6. 王と名もなき小人-5
腕もある。脚も付いている。これくらいの傷ならば、昔は日常茶飯事だった。体は動く。動くならば問題は、ない。
片膝で起き上がりながら、レイロードは自身の体を確かめる。動くならば戦える。戦えるのであれば、戦う。それだけだ。是否もない。荒い息遣いで自嘲する。
「理不尽に、抗い、無様に、死ぬ……嘗て、抱いて、いた、最期を、描き出す、だけだ……」
「レイロード……」
破滅的なその願望にか、桜花が貌を歪めていた。だが、それをハッキリと否定して、底冷えのする黒龍の声が響く。
「いい加減にして……貴方の我侭に何度も付き合ってはいられないのよ。貴方は連れて帰る。選択肢など与えないわ」
腕を組み眉間に皺を寄せ、教皇に向けていたような憤怒の表情を湛える姿に、レイロードは眉尻を上げると、皮肉げに口の端を釣り上げた。
「桜花、なら……置いて、行って、構わない、ような、口ぶり、だな……」
レイロードの言葉に、黒龍が瞳を閉ざす。一瞬の瞑目、ほんの僅かな間だけ瞳を閉じた黒龍が、徐ろに口を開いた。
「そうね。言っては悪いだろうけど、そうよ。
私にはね、昨日今日知り合った人間よりも、何年も過ごした友人の方が大切なのよ。
貴方の事は確かに気に入らないけどね。貴方が死ねばアズライトが、ナロニーが悲しむ。きっとあの人は、仕様がないと言うんでしょうけどね」
「ま、万全なら置いていっても構わないとは思うわな。んでもな、囮にもなれずに死ぬ奴を、はいそうですかと置き去りになんて出来ゃしねー。っつー事で、分かったら大人しくしてくれや」
怒涛の如く吐き捨てられた黒龍の言葉、その後を引き継いだのは、冷淡に声を紡ぐアズライトだった。何時の間にやら教皇を連れて戻ったらしく、安全な場所に寝かしている。
彼らの言い分は分かる。よく分かる。が、だからと言って従うつもりなど、レイロードには毛頭なかった。
「俺は、天窮騎士、なん、だよ……それが、おめおめと、逃げ、帰る、など……俺は、許さん……」
「馬鹿な事を! それで? 天窮騎士だから何? 見ず知らずの誰かを助けて、見知った誰かを泣かせて、それで満足? ええ、満足なんでしょうね。勝手に死ねばいい。でもね、私の前では許さない。それだけよ」
妄言地味た、それでいて妄言足り得ないレイロードの意思。それを黒龍が乱暴に吐き捨て否定し、手刀を落とす。レイロードの儘ならない体では、首筋に振るわれるそれを、睨みつける事しか出来なかった。ただ、その手が届く事はない。漠然とだが、その予感はあった。
そして事実、黒龍の手は、レイロードの頭上に浮かんだ歪曲空間に留められていた。
「レイロード、私は止めませんよ……止められませんよ……。
黒龍、貴方にとって、私が昨日今日知り合った程度の人間ならば、私とて同じです。ならば、私はレイロードの肩を持ちましょう。止められますか? この私を」
「貴女……」
柔らかく、温かい、それでいて悲哀を湛えた瞳が、レイロードを射抜く。そんな桜花を、黒龍が憎々しげに睨み付けていた。どちらが悪役なのか分からないが、見た目だけならば間違いなく黒龍だろう。アズライトが肩を竦め、呆れたように、寧ろ呆れて首を振っている。
その光景に、レイロードの口から微かな笑いが漏れた。が、突如体を襲う鈍痛に声を詰まらせる。
「グッ……!」
体の内から何かが湧き出るような、定着するような異物感と、脳を焼くような痛みが走り、レイロードは思わず大地に手を突いた。その時ふと、目に入ったものがある。それは、手を翳し薄っすらと口の端を釣り上げる、教皇猊下の姿だった。
「良いザマだな、ピースメイカー卿。理不尽に抗い、無様に死ぬ、か。
君のその無様な死に様とやらが、如何程の物か、少々興味がある」
目視の難しい環境、低下していた集中力、来る筈のない誰か。それらが合わさり、この男の接近を易々と許してしまっていた。
レイロードが崩れ落ちる中、しかし桜花達は一様に動かない。代わりに、レイロードの全身から、鈍さが、脳を焼く痛みが、諸共零れ落ちて行く。
「……遡行、ですか……」
「だったら! 何で貴方は!」
「ヒメナ……」
桜花が、色の抜け落ちた呟き声を漏らし、黒龍が再びに激昂を露わにする。本当に時間を巻き戻している訳ではないだろう。壊れた関係の修復を求める有り様が、遡行として体組織の修復と言う形で顕れたのだと憶測する。
桜花達の会話には得てして答えず、淡々とした教皇の声は、レイロードの背に向かっていた。
「まぁ、万全とは行かんよ。しかし、剣を振るえる程度にはなる。
そんな事はどうでもいい。聞かせてくれないか。
私のささやかな願いすら聞き届けないこの世界に、人々に、何の価値があるのかね?」
「貴方に価値がなくともねぇえ!」
「私に限った事ではないさ。この世に生まれ落ち、願い果たせず散って行った者達はどれ程の数に登るのだろうね? 叶えらない願いを抱いた命に、価値はあるのかね?」
一転、憤怒の表情を浮かべた黒龍を、相変わらず相手にする事なく、教皇が淡々と告げる。この男の思考など、アズライトの同調をもってしても理解出来まい。何ら届く事のない父の背に、黒龍が顔を歪め拳を震わせていた。
どうでもいい、そう口を開こうとしたその時に、レイロードの全身を予期せぬ激痛が襲った。腕が脚が胴が、斬られ、削がれ、撃ち抜かれ、焼かれ、砕かれる。声さえ出せずに倒れ込み、のたうつ。桜花の声が、遥か遠くに聞こえた。
「どうしたんですか!?」
「レイロード、お前……」
「っ、恐らくは幻痛、ね……ピースメイカー、薬は? あるのでしょう?」
アズライトの表情が険しく歪み、一方で、黒龍が努めて平静に薬剤の在処を聞き出そうとする。が、当のレイロードは、全身を蝕む激痛に答えようもない。
「成る程、細胞の活性化に伴い、常用していた薬剤の効能切れも前倒しされたと言う訳かな?
ふむ、無様ではあるが、このような無様さを期待した訳ではないのだがね」
そしてその様を、実に退屈そうに教皇が見下ろしていた。
今のレイロード・ピースメイカーを作った代償が、幾多の戦場において全身に刻まれた傷。幾度と無く受けたその傷は、やがて体から消え去っても尚、レイロードの体を蝕んだ。結果、レイロードは鎮痛剤を常用しなければならない程に、重度の幻痛に苛まれ続けていた。
痛みが脳を焼き意識が遠のき、遠のいた意識を痛みが揺り起こす。その隙間から聞こえた桜花の叫び声は、まるで天啓のようにも聞こえた。
「常用……? あのタブレット!」
教皇の言葉を受け気が付いたのか、弾かれたように桜花が動く。レイロードが激しくのたうち、併せて暴れるマルチベルトから、物ともせずに素早く経口タブレットを引き抜く。そして、レイロードの呼吸に合わせ、その口内へと放り込んだ。
判然としない意識でそれを捉えたレイロードは、何とか口内のタブレットを噛み砕く。即効性ではあるが、直ぐに痛みが引く訳ではない。有る筈のない傷が熱を持ち、レイロードの頭を加熱させていく。
頭を押さえる。押さえる事は出来た。何だったか。何を考えていたのか。何を言わんとしのか。
――叶えらない願いを抱いた命に、価値はあるのかね?――
思い出されるのは先の言葉。そう宣った言葉。
「価値があるのか? それが何だ? どうでもいい……価値など要らん……ああ、そうだ、なくていい……命など無価値でいい……」
未だ漠然とした意識の中から声が漏れる。そうあれと、思い続けてきたレイロードの世界。戦い続け、負け続けた世界。
「れいろーど?」
凡そ騎士とは無縁の、非人道的とも言える思想を受け、桜花が道に迷った幼子のように不安で揺れていた。仕方のない事だ。桜花には見えているのだろうから。それが全て、レイロードの心からの声である事が、その瞳を通して克明に。
揺れる桜花の瞳など目に入らず、いや、例え捉えていようが構わなかった。賛同など要らない。求めていない。だが、それはきっと、間違ってもいない筈なのだ。この胸に燻る思いの丈は。
「足りるのか? 価値があるから助ける、価値があるから護る、価値があるから愛する……この世界は、そんな、そんな拝金主義に満ちた世界なのか? そんな世界で足りるのか?」
戦うだけの日々だった。刀を振るうだけの日々だった。その筈だ。幾度も負った失血による脳への影響か、幼少の記憶は曖昧だ。それでも、ゴミのように散っていった者達の姿が、今も心に焼き付いている。平穏な世界に生きられなかった、生まれる時代を間違えた者達の姿が。
「許されない事なのか? 価値のない者が救われる事は? 願う事も許されないのか? そんな甘い世界を? 不可能だ、来る筈がない? ハッ、そんな事は分かっているッ!
だからとて、願う事も許されないのか? 誰かが、誰かがそんな世界を創る事を願うのは?」
溢れる言葉に渋面を強め、歯を食いしばり、去来した過去の幻影に思わず拳を握り締めた。
そうだ、間違ってはいない。そしてそんな未来が来る事もない。だから、願ったのだ。絶対に叶わない願いを、その胸の内に。どれ程におこがましい願いだとしても。
「もう俺には出来なかったんだよ……天窮騎士が剣を振るう、その事だけでも、価値が生まれるこの世界では……。
俺には届かなかったんだよ……俺が振るった剣の後ろで生き延びた命に、それだけで価値が付くこの世界では……」
不可能だった筈なのだ。自然と、ソレが居る筈の場所へ、真鍮の瞳が引き寄せられる。
居るのだ。そう思うだけで笑みが溢れる。柔らかでは、ない。レイロード・ピースメイカーの"起源"では持ち得ない、遥か原初の感情に引き摺られた獰猛な笑み。
体が軋む。無理矢理に動かす。立ち上がらんと力を込めるが、思うようには動かない。
「だがな、アレが現れた、現れてくれた。アレの前に、ヤツの前に、天窮騎士の称が何の価値になる? ああ、無価値だ……赤子も、俺も、等しく無価値だ……ただのちっぽけな人間だ……ならば振るえる。価値のない俺が、価値のない何かのために! この一時だけは、俺の理想に届くんだよ……目の前の理不尽に手が届くッ! その先に在る天の窮みに手が届くッ!」
それでも動かす。否が応にも眉間に力が籠もる。噛み締めた奥歯がギシギシと鳴る。収縮していた筋肉が悲鳴を上げながらも、徐々に解きほぐされていく。猛る想いに、知らずと真鍮色の燐光が舞っていた。
「故に挑む、故に抗う! 故に振るう故に斬る! そして、故に戦う、ああそれの……それの何が悪い!」
胸中に燻っていた炎を吐き出し、崩れ落ちそうな体を強引に引き上げ、アウトスパーダ・明鴉を背に、名もなき小人は大地に立った。
大きく息を吸い込む。酸素が血液を巡り体内に染み渡らせる。熱を持った体が冷え始め、それに伴い思考も明瞭になって行く。
随分とらしくない事をベラベラと口走った気がするが、今更どうでもいい。
「はは、んだよ、やっぱ相変わらずだなぁ、お前は」
「何? 貴方そんなお花畑な脳味噌をしていたの? 馬鹿ね、本当に……合わない筈だわ。
でもまぁ、良いのではないかしらね。醒めやらぬ幻想を抱える事自体は」
苦笑するアズライトの声が、呆れ果てた、それでいて気取った黒龍の声が、仄暗い闇の中に落ちて響く。そして桜花の声が。
「レイロード……」
光が灯った。紅い光だ。王の足元から、再び熱せられた溶岩が光を取り戻し始めていた。
夜明けのような茜色の光が世界を拓く。その光りの中に初めて目にしたものは、己を求める名もなき小人、穏やかな桜花の微笑みだった。
「レイロード、何も、何も悪くありませんよ。ええ、何も。
足れば往きましょう。それだけで十分です。
何より、あなたは運が良い。ここに今、私が居る。
故に、そして私は運が良い。ここに今、あなたが居る」
レイロードの真鍮の瞳は、眼前に立つ桜花の黒真珠の瞳を見据え、そしてどちらともなく足を踏み出した。レイロードが、桜花が、互いの隣へと並び立つ。奇妙な感覚だった。再び誰かの隣に、誰かが隣に立ち並ぶ事が。来る事もないであろうと切り捨てた明日が、ここに在る。
成る程、確かに運が良い。交わされた視線は、そう語っていた。そして、二人の視線は、挑むべき紅い王へと向けられた。その時、気勢を折るが如き教皇の声が、無粋に響く。
「やれやれ、下らぬ幻想に身を焦がし、叶わぬ願いに朽ち果てるか。まぁ、無様ではあるのかね?」
「ハッ、どの口でほざくかッ、そのなれの果てが貴様だろうに」
だが、そんなもので折れはしない。背にその声を受けたレイロードは、ゆるりと振り向き、眉間に力を込めて睨み付けた。不自然な程に柔らかな微笑みを浮かべた、教皇に向けて。
「はははっ、その通りだよ。ああそうだ。間違っているのは私なのだ。誰が見てもそうだろうね。幾ら願いを踏みにじろうが、願いを抱くにまで至った遍く命を生み出せしこの世界が、間違っている訳などないのだから。
だがね、私のエゴが貫き通された時、それはつまり、世界が私を認めた事になる。私の願いを。醒めやらぬ私の夢を」
そんな、変わらず壊れた笑みを浮かべ、静かに嗤う教皇へと、今度は桜花が表情一つ変えずに語り掛ける。
「醒めますよ。それが例え悪夢でも。貴方の明日は、今も昔も、ここに在った」
「さて、詠み上げてしまいましょう、王と名もなき小人の物語を」
「ま、お伽噺の時代はとっくに終わってるってこったな」
次いで、黒龍が本を手に取り、アズライトが蒼刃を迸らせ、共に口の端を釣り上る。レイロード眉を顰め、桜花が髪を梳き流し、再び黒龍が口を開く。
「安心なさい、危なくなれば貴方達を置いて逃げるから」
「子供ら置いて逝く訳にゃーいかんしな」
「あ、レイロード、この人達本当に逃げる気ですよ?」
「ハッ、上等だ」
あっけらかんと語る二人を、桜花が半目で指差し、レイロードが口の端を釣り上げる。最早語るべき事はなかった。4人の意識が再び繋がり、そして再び王の咆哮が木霊した。測ったように、絶妙なタイミングで。
『我らがこの地に残った理由を忘れたか! イグナークァ!』
広げた翼から光を迸らせ、ブレードを展開し、イグノーツェが宙に舞う。悠長に作戦会議とはいかないらしいが、これまで動かなかっただけでも御の字だ。
――長いの行くわ。発動するかも何が起きるかも分からないけれど。10分くらい掛かるから、その間に倒してしまっても構わないわよ?――
――いいだろう、上は俺と桜花で攻める――
――新しく考えるのも面倒だ、プランは先程のままで行きましょう――
――んじゃ、俺は下で振り回すけどよ、イザって時ゃ1分くらいなら一人でどうにか出来っから。その後は任せっけどな――
「引き受けたッ!」
「心得ました!」
敢えて口にし、レイロードと桜花は、立ち向かう相手の強大さを表すように力強く、上げた声よりも遥かに力強く、大地を蹴る。レイロード左へ、桜花は右へ、その後を追い、アズライトが中央へと、それぞれが一直線に王へと駆け出した。
王に弓引く戦友達の背を見送りながら、黒龍はそれを詠む。幼き頃に幾度と無く聞かされた、それを詠む。
「それは遥か昔、人がまだ人間ではなかった時代、王と名もなき小人の物語……」
文字が光となって解き放たれていく。それだけで十分だ。幾度となく詠み、そして何も起こらなかったそれが、今は明確に変わっている。何が起こるかは分からない。が、十分だ。後は天に任せるだけ。
「ある所に王がいました。何でも識っている王がいたのです」
光の中で、黒龍の髪に光が奔り、黒を引き剥がしながら消えていく。切り揃えられた髪の先から、頂点に達する全ての黒が彼方へと消えた時、そこには紫銀に艶めく黒龍の姿があった。
「おお……ヒメナ、帰ってきてくたのだね……見ろ、やはり私の願いは叶うのだ!
レイロード・ピースメイカー、精々足掻いてくれ。君のその御大層な名が、真実である事を祈っているよ」
両手を広げ詠嘆に浸り、薄ら笑いを浮かべる父親の、背から届く雑音に傾ける耳は、あろう筈もなかった。