちょっ!? あたしが決定した訳じゃないんだからさ!? んんっ!」
黒龍の視線に若干怯えたナロニーが、瞑目しつつ、咳払いで仕切り直す。そして目を見開くと共に切り出した。
「但し、イクスタッドにて、天窮騎士レイロード・ピースメイカー卿を頭首とし、その助手となった場合に限り、その身柄を卿に一任する。だとさ! いや~、これで一件落着だね~。レダくんの日頃の行いの成果かな~?」
桜花の戦力がどう伝わったかは確認していなかったが、掻い摘んで伝わった、その戦力は使えるならば使うに越した事がないと判断されるだろう。しかし、どの国に渡したとしても角が立つ。で、あれば、どの国にも属さない、レイロードに管理させてしまえばいい。対外的には、諸国連合の1国として扱っているのだから。統括機構からすれば、レイロードは連合に刃向かう牙など持たぬ、便利な狗程度の認識だろう。
和やかに笑うナロニーに、レイロードはそんなものだろうと頷いた。しかし、日頃の行いが、何故笑顔に結実するのかは、理解出来なかったが。
しかしその事も、アズライトが発した内容から、おおまかながらに理解した。
「ははっ、日頃の大物狩りの成果ってか? んじゃあ、今日はこれでお開き、って事にすっか」
成る程、多少安かろうが上位のクイントを斬り続けた事で、レイロード・ピースメイカーは社会に仇なす物ではないと、ある程度の信用を勝ち得ていた、そう言う解釈も出来ると言う事か。それ程甘くはないだろうが、今はそう思っていてもいい、そう思えた。
「おっと、そうだね~。ま、二人共ゆっくりん休んでよ、って忘れる所だった~ゴルニヴァクフの筋肉達磨から、レダくんにお土産渡されてたんだよね~。ほ~い」
ナロニーが額に手を打ち付け表情を崩し、バッグの中から何かを取り出す。そちらを窺えば、その手にはウィスキーの瓶が一本、握られていた。
「なにー!? 和雲の”奏”、31年物だとおう!?」
いち早く反応したのはアズライト。その顔は驚愕に彩られている。恐らくは入手困難な逸品のだろう。訝しみながらもそれを受け取れば、紙切れが一枚括り付けられている。ぞんざいにそれを抜き取り広げれば、豪快な筆跡で一言添えられていた。
『この間の礼だ! 大人しく受け取っとけ! それと、また死に損なったんだってな!』
「ハッ、ナロニー、余計なお世話だと、ヤツに……名は、何だったか……まぁいい、伝えておいてくれ」
豪快に笑った顔が思い浮かび、レイロードは苦笑する。悪い気分には、どう考えてもなれなかった。そんなレイロードに、声を掛けながらナローが席を立つ。
「ガンドルフ・ヴェルトロ~。いや、あたしが言うのも何だけど、名前くらい覚えといてやんなよ」
「お~、あのおっさん、ま~だ現役なのかよ。ま、今度ご相伴に預からせてくれや」
「そ~そ~、ったく、相変わらずうっさいのよ~。な~んて言うか、父親気取りって感じでさ~」
「ははっ、変わんね~な~」
相も変わらず軽薄そうな笑みを浮かべ、席を立ったアズライトにナロニーが愚痴りながら、ヒラヒラと手を振り外へと消えて行く。事の成り行きについて行けなかったのか、桜花が呆けたように口を開けていた。
「え? え? あの、え? 私は……」
「はいはい。じゃあ、体調が戻ったら遊びにでも来なさいな。歓迎するわ。今度は、私がね」
アタフタと、桜花が何かを言わんとするも、黒龍に華麗なインターセプトを決められ虚空に散った。そして一人残った黒龍が、ドアの前で突如振り向き、至極真面目な顔で言葉を綴り出す。
「イグノーツェに集ったあの光、あれはマナと己顕の光よ、多分ね。何処からか蓄積した情報を伝搬させ映し出す、そんな効果。
少なくとも、己顕は内在する有り様を蓄積し伝搬出来る、そう考えられているわ。そしてあの光景は、マナがマナ以外からの情報を蓄積し、伝搬出来る可能性を示唆しているのよ」
唐突に端を切られた意図の掴めぬ話題に、レイロードは眉根を寄せて桜花を見る。然しながら、桜花にしてもその意図は掴めないらしく、呆けた顔で小首を傾げていた。そんな二人に構う事なく黒龍は続ける。
「そして、マナと己顕の性質は極めて近しいと考えられているわ。反物質なのか超対称性物質なのか、己顕が観測出来ないから分からないけれど。
だったら、己顕と同様の性質を示しているマナが、己顕法と同じくサーキットを組まずに、魔法を起こせるかもしれない、お伽噺の”魔法使い”のようにね。昔からあった理論だけれどね。今までは眉唾だったのだけれど、この目で見てしまったもの。
