3. 黒と青-4
逃げるように黒龍の研究室を離れた二人は、一目散にパーキングエリアまで撤退を完了していた。すぐ傍らで佇むレイロードの機馬が、帰還を歓迎しているようにも見える。
凝り固まった体をほぐし、桜花は両手を天に掲げ伸びをした。肺から吐息が漏れ、同時に声も漏れ出してくる。
「ふ~酷い目に遭いましたね。主に私が」
「苦手な物は強いて言うなら恋くらい、ではなかったのか?」
いつでも遁走出来るよう機馬に向かっていたレイロードが、振り向きもせずに淡々と小言を申し立て来る。最後にからかったためか、少々不機嫌そうだ。ただでさえ沈んだ声色が尚一層沈み込み、深海の底へと達している。
「まぁ、新たな難敵の発見と言う事で。ふふっ、これも成長ですかね?」
「いや退化だろう」
そんな深みもどこ吹く風と、軽くおどけて見せるが、実に冷徹に返されるだけだった。しかし、そこには先のような不機嫌さは見て取れない。既に浅瀬だ。
そもそも、自戒が起源の一つになるような男だ。感情の揺らぎは長続きしないのかもしれない。それに比べると、桜花は感情の浮き沈みが激しいと感じている。今まで見てきた物が全て間違っていたとは思わない。だが、間違っていた物もあるのかもしれないと、心の中に不安が広がっていた。
「私は……間違っていたんでしょうか……」
そんな気持ちが言葉となって口を衝く。先とは打って変わり、力なく漏れだした桜花の声に、機馬に向っていたレイロードが片眉を顰めていた。
「知らん。是非など終わってみなければ分からんだろうが」
慰めの気持ちなど一片も込められていないが、肯定も否定もしない冷淡な声。然しながら、その声に桜花の気持ちは幾分か楽になった。
それは純然たるレイロードの意思だ。慰めが欲しかった訳ではない。肯定でも、否定でも、先に続く道が垣間見えればと思ったのだ。是非が分からずとも先に進まんとする無謀さに、ほんの僅かばかりの憧憬を抱く。とは言え、敬意が浮かんで来る事はなかったが。
桜花が埒もない事を考えていれば、既に騎乗していたレイロードから声が掛けられる。
「どうでも良いがとっとと行くぞ。先ずはお前の荷物を回収する」
桜花は空間転移で飛ばされる前は、ここ、エレニアナに滞在していた。そして、PDだけを持って出歩いていた時に今回の事に巻き込まれる事になる。と言うよりも首を突っ込む事になる。たそのため、荷物一式が滞在していたホテルに置きっぱなしになっていた。それの回収も道すがらレイロードに伝えていた。
その事を思い出すと気持ちを切り替え上を向く。心に浮かんだ曇り空は、差し込む光に照らされて何時の間にやら消えていた。
「む、そうですね。そうして頂けると有難いです。その後はどうします?」
ホテルと言う所在がはっきりしている場所は容易に足が付く。それを警戒し、国境を越えてからは一直線にコルソ・シレナ大学まで足を運んでいたため、これから取りに行こうと言う事だ。
ただ、その後の指針が決まっていない。黒龍の見解によって見事に出鼻を挫かれた形になってしまったからだ。
そして、その事に対し、レイロードの答えは実に頼もしいものだった。
「……行きながら考える」
相も変わらぬ渋面を更に渋りつつ桜花から視線を逸らす。その姿に桜花は何時も通り半目で視線を送る。とは言え、桜花自体解決策がある訳でもない。この十数時間で出来上がったお約束のようなものだ。
桜花は機上に向けていた視線を戻し溜息を吐くと、機馬を駆け上がりながらレイロードに追従した。
「ま、それ以外どうしようもないですね。今から行くと言う事は、一緒に釣りもすると?」
「チッ、正攻法では難しいようだからな……」
桜花はタンデムシートへと腰掛けながら、レイロードの背に視線を送る。そこへ、忌々しそうに顔を顰めたレイロードが舌打ち一つし答えた。
要は桜花を人目に付かせ、相手側からコンタクトさせると言う捻りも何もない案である。上手く行けば芋蔓式だが、実際の所、上手くは行かないだろう。それでも相手を動かせれば儲け物、と言う事だ。
「先行き不安ですね」
眠たげな瞳で空を見上げた桜花に答えのは、機馬が駆動系から発する嘶きだけだった。
コルソ・シレナの都心をレイロードの機馬が駆け行く。周囲を見渡せば、そこは先進的な現代建築物で埋め尽くされている。どれも比較的に背が高く、コンクリートやガラスを前面に押し出している。シンプルで幾何学的なシルエットの中に、現代建築の複雑な機構を覗かせる建築様式だ。
唯一の隣国が情緒溢れる景観に対し、エレニアナは無機質と言っていい。これだけの急激な変化は他のイグノーツェ諸国間に比べても非常に異質だ。急激に切り替わるエレニアナ-フォンティアナ間の景観は、何処か現実味を忘れさせた。
