4. 夜に馳せる-4
その夜、リビングのソファーに腰掛けるレイロードはひどく機嫌が良かった。端正ながらも眉間を厳しく寄せたその表情からは到底想像出来ないだろうが。
嘗ての戦友達と再び繋がりが出来た事もある。窓辺からコルダート海に映る月の煌めきが美しい事もある。が、主にずっしりとした重みを与える白くフサフサとした生物、要はロッソ家の愛犬フォルを抱き抱えている事にあった。
フォルは顎と手をレイロードの肩に乗せ、ンフーと鼻息を鳴らし大人しくしている。30キロ程度の大型犬だが、鍛え抜かれたレイロードの筋力には苦でもない。呼吸する度に腕の中でゆったりと膨らむのも心地良い。
先程、朱色に肉球模様のパジャマを着た桜花が、羨ましそうに階段を上がって行った。大人気なくも少々優越感を覚える。後であのパジャマの出処は聞かねばならないが。
「ははっ、動物好きは相変わらずか?」
レイロードがフォルを堪能していた所にアズライトから声が掛けられた。そちらを見やれば、朗らかに笑い右手に持ったウィスキーのボトルを揺らしている。左手に持った二つのグラスが、涼やかな音を立てて鳴った。
その音にフォルの耳がピクリと動き、顔を上げるとレイロードの元から逃れてしまう。
「ああ、変わり様がない」
名残惜しそうにフォルを見送り、アズライトから差し出されたグラスを受け取る。
「バランティアの30年モンだ」
アズライトの声に随分に高級な酒だと思いながらボトルに手を伸ばすが、アズライトに押し留められた。
「おいおい、ホストは俺だぜ?」
と言う事らしい。軽く笑い、大人しくグラスを差し出す。そこへホストからウィスキーが注がれ、役目を終えたホストからボトルを受け取る。
レイロードの隣に座り、相変わらずの軽薄そうな笑みを浮かべグラスを差し出すアズライトに、また軽く笑ってウィスキーを注いだ。共にグラスを掲げ打ち合わせる。言葉は、特に要りもしなかった。
一口、口を付ければ、口腔に芳醇な香りが広がり、吐息と主に鼻孔から抜けて行く。
「良い、モノだな……」
「だぁろ?」
感慨深く呟くレイロードに、アズライトが満足気に口の端を上げた。酒の味か、今こうして嘗ての戦友と呑み交わしている事か、恐らはその両方なのだろう。
「てかお前、ちったぁまともに仕事しろよ? 噂話程度しか聞こえて来ないぜ?」
やや上気した心持ちをそのままに、アズライトがご機嫌な声を上げた。何の事かと、グラスを口に運んでいたレイロードは眉を顰める。天窮騎士の割に知名度は高くないが、それなりに仕事はしているのだ。
「ん? 十分している。多分、生態調査を主体にしているからだろう」
「はは、らしいっちゃらしいか。んじゃ戦闘は全然なのか?」
「細いのを取って後進からシェアを奪うのも考え物だろうからな。
討伐は2A以上の案件が出た時と、余り物の始末くらいしかしていない。
面倒事を押し付けられる事も多い。体が鈍らない程度にはそれで十分だ」
「成る程ね」
得心が行ったと言う面持ちでアズライトがグラスを指で弾く。ガラスの澄んだ音色が心地よく響いた。
何度かグラスを口に運び、他愛ない会話と美酒の味に酔いしれていた時、物憂げに天井を見上げていたアズライトの呟きが耳を打った。
「なぁ、レイロード。お前がチームを抜けたのって、ホントはナロニーのためか?」
僅かな逡巡。レイロードは天を見上げるアズライトとは反対に、グラスを見つめたまま言葉を濁す。
「……何の事だ?」
「今日、通信繋がった時によ、アルトリウス独立戦争に出てたって、チラッと言ってんだよ。好きでそんなトコ行く奴でもねーだろ?」
「チッ、余計な事を……」
ナロニーからアズライトに伝わった話に、レイロードは思わず舌打ちした。チーム解散の経緯は、レイロードがアズライトと黒龍の力量について行けなくなり、鍛え直すために独立戦争へ足を向けた事にしていたからだ。そして、その結果としてチームは解散となる。
「べーつにいいじゃねぇか。皆生きてたんだしよ。ジコーだ、ジコー」
レイロードの想いを知ってか知らずか、アッケラカンと最早時効だと告げるアズライトに、レイロードは自嘲しながら言葉を続けた。
「ハッ、別に誰かのためだとか、そんな殊勝なモノではないさ。
俺がお前達の力量について行けなくなっていたのは事実だ。
天才二人が疎ましい、と心の隅で思っていたのもな。そして、そんな俺自身が一番疎ましかった。
少し、距離を置きたいと思っていたんだよ」
己顕士の修練には時間がかかる。少なくとも10年単位でだ。レイロードの記憶の中は常に戦場だった。斬り、斬られ、只管に刀を振るい続ける。生きる目的自体が漠然とも存在せず、味方の事など気にかける余裕もなかった程に。
そして、レイロードはそのチームを追われた。これ以上置いておけば、何時かチームメンバーを巻き込み殺す事になるとされて。剣の師は何とか取り持とうとしてくれたが、結局は通らなかった。
その後に出会ったのがナロニーであり、アズライトと黒龍であった。アズライトと黒龍は修練を始めたばかりのド素人であったのだが、数年もすればレイロードに並び、そして直ぐに追い抜いて行った。
「そんな時に、ナロニーからアルトリウス独立戦争へ身を投じると言う話があった。それを俺が言い出した事にしただけだ。
ナロニーが言い出せば、お前達は付いて来ただろうしな。まぁ、渡りに船だった」