ふふふっ、先人は偉大、と言う事なのかしらね。これじゃ馬鹿に出来ないわ」
面白そうに、或いは自嘲するように、黒龍が目を細め手で口元を隠して笑う。が、また直ぐに表情を戻して口を開いた。
「何にしろね、そうであればマナ工学には先がある。結果は違ったけれど、あの男が望んだ通りの未来が、本当に来るのかもしれない。
そいう意味では負けたのよ……私達は……貴女は」
ようやくにして黒龍の意図するモノが見え、その意味に桜花が呆気に取られ目を丸くする。その様を一瞥した黒龍の口元に、不遜な笑みが広がった。
「高々カテゴリーB程度の老いぼれ己顕士に負けたって事。貴女はその程度よ。何ら大した事はないわ。そこらに散らばる有象無象。だから……」
黒竜の表情が緩む。不遜な笑みから、慈愛を湛える柔らかな笑みに。そして……。
「好きに生きりゃいいってこった」
「な~んかあったら、レダくんに押し付けちゃえばいいってね~」
ここ一番の決め所、それをドアからヒョッコリと顔を覗かせるや、アズライトとナロニーが物の見事に掻っ攫って行ったのだった。
してやったりと、笑い声を上げて逃げ出すナロニーとアズライト。無言のプレッシャーを放ちながら追い駆ける黒龍。何時も通りの渋面を湛えるレイロードと、未だ目を丸くする桜花を残し、賑やかな戦友達は、好きに言うだけ言い散らかして、嵐のように過ぎ去って行った。
室内に静謐な一時が訪れる。まるで、先が幻想であったかのように。今が幻想であるかのように。
その幻想を打ち破り、桜花の声が、静かに、そして柔らかく響いた。
「ふふっ、その程度、らしいですよ? 存外大した事はありませんね……私も、あなたも……。
……ねぇ? レイロード……私は……何かになれましたか?」
隠れた空を眺めるように、見えない空を望むように、桜花の瞳は眩しそうに遥か先を見つめていた。そこに答えが在るかのように。
「知らん、が、そうだな……」
言葉を切って天を見上げる。そこに桜花が見た物は見えなかったが、レイロードが見た物は確かに在った。
「天窮騎士の助手には、なれたらしい」
レイロードの一言に、桜花がそっと瞳を閉じて息を吐き出す。
「そうですか……それは、随分と大きな一歩だ。
なれば、そこから先を目指しますよ」
そこには、何処か満ち足りた、暖かく、柔らかい笑顔を浮かべる、桜花が居た。
レイロードはその姿に表情を崩し、窓から空を見上げる。
何処までも広がる青。
光輝く黄金の輪。
彼方から漂い流れる一筋の白い線。
幾筋もの蒼白い光を放つ綿の束。
遥か時の彼方で名もなき小人が見上げた空が、そこには広がっていた。
その空に、紅の王が高らかと翼を広げた姿を見る。そんな気がしたのだ。
「あれ……? イグノーツェ?」
「ハッ、空に描く想いは、皆高いな」
同じ物を幻視したらしい桜花の声に、レイロードは空を見上げていた目を細める。随分と久しく思い起こす事のなかった言葉が、脳裏に浮かんだ。別れ際に送られた、師の言葉が。
――なぁ、レイロード、人間なんてチッポケなもんだ。自分一人救えるかすら分からない。だからな、一生掛けても届かない何かを目指せ。
そして、誰かを信じ、誰かに信じられる人間になれ。そうやって繋がった環は、何時か一人を越えて行く。届かないモノにも、何時か届くさ――
ならば、二つの手では届かなくとも、四つもあれば、届くのかもしれない。
紛い物の天窮騎士が、本物になる事もあるのかもしれない。
誰にだとて、何処へだろうと、例え拓かれていなくとも、先を目指す想いは、自由なのだから。
「あ、そう言えば……」
書類
桜花の間の抜けた素っ頓狂な声が、余韻に浸るレイロードを現実に引き戻した。
「わ、私がその、勢い余って壊してしまったフォンティアナ局の石畳、結局どうなったんでしょうね?
……その、もし、保険が下りない、ですとか、足り、なければ……あの、その……」
少々どもりながら、時折瞳を泳がせる桜花は、その勢いを徐々に落とし、遂にはプルプルと羞恥に耐えるような表情に変わる。そして、覚悟を決めたとばかりに、一気呵成に口を開いた。
「お、お金貸して下さい!」
「…………」
「えと、あの? れ、れいろーど!?」
「…………」
そして、色々台無しにしてくれた桜花の台詞に、レイロードは無言の沈黙で応えた。桜花から空へと逸らした顔に、僅かな微笑みを湛えて。