「それにしても、機馬が少ないですね」
「ああ、コルソ・シレナの住民は余り外には出ないらしい」
桜花は道すがら周囲に目を向けていたのだが、少々不可解な状況に声を零し、レイロードがそれを拾った。イグノーツェでは機馬が主流であり、車の方が稀だ。1台辺りの値段も高く用途は狭い。ファミリー用としても馬車の方が安く、車は高級娯楽品の感が強い。何せ、馬車に優っているのがコンパクトな部分だけなのだ。
「それはそれで詰まらないですが……まぁ、ここは他と大分違いますしね」
こうも現代建築で埋め尽くされていると、それはそれで観光地にもなりそうだが、実際はそうなっていない。全体的なイグノーツェ人からしても、余り趣きがないのだろう。そして、コルソ・シレナ育ちでは他国の景観が合わない。エレニアナはほぼ島国に近いのが実情だが、余りいい状況とも言えないだろう。尤も、桜花やレイロードが考えても仕方のない事だが。
道なりに進み、コルソ・シレナの中心部、ビジネス街に入る。そこから特に進む事なく、直ぐに桜花が滞在していたビジネスホテルに着いていた。コルソ・シレナ大学より然程距離がある訳でもないが、特に何も起きていない。
桜花にしてもレイロードにしてもここでは殊更よく目立つ。人出を割いているならば、既に聖導教会へ連絡が付いていても良い頃合いだろう。桜花は外国人である関係上、越境に関してパスポートが必要だが、不本意ながら不法出国しているため、やむを得ず人目に付かないよう隠密行動で越えていた。国境検問所を通しておけば見つかるのは楽だろうが、入るのに面倒になりそうだったからだ。
「どうします? 部屋を取ってしまいましょうか?」
路肩に止められた機馬から降りながら、桜花はレイロードに問い掛けた。面倒がなければ、このまま滞在を続けても良いだろうと思ったからだ。
「いや、チェックアウトしてくれ。まともな所を取る」
「このブルジョアめ……」
しかし、レイロードがあっさりと拒否した事で瓦解した。ビジネスホテルとて十分まともな筈だが、要はシティホテルクラスでなければまともではないらしい。
鼻で笑うレイロードを、桜花は何時も通りの半目で見つめ、溜息一つ残してその場を後にした。
経費節約のための無人カウンターを通り過ぎ、そのまま部屋に向かう。室内は荒らされた様子もなく、出て来た時のままだ。荷物は極僅か。衣服を詰めた中程度の旅行鞄に、全長1メートル程度の角張ったバナナ状の箱、その二つ。箱の先端に掛けられたロックを外すと、金属の突起が八つと穴が一つ見て取れる。縦3横3の形状だ。
「まさか、もう替えを用意するハメになるとは……」
桜花は人知れず呟き、後ろ腰に佩いた刀を抜き出すと、箱の、ブレードラックの横に据え付けられたペンチ型の工具を取り出す。その工具のピン状の先端を、刀の目釘に合わせ握り込んだ。ピンの反対側へと、スルリと目釘が外れ工具に収まる。そのまま柄を分解し、敗北の跡が刻まれた刀身を暫し見つめた。
「ありがとう御座います、"桜花"。貴方のお陰で佐伯織佳はまだ戦えます。ゆっくり休んで下さい……」
一言、感謝と労いの言葉を捧げる。そして、別れを惜しむように、ブレードラックに空いた穴へと静かに収めた。替わりに、その隣に覗く突起を引き抜く。
シットリと濡れた銀色の刀身に桜の花をあしらった刃紋。静の中に動を収め、壮麗でありながら、静寂を内包した美しい姿。"桜花"に負けず劣らずの極上品が刃がその身を現していた。
得物の調達に苦労していそうなレイロードが見れば、悔し涙を流したかもしれない。尤も、あの男の涙など想像できなかったのだが。
ブレードラックに添え付けられたポーチ部分から鍔を取り出し、刀を組み上げると眼前に掲げる。
「これからよろしくおねがいしますね、"夜桜"……それにしても……」
新たな相棒に微笑みかけながら思いを馳せるのは、先の黒龍の元での事。
黒龍が紡ぎ出す言葉に引きずられ、世界に光が満ち溢れて行ったのだ。大気に遍く粒子の一つ一つまでもが明瞭に映し出され、それを更に見ようとして意識が飛んだ。レイロードの強引な方法で連れ戻されなければ、どうなっていたか分からない。だが、それ以上に何かが見えそうだった気がしたのも確かだ。流石に一人の時に試そうとは思えなかったが。
「何にせよ、長居は無用ですか……」
"夜桜"を鞘に収めると、ブレードラックをロックし取っ手を伸ばす。旅行鞄を肩に担ぎ、寝る事もなかった部屋を後にした。
カウンターに設けられた装置にPDを翳しチェックアウトを済ませる。自動ドアから出れば、機馬に跨った渋面の重装騎士が、経口タブレットを口に放り込みつつ出迎えた。その姿に桜花は顔を顰める。
「よく齧ってますけど、それ、美味しんですか?」
「どうだか。ただのミント味だ……やらんぞ」
「要りませんよ。これ、括りつけていいですか?」
ハッカ類は余り好きではない。苦手、という程でもないのだが。レイロードのケチ臭い物言いを流して、軽く旅行鞄とブレードラックを揺らす。
特に何も言わず顎で返して来たレイロードに礼を告げ、機馬の後部に括り付け始める。ブレードラックは10キロ少々あるが、この程度なら桜花の腕力でも特に問題ない。
それを胡乱げに見つめていたレイロードに視線も合わさず口を開く。
「あげませんよ?」
「要らん」
先の意趣返し程度であったが、レイロードの表情は何の面白味もなく変わらなかった。価値自体比べ物にならないのだから当然と言えば当然だが。
「……サイズが合わん」
呟くレイロードに生暖かい視線を送りながら、桜花はシートに飛び乗った。
特に行く宛もない、と言う何ともやるせない状況に対し、取り敢えず市街をぶらつく、と言う当り障りのない結論に達した二人は、言葉通り市街地に展開されている出店をぶらついていた。
それだけでも十分目立つのは想定通りだったのだが、道行く人々がチラチラと盗み見て行くため、誰が怪しいか怪しくないかが分からない。16時近くになっているのも関わらず食事処にも人が見えるは、昼食の遅いロマーニ文化圏だからだろうか。
桜花は見れば分かるが、周囲に目を光らせていれば警戒しているのが丸分かりだ。相手も姿を見せてはくれないだろう。故に、極めて自然に出店を眺めていた。
「む、このジェラートは中々ですね。バニラの香りもキツくなく、それでいて味も香りも程よく効いています」
「チッ、緑茶味は駄目だな。抹茶と大して変わらんかと思ったが……」
「む、ちょっといいですか?」
覗き込む桜花に、レイロードがそっとジェラートのカップを差し出す。そこから一口掬い口に運ぶが、何とも言えない青臭さと苦味が口に広がり桜花は眉根を寄せる。緑茶と言うより青汁だった。
「成る程、これはゲテモノですね……抹茶ってこっちにもあるんですか?」
「アレスにはな。大人しくミントにしておくべきだったか……」
渋りながらもレイロードがジェラートを口に運ぶ度、先の苦味が口に広がる気がしてしまう。桜花は自分のバニラ味を口へと放り込み、アレス、つまり、ロマーニの首都アレッサンドロ・エマヌエーレにはあるらしい抹茶味を思い浮かべてみる。が、その途端口の中に青臭さと苦味が広がった気がした。
ロマーニは和雲文化の影が多少見える国である。一般的に家内が土足禁止などがそうだが、そう言う事から抹茶があるのだろうか。その時はまともな味である事を願いたい。
「よく食べられますね……」
「…………」
隣で黙々とスプーンを動かすレイロードに視線を向けるが、返って来たのは沈黙のみ。余り大丈夫でもないのかもしれない。これが自戒の力なのか、憧憬から来るチャレンジャブルな精神なのかは、分からなかったが。
それにしてもと、桜花は周りをそれとなく見回す。こうして周囲の人々を観察するのは中々に面白い。明確に己顕士と判別出来るレイロードが居た事が幸いした。反応は概ね3通り。一つは無関心を決め込む者。一つは好意的な視線を送る者。一つは嫌悪を示す者。順に数は減って行く。桜花は当然そのつもりはないし、レイロードにしても同様だろうが、その気になればこの1帯を瞬時にして地獄に変えられる者に対して随分と寛容だ。E.C.U.S.T.A.D.と言う組織が根付かせたものだろうか。桜花にとってマイナスになる事はないのだが、その反面、少し不用心にも感じてしまう。が、考えても見れば、用心した所で出来る事など何もないかと首を振る。現在の社会体制としてはこれで良いのかもしれない。
「……4時方向、距離1キロ。10階建てビルの屋上」
その時、レイロードの呟きが耳を打った。動揺するマネはしない。表情も変えずに対応する。
「気付きませんでしたが……確かですか?」
「僅かだが、おかしな光の反射があった」
桜花の象圏は半径3メートル程と比較的狭い。象圏が捉えられる範囲に於いては、レイロードの索敵能力は圧倒的に上だろう。しかし、象圏の及ばない、より感覚的な気配察知は桜花が上の筈だ。ただ、1キロも離れていれば流石に分からない。レイロードが見つけられたのは、以前監視が付いていた頃の産物と偶然だろう。
「口直しに茶だな」
「まだ、お茶に拘るんですか……」
レイロードが指差す先に桜花は呆れて見せ、共に右手側へと歩を進めた。カフェのある場所は目標地点から丁度死角になる。そこから後は速さ勝負だ。ビルの影に入った瞬間二人は地を蹴った。