3. 黒と青-3
「桜花、おい、桜花! チッ」
何度か呼び掛けても答えない桜花の頬をレイロードは軽く叩く。しかし、反応が返って来る様子がない。昨日は殺気だけで反応した事を考えると、尋常ではないのかもしれない。
「飲まれたか?」
「ええ? こんな事で?」
レイロードの懸念に黒龍が戸惑いの表情を見せる。
己顕法の修練は禅行のような物なのだが、稀に自身の有り様を探ろうとして、そのまま自己に埋没してしまう事がある。何せ執拗なまでに、それこそ命懸けで自己を追い求めている少女だ。突如として訪れた自己の変化に飲まれてしまってもおかしくはない。
「ねぇ? この娘、大丈夫なの?」
「昨日会ったばかりだ。俺に分かるかッ」
自身が口にした事からの変化のためか、焦燥気味の黒龍をレイロードは切って捨てた。
レイロードもアウトスパーダの修練時に、自己に飲まれて1週間程昏睡状態に陥った事があった。ただ、桜花とレイロードの症状が同じとは限らない。そのまま廃人と化した例もある位だ。
どのような状態か判断は付かないが、レイロードが覗き込んだ桜花の瞳は、中心へと奔っている己顕の収束光が明らかに力強くなっている事は確かだ。
「マズイ、のか?」
対処が早ければ帰還率は大幅に上がる。返事に答えない桜花に業を煮やしたレイロードは、最終手段を講じる事に決めた。確証はある。
「この大学……医療設備はどの程度だ?」
「え? ええ、そうね、総合病院並とは行かないけれど、一時的な緊急受け入れが出来る程度には……」
マナを扱う事が多いためか、それなりの設備はあるようだ。それならば、万が一、いや、億が一、胴が泣き別れても……死にはしない。
「ちょっと、まさか!」
黒龍が手を伸ばそうとした時には、室内に黒閃が疾走り鍔鳴りが響き渡っていた。
「どう、言う……」
そこに桜花の姿はなく、代わりに黒龍の困惑が残り、レイロードは、
「チィッ!」
頭部へと背後から撃ち抜かれた桜花の跳び蹴りを、手甲でズラしながら体を反らし、すんでの所で凌いでいた。
「お、おや?」
空中から桜花の間の抜けた声が聞こえた事に、レイロードは安堵の溜息を吐く。どうやら戻ってこられたようだ。
「何のよ、一体……それよりも大丈夫なのね?」
「え、えと、ええ、まぁ、得には何ともないですよ?」
危なげなく着地した桜花を、憂いの表情で黒龍がその体を触っていた。無事かどうか確かめているようだ。怪我らしい怪我が無い事を確認し、黒龍が安堵の表情を浮かべている。本当にあの女に何があったのかと、レイロードは真剣に悩み掛ける。
だが、それも束の間。今度は憤怒の形相を湛え、黒龍がレイロードに詰め寄ってきたのだ。
「貴方! どう言うつもり!? 万が一あの娘が反応しなければ、今頃どうなっていたと思っているの!?」
「だから医療設備を聞いた。実績もあった。現に問題なかっただろうが」
レイロードは眉根を寄せ、鬱陶しそうに黒龍を追い払うが、そんな事など知った事かと黒龍が追いすがって来る。
「そんな事を聞いているんじゃないのよ! 貴方は! 何故何時も! どんな時も! 何かある度に! 何でそうやって斬って片付けようとするのよ! 昔から何も変わらないのね!」
「ハッ、堂々巡りだな。例え真っ二つになった所で死にはしないだろうが」
そんな事はお互い様だと、レイロードは黒龍から視線を逸らす。負い目があった訳ではない。ただ単に鬱陶しい。裏も表もなく、ただそれだけだった。が、その逸らした視線の先にまで、黒龍の影は迫った。
「だから! そう言う事を言っているんじゃないのよ!」
「事ある毎に、お前が言っていた事だろうが」
「昔の話でしょうが!」
ほんの僅か前の、互いを見知った穏やかな雰囲気から一変し、剣呑どころではない舌戦にやや緊張した面持ちで渦中の桜花が割り込む。
「えと、まぁ、何があったのかは、よく分かりませんが、落ち着いて下さい。黒龍? さんも、私はこの通り何でもありませんから」
「ちょと待ちなさい! 貴方も貴方よ! 平然としていないで、何か言ってやりなさいな!」
だが、その参戦に、黒龍が今度は桜花に矛先を変えたらしい。どう言う理屈かと、それをレイロードは鼻息荒く見送る。
「え? え? 私ですか!?」
「そう! 貴方よ!」
突如矛先が向かって来た事に、目を瞬かせ桜花が言葉に詰まっている。それに何の非がある、とレイロードが言い掛けた時、徐に桜花が口を開いた。
「そう言えば、頬がヒリヒリするんですが……」
ほら見た事かと、鬼の首でも取ったかのように勝ち誇った顔を黒龍がレイロードに向けてくる。それは関係ないだろう、と言い掛けた所で、またしても桜花が徐に口を開いた。
「えっちな事しようとしました?」
「する訳無いでしょう」
「バカがッ」
先程までの緊張感を何処かに置き忘れて来たような物言いの桜花に、黒龍が冷ややかに否定し、レイロードは罵声を贈呈した。
そんな事は些事だと言わんばかりに、口元に手を当て桜花が目を細める。
「ふふっ、性別の壁すら超えて魅了してしまう私。罪な女、ですね……」
「子供が馬鹿をおっしゃい」
「ならば腹を切って詫びろ」
呆れたように嘆息する黒竜に、過激な贖罪を提案するレイロード。全く取り付く島のない物言いに、流石の桜花も表情をなくしていたようだ。
「反論ぐらい一致させて下さい……」
「ハッ、何それ」
「ほざけッ」