アルトリウス共和国、10年前の当時はアルトリウス王国は、北イグノーツェ東部を支配していた大国だ。その領土はロマーニ帝国と並ぶ程であったが、未だ王政を敷き、他イグノーツェ諸国と軋轢を生んでいた。その結果、王位継承でのお家騒動に端を発し、元々起こっていた周辺諸国独立の機運が進んで行ったのだ。それが約20年前になる。
そして10年前、レジスタンス側に本来の第一王位継承者、エナ・シャロン・フィア・ダルリアダと、その夫ダルク・ステインが加勢し、レジスタンス側に流れが傾いた。
「結局、俺はそこでも大して何も出来なかったがな。
アルトリウス側の騎士に文字通りバッサリだ。腕や足を飛ばされた事は幾度もあったが、胴が泣き別れたのは初めてだったな」
自嘲しながら、手で胴を斬る素振りを見せるレイロードに、アズライトも流石にいい顔はしなかった。だが、それでも何ら苦言を呈する事もなく黙って耳を傾けている。
現代の医療は進んでいる。DNAを取り込み、本来と同じ状態に戻す機能を持った人工細胞により、欠損した部位の修復すら可能だ。脳細胞さえやられなければ早々死にはしない。
とは言え、戦場で体の一部を失い生還するのは非常に難しい。レイロードが無事であったのは、自戒による己顕法で、生体機能を仮死状態まで落とす事が可能だったからだ。
「後で聞いたが、その騎士は翌日にはレジスタンスに寝返っていたそうだ。
ハッ、だったらあの時斬られた連中は一体何だったのかと思ってしまったよ。
まぁ、昨日の敵は今日の友、なんてのは珍しくもなかった。恨みが湧いてくる程でもなかったな」
変わらず自嘲気味に話すレイロードに、アズライトの眉が僅かに動いた。
「あー、もしかしてその騎士ってーのは……」
「あぁ、後の剣聖、そして天窮騎士、イル・バーンシュタインだったらしい。
あの朱に輝く剣は……何だな、今でも瞼の裏に焼き付いている。見事なものだった、と言う事なんだろうな」
見上げた先に揺れる蛍光灯に目を細める。脳裏に絵描くはその剣閃。どう捌くか、どう斬り込むか。無論、レイロードが見た剣技は、彼の者にしてはお遊戯程度の物だったのだろう。しかしだ。
「……なに、今ならいい勝負になる。ならんのならする。今度は負けんさ」
自嘲から一転、レイロードは自信を見せると口角を釣り上げた。そんなレイロードを見てか、アズライトも楽しげに笑う。
「おーおー、言ってくれるねー。歴代最高の剣聖様に喧嘩売れるたーなー。そん時ゃ是非勝って貰いたいね」
気の早い祝杯か、アズライトがグラスを掲げ、残ったウィスキーを口に運ぶ。それに倣い、レイロードもグラスを空けた。
「まぁ、今は兎も角、その当時は戦場から遠ざかろうと思っていた……胴がくっ付いて、まともに動けるようになってからは、環境調査、主に動物の生態調査をやっていた。まぁ、今もそうだが、その時はそれだけだったな」
どうにも口が軽くなる。情緒の浮き沈みが激しい。きっとアルコールの所為だ。そういう事にしておいた。誤魔化すようにレイロードは言葉を続ける。
「3、4年は続けていたんじゃないか? ヨアケオオカミの生態研究で論文を書いたりもした。学なぞなかったから散々な出来だったがな」
当時を思い出し微笑み、アズライトも笑いながらレイロードの空いたグラスにウィスキーを注ぐ。注がれたレイロードはグラスを一口運び、そして溜息を吐いた。
「もう、このままで良いかと思っていた時に……」
アルト・ダルジェントに遭遇したのだ。そして……。
「天窮騎士の称を賜った……」
「あー、経緯とかはいいぜ? 互いに面白くもねーだろうし。レイロード・ピースメイカーがロマーニから擁立されたって事を考えれば、大体分かるしな」
「そうか……スマンな」
レイロードの本意を汲んで不要と答えたアズライトに礼を告げる。
ロマーニの国力はイグノーツェで並ぶものはない。国家再建中であるアルトリウス共和国のように新たな天窮騎士を擁立し、態々波風を立てる必要などないのだ。故に、ロマーニから擁立されると言う事、その理由は一つしかない。
二人は互いに視線は交わさず、同時にグラスを空けて代わりとする。グラスを置く硬質な音が、静かに響いた。
「あー、氷持ってくんの忘れた」
話の空気を変えるためか呟くアズライトに、レイロードは象圏で捉えていた氷の入った容器、アイスペールの場所を告げる。
「ん? ああ、キッチンに置いてあるな。持ってこよう」
俺が取ってくっから、と言うアズライトを片手で制して口の端を上げると、掲げた手をキッチンへと向ける。少しして、アイスペールがゆったりと宙を舞ってリビングへと訪れた。
「何ぞこりゃ……」
その様子をアズライトが呆けた顔で眺め呟き、フォルがビクリと顔を上げ尻尾を振っている。喜んでいる、と言うより戦闘態勢に近い。飛び付かれて氷が散らばる前にアイスペールを手に取った。
「俺の己顕法だ。日常生活で使うには、ハッ、便利だな」
レイロードの起源の一つ、"憧憬"は、物を浮かす、と言う戦闘には微妙な力として顕れた。常人相手ならば使いようもあるのだが、己顕士相手には大して意味がない、程度の力だ。手の届かない物を取る、と言う、らしいと言えばらしい使い方が関の山だった。
「はー、便利だな……」
「ああ。実に平和なことだ」
グラスへ氷を入れるアズライトに、レイロードは珍しく明るく笑い、ポケットから取り出した経口タブレットを口へと放り込んだ。