6. 王と名もなき小人-1
L字型に伸びる左翼通路、その先には小ホールが存在する。そのホールに足を踏み入れれば、左手側に更に六つ、通路が伸びる。その左端から3番目の通路のまだ先に、唯一当時のままに3番ホールは残されていた。
侵入を拒絶するように固く閉ざされた3番ホールのその扉が、ごく僅かに金属の擦過音を立てる。そして、鼓膜に響く鈍い重低音を轟かせ、軋みを上げながら扉が上下にズレ落ちた。分厚い蝶番が何とも頼りなく揺れている。
撒き散らされた砂埃を突き切って、夜色のマントを靡かせた重装騎士と、スプリッター迷彩を施された朱のマフラーを翻す少女が、3番ホールの中へと足を踏み入れた。その後に続き、黒いショートコートを羽織る長身の男と、ゴシックロリータファッションに身を包む長身の女も現れる。
薄暗いホールは、床や壁など至る所から青白い燐光が漏れ出し、その中心を照らし出していた。そこに佇むのは、撫で付けた銀髪に紅いロングコート、それに身を包む初老の男。薄紫色の瞳は恍惚と何もない天井へと向けられ、正気であるのか疑わしい。ホールの隅には、身動き一つしない人影が倒れ込んでいる。
その男の瞳がゆるりと4つの人影へと注がれると、やおら口が開かれた。
「やあ、イクスタッドの方々かね? 随分とご迅速な対応とお見受けする。実にご優秀なようだ。
テロリストの1名は、隙を突いて無力化したのだがね、しかし、この通り。遺跡が何やら動き出してしまい困惑していたのだよ。君達も下手に何かしない方がいいだろう」
大仰な振る舞いでホールを見渡し、教皇はにこやかな笑みを浮かべる。その表情には、言葉のような困惑など一切見て取れない。事実、困惑などしていない。寧ろあるのは歓喜。それを少女の、桜花の瞳は識らせていた。
2日前を彷彿とさせる光景に、桜花の表情が厳しい物となる。溢れる燐光はマナサーキットの稼働を意味しているのだろう。黒龍を見やれば、せわしなく周囲を見渡し、情報収集と解析に務めているようだ。
その中で、教皇に向かい、桜花の隣に立っていた重装騎士、即ち、レイロード・ピースメイカーが慇懃な態度で声を掛ける。
「お初にお目に掛かります、教皇猊下。天窮騎士レイロード・ピースメイカーに御座います。
猊下にあらせられましては、重篤なお怪我を負われたと聞き及び、心を痛めておりますれば、如何程もなくご壮健なご様子。
足れば、この期に及んでまで、白をお切りになられる必要は御座いませんかと存じ上げます」
真っ当な言葉遣いに桜花は面食らってしまった。内容に関しては言及しないが。しかし、腐っても天窮騎士。見合った相応の礼法は押さえていたのだろうと思い直す。
「おお、これはピースメイカー卿、お噂はかねがねお聞き及び申しております。礼装も身に纏わぬ不躾なままでの挨拶、まこと失礼致します。されど此度は私事にての急遽な対面、何卒ご容赦を。
それにしましても、僭越ながらわたくしめには、白を切ると仰られる意味が思い当たりませぬ。失礼ながら、何かご勘違いを致しておられるのではと、老婆心ながらの助言、お許し下さい」
レイロードの嫌味がましい態度にも何ら悪びれる様子なく、実に白々しい態度で教皇が返す。互いを敬った慇懃な態度ながらも、交わされる視線は敵意と侮蔑、そして嘲笑に満ちていた。教皇にしても、桜花に対して怯えを見せる様子は見当たらない。まるで別人のようだが、その瞳に宿す虚ろな狂気に、見間違いはなかった。
絡み合う視線を逸らし、一瞬瞑目したレイロードが、再び目を見開くなり言葉を繋げる。
「なる程、私事であれば、致し方御座いません。ならば……。
手始めにその素っ首、落としてくれようか? この時世、首だけでも生きられるぞ?」
「それは困りますね。借りがあるのは私の方ですから」
口調を戻し、底冷えのする声を響かせて、レイロードの手が大太刀の柄尻に添えられた。桜花はそれを制しながら、最早礼儀も不要と半身に構え腰を落とす。右手を上に、左手を下に、それぞれが弧を描くようにな構え。
わざわざ構える必要性などないのだが、それだけでも十分な牽制にはなる。それでも教皇の表情は崩れない。それどころか勝利を確信してさえいるのが識れる。
「ちょーい待った。先ずは専門家の意見も聞こうぜ?」
今にも踊り出しそうな二人を止めたのは、先ほどまで声を潜めていたアズライト。その声に促され、専門家、黒龍が首を横に振った。
「チェックメイト、のようね……既にもう転移のサーキットは起動済み……座標計算と転移を繰り返し、最終目的地に到達した時点で開放、と言う構成かしら。現代からすれば信じられないけれど、フェイルセーフを組んでいないのよ。昔の人間て馬鹿だったのかしら?」
忌々しげに吐き捨てた黒龍の眉尻が釣り上がるが、何とか平静を保つとその先を続ける。
「だから、途中で止めようとすれば、暴走して何が起きるか分からないわ。直接的にではないけれど、その男自体もサーキットの一部として稼働しているから、死なせてしまえば同様に暴走するでしょうね。そこから動かすのも同様よ。
でも、構成自体は、この場にある物を対象軸に転送する物のようだから、一旦大人しく転送されて現地で対処する方が無難ね」
憮然とした面持ちで解析結果を述べる黒龍に、桜花の隣でレイロードの眉間に殊更力が込められていた。対照的に、教皇の表情は柔和なものだ。
なる程、既に勝利条件は満たしていた、と言う事か。こちらに専門家が居ればそれで良し。居なければ自身で話せばいい。ただ、敵より味方の意見は信用し易いため、黙っていたのだろう。しかし、桜花とてそれで引き下がるつもりもない。
「ほう? しかし、空間制御は私の専売特許でしてね。空間ごと切り取って圧し潰すくらいは出来るんですよ?」
嘘だ。似た事は出来るが、それにした所で桜花の象圏では範囲が足りない。だが、分かりさえしなければ問題はないと高を括る。
「だ、そうだが……専門家の見解としてはどうかね?」
が、そんな事はお構いなしに、飄々と態度を崩さず、教皇は恭しくその手を差し出す。見解をどうぞ、と差し出されたその手を、黒龍が射殺さんばかりの視線で睨み付けていた。その心の奥に、燃え滾る憎悪と、そして何故なのか、愁嘆と悲哀が渦巻いている。その様相を見せられ桜花は声を零す。
「黒龍?」
「例え建造物ごと圧縮出来たとして、転送の術式は起動済み、その上途中でも止められない。下手をすれば、空間の圧縮を別座標に転送し続ける可能性があるわね。そう言う訳で止めておきなさい。
戻ってくるのも難しくはない筈よ。牢獄や処刑場ではないのなら、態々施設として残しているのだし、一方通行と言う事もないでしょうからね」
桜花へ話し掛けながらも、黒龍の視線は教皇を捉えて離さない。黒龍の瞳と教皇の瞳、紫色と薄紫色の視線がぶつかり合った時、桜花はようやくその意味を理解した。黒龍と教皇で見解が異なっていそうな事は気にはなったが。
「チッ、だとしたら、暫くはこのクソつまらんお見合いを続行か。反吐が出るな」
「あー、お見合いならせめて若い娘にして欲しいねー。いや、俺じゃねーよ? レイロードの相手だからな?」
「何だその余計なお世話は」
打つ手なしの状況にレイロードが舌打ちし、アズライトは軽薄な笑みで肩を竦ませ、戦友の将来に心を砕いていた。こんな時まで何をやっているのかと、桜花が二人に気を取られた時、教皇の視線が黒龍から外れ、一旦宙を彷徨った後、桜花に向けられた。
「そう言えば、君と合うのは二回目かな? こうしてハッキリとその姿を見るのは初めてだが、いや、実に美しいな」
「当然ですね。それがどうしましたか?」
桜花に声を投げ掛けた教皇は、既に態度を取り繕うのを止めていた。桜花にとって自身が美しい事など当然の事。照れも動揺もありはしない。只々その態度に苛立ちが募るだけだ。
「ん? 何だったかな……はははっ、歳を取ると物忘れが酷くていけないな。
ああ、所で、君達は映画は見るかな? アクション物の映画が妥当かな? 往々にして黒幕は、ラスト付近で主人公達に向かい、自身の所業、思想を暴露する。全くもって無駄な事だ」
「いきなり何を……」
しかし、顎に手をやり続けられた教皇の言葉は、全くそれを意に介さない物であり、否が応にも桜花の神経を逆撫でた。それはレイロード達にも同じ事が言えるようで、こと黒龍は握り締めた拳が震えている。そんな一行の反応など見向きもせず、尚も教皇の演説と言う独り語りは続けられた。
「そう思っていたのだがね、いや、いざこの身が同じ立場になってみれば、どうにも話したくなって仕様がない。結局、人間とは己を他に知らしめたい生き物なのだろうね。どれ程に、自分一人が分かっていれば良いと息巻いてみた所で、その心の下では理解を求めてやまないのだよ。肯定されたいとね。
君達はどうだい? 時も場も弁えず、そんな衝動に駆られた事はないかね? 私は正に今、その境地に在るのだよ」
一旦言葉を切って見回す教皇の視線に中てられ、それが、それを示した衝動が桜花の中で明確に蘇る。レイロードと刃を交えた時、初めて自身と同等に渡り合えた人間に、己の存在を知らしめたいと思った、そうなのではないだろうか? と。
他の3人も口を噤んでいるに、身に覚えがあるのだろう。その反応を見て、教皇が抑揚に頷き、ホールから発せられる光量が次第に高まって行く。
「私の娘はね、魔術の天才だった。私が苦労した理論もあっさりと読み解き、10代も中頃には、既に一端の魔術師を名乗れるほどになっていた。
だと言うのに、現代に於ける魔術のあり方はどうだね? 嘗ては神が与えし奇跡の力などと尊ばれた業も、時が経つに連れ端へと追いやられた。
嘗ての華であった戦場は、己顕士なる不逞の輩にお株を奪われ、その下には銃砲火器で武装した軍隊だ。魔術師の出る幕など何処にもない。
持て囃される場所は唯一研究職としてだけだ。ただね、それでも良いかと思っていたのだよ。私が生まれた時には既に、工業製品の分野では力を持っていたからね」
恍惚と虚空を見上げるその姿は、迷える信徒を導く求道者からは程遠く、かと言って、道に光明を求める迷い人でもない。大人と言うには無邪気過ぎ、童と言うには余りも俗過ぎた。
「ふぅ、無様ですね。この姿を写真にでも撮って、聖導教会の関係者に送りつけてあげましょうか」
「ハッ、どうせ誰も信じん。バッテリーの無駄遣いだな」
「あー、こりゃ駄目かもな……」
その姿に、桜花は呆れながら軽口を叩き、レイロードが肩を竦める。アズライトも消沈気味に肩を落とし、その様に漠然とした感覚を載せていた。ただ一人、黒龍だけが、何ら感情を見せず、無言で顔を伏せていた。
辛辣な言葉を紡ぐ者達の事など眼中にないと、教皇は只管に心の丈を吐き出し続ける。
「それでも不安だった。不安で不安でどう仕様もなかった。何故かと思った時に気が付いたよ。イズモ
の工業製品が進出して来た時は驚いた。マナサーキットを組み込んでいなかったのだからね。しかし、ただの偶然かと思っていたのだよ。稀に見る、奇跡的に成功した品の一つかとね。
だか違った。それどころか、寧ろ様々な分野で安定して供給を行ってきたのだ。イズモだけではない。イグナークァ大陸から、イグニースィ大陸から、マナサーキットを持たない製品がこのイグノーツェに現れ出した」
教皇が握り込んだ拳を見つめ、痛みに耐えるように唇を噛み締める。その掌の中には、彼にとっての忌まわしい者達が尽く握り潰されているのだろう。ライトアップするマナサーキットが、クライマックスに向かうようにその姿を演出していた。
「このままでは、これから先、魔術はその姿をこの星から消してしまう……我が娘の才を奪わえてしまう……そう気が付いた時、私は決意した! 科学が生んだ人の世を破壊してしまえばいいと! 生産基盤を失えば、科学はただの木偶に成り下がる! さすれば指先一つで力を生み出す魔術の時代が再び来るのだと! 我が娘の未来を護れるのだと!」
声を荒らげ、高らかに天へと吠える教皇の姿に、その場に居合わせた己顕士達は絶句し、呆れ、困惑し、声を上げる事は出来なかった。一人、魔術師を自称する黒い女を除いては。
「クッ、クククッ……アッハハハハハハッ! な~に? それで亜龍種? それが失敗したら今度は地下旅行ぅ? 貴方の望む世など来やしないわ! エステバン・ルシエンテス!」
黒龍が腹を抱え、クツクツと陰惨な笑みを浮かべ、教皇の演説を妄言だと盛大に笑い飛ばし、肩を揺らしながらゆるりと前へ出る。
教皇が向けるは、柔和に湛えられた冷徹な慈愛の微笑。その姿に、黒龍の嗤い歪んだ表情が悲哀に変わり、憐憫に変わり、そして憤怒に変わる。
「そんな……そんな事に! 何もしなかった貴方が! そんな下らない妄執にだけ! 私を使わないで! あの子達を巻き込まないで!」
声を震わせ掠れる程に絶叫し、黒龍が顔を伏せる。その言葉を向けられた当の本人は、不思議そうに首を捻るだけだ。先程まではニヤついていたアズライトの瞳が、いやに鋭く細められる。レイロードは相も変わらず、つまらなそうにその様子を眺めていた。何を話しても無駄だ、そんな顔をして。
どれ程の間かは分からない。それでも分からない物なのだろうかと、桜花は瞑目する。それ程までに、狂ってしまう物なのだろうかと。
俯き、肩で息をしていた黒龍が、呼吸を整えながらゆっくりと顔を上げる。悲哀で満たされた表情から紡がれた声は、か細く、それでいてハッキリと耳に届くものだった。
「ねぇ、私は幸せなのよ? それなり以上には裕福だし、それなり以上には地位もある。これ以上を望んでもいいけれど、望まなくたっていい程度には。
母さんも、私も、後悔していなかった訳じゃなかったのよ。もしかしたらやり直せるかもしれないと思っていた。イクスタッドには、ヒメナ・ルシエンテスの名を載せ続けた。アズライトとの式には、意を決して招待状も出したわ。
でも、結局……貴方は何もしなかった。
ねぇ、もう子供だっているのよ? 双子の可愛い子供達。貴方は、あの子達の顔さえ知らないでしょう?
貴方は! 娘の幸せを謳いながら! そんな私の幸せを見ようともしないの!?
ねぇ、父さん……教えてちょうだい……」
父と呼び、力なく項垂れる黒龍を前にして、それでも尚、教皇は揺るがなかった。レイロードが示した態度を肯定するかのように。そして、次に並べられた言葉もまた、黒龍の意を介する物では、当然なかった。
「君達は、"王と名もなき小人"を知っているかな? その中に、何でも識っている王が出てくるのだよ。その王は最後に、出会った小人に言葉と人間と言う名を与え、何処かへ消えてしまうんだ。そして、今も何処かで小人を待っているのだと。
会いたかったのだよ、私は。母が枕元で聞かせてくれたその王に。娘の枕元で聞かせたその王に……」
止めどなく溢れる妄執は未だ止まず、その姿にレイロードが手を翳し、静かに首を振りながら嘆息の声を漏らす。
「これ以上は聞くに耐えんな。少し黙らすか?」
「そうですね。如何せん煩わしい」
レイロードの指し示す物、それは高らかに声を上げる教皇の姿にか。それとも、表情を歪ませる黒龍の姿にか、或いは双方にか。桜花には判別出来なかったが、その気持は同様だった。しかし、レイロードの手を遮るように、黒龍が手を上げそれを制す。その顔は伏せられたままであったが、発せられた声は不思議な力強さを孕んでいた。
「止めなさい、ピースメイカー……これは私と、その男の問題よ……。
どうせ動作が完了するまでは動けない……その間くらい、好きにさせて貰うわ……」
黒龍の言に、レイロードが訝しげに眉を顰め、口を開きかけた。が、アズライトから掛けられた声に遮られ口を噤む。
「あー、っつー事でよ、暫くはヒメナと義父さんの好きにさせてやってくんねーか? 起動し切るまで構わねーからさ。頼むわ」
痛ましげに眉を寄せ、黒竜の意を後押するアズライトの姿を受け、ならば親子間の事情に関しては仕方がないかと、桜花は不承不承と頷く。そして黒真珠の瞳を、憮然とした態度で口を噤むレイロードへと向ける。
「仕方ありません、レイロード。内ゲバをしていては、成せる事も成せなくなるやもしれません。僅かばかりの猶予なれば、問題ないのでは?」
アズライトの願いにか、桜花の賛同にか、レイロードが瞑目し、溜息混じりに翳していた手を軽く上げ、了解の意を示した。
目の前では教皇が、変わらず生気の抜けた薄気味悪い微笑みを湛え、こちらなど目に入らぬように天を見上げていた。