余りの不一致具合に、もういいです、と桜花が肩を落としていた。そのおかげなのか、それまでレイロードと黒龍の間に漂っていた険悪な空気は、綺麗に、とまでは行かないが霧散していた。
「あ~もう馬鹿らしいわ! やめ! もう、やめにしましょう。貴方もそれでいいでしょう?」
「……ああ」
投げ散らかすように諦めた黒龍に、レイロードは一言で返した。お前が文句を言わなければ拗れなかっただろう、という言葉は何とか飲み込んだ。別に桜花が半目で睨んでいた事とは、多分、関係ないのだろう。
「しかし、そうなると収穫ゼロですか? いえ、私の眼の信用度が下がって、寧ろマイナスですかね?」
肩を落し語る桜花の背中が煤けていたが、少なくともレイロードには、その姿が自身を否定された事への悲哀や絶望を感じさせる物には見えなかった。それだけは救いだろう。
「いや、お前の瞳は少なくとも何か、普通の人間には認識できない物を見ているのは確かだろうさ。感情的な物、己顕関連や、お前が見た首謀者の起源に関しては正鵠を射ている、筈だ」
「そうね。己顕関連であれば、まず間違いはないと思うわ。それも証明する手立てはないのだけれど」
とは言えども、それだけで終わるのは面白くないのもまた、事実だ。
レイロードは黙考すると、桜花に視線だけを送る。その視線に桜花は、あなたに任せます、と、同じく視線で答えてきた。それを確認すると黒龍へ切り出す。
「一つ、いいか?」
「何? この際だから一つと言わずに二つ三つ聞いていきなさいな」
諦観したように投げやりな答えを返す黒龍に、レイロードは頷くと言葉を続ける。
「例えば、だ。いや、やめだ。桜花の眼が、マナサーキットを空間転移を行う物、と認識したとすると、どれ程の信憑性が得られる?」
「ふ~ん? そっちが本命? あらあら、私を信用してしまっていいのかしら?」
「茶化すな。で、どうだ? そもそも空間転移と言う話自体が眉唾だろうが……」
「そうでもないわよ?」
俺はこの目で見た、と、レイロードは繋げようとしたが、皆まで言う前に黒龍が肯定した。その言葉に下がっていた視線が自然と上げられ、レイロードの代わりに桜花が確認を取る。
「そうなんですか?」
「ええ。空間転移は昔から研究が行われて来た分野ですもの。ピースメイカー、貴方がさっき手に取っていた本がまさにそれよ。古代に表記された概論みたいな物だけどね」
黒龍が胡乱げに指差した書棚を向くも、既に先の書物が何処にあるかは分からなかった。仕方がない、とレイロードは探すのを諦め大人しく次を待つ。
「で、それは今でも続けられている。勿論大々的には行っていないけれど」
「国境もクソもなくなるからな」
「我、侵略の用意あり、と言っているようなモノですからね……」
今でも、と言う言葉に、レイロードの眉尻が僅かに上がり、そして忌々しそうに吐き捨てた。今更戦火を広げられても堪らない。その横で桜花が思案顔で静かに首肯した。
「そうね。だから、研究されているのはゲート型と呼ばれる入り口と出口をハードウェアレベルで作成し、その間にトンネルを作るものよ。これなら出口を監視すればいいし、予定外の起動は出口側で止める事が出来る」
「門、か……俺はヴァノッサを討っていたんだが、その残留マナが黒いリングを形成していた。それか? 桜花、お前が見たものは?」
桜花が出て来た時のリングは、門と言えるかもしれない。そう思い、レイロードは現物を見た事のある桜花へと視線を投げる。
「いえ、地面にマナサーキットが直接描かれたいた物でした。少なくともハードウェアは存在していませんね。マナサーキットの上、っと言うか、低空に黒い塊が浮いていましたが。光の反射を一切感じさせないような。形状に関しては恐らく菱形です。
それを斬った所、リング状になって吸い込まれました。気が付いた時にはレイロードの所に」
レイロードから振られた内容に桜花が粛々と答えて行く。その話を咀嚼しながら、瞑目していた黒龍が目を開いた。
「マナサーキットも関係なく物質単体で? となると、マナサーキット自体はその物体の制御用だった? でも、マナサーキットも空間転移用と認識していた……。
一応、実例としては門を造らず、マナサーキットだけで強制的に転移を掛ける事も可能なのだけれど……」
「ほう?」
「本当ですか?」
先の黒龍の話から、レイロードはマナサーキットだけの空間転移など狙って出来る物ではなく、偶然の産物ではないのかと思いだしていた。聞き返した所を見るに、実の所、桜花も同じだったのかもしれない。
「ただ、それ程大きな物は転移できない筈……異なる二つのマナサーキットを組み合わせる事で、大規模転移を可能にしようとした? 出来るのかしら? ……駄目ね……やはり、マナサーキットが引き起こす過程を認識出来なければ、何とも言えないわ……」
眉間に皺を寄せ考え込んでいた黒龍に桜花が一歩近づくと、少し考える素振りを見せた後、口を開く。
「では、少し質問を変えますが、転移のマナサーキットを用意した人物の起源が、"破滅と妄執"であった場合、最悪どのような事が予想されますか?」
桜花が口にした物騒な言葉に黒龍の顔が上がる。が、そこには驚きや困惑などは見て取れず、寧ろ得心が行った、と言う表情を醸し出していた。
「そう、それで早急にコンタクトを求めて来た訳ね。世界の破滅でも見てしまったのかしら?」
ほぼ正確に言い当てた黒龍に、桜花が言葉に詰まっていたが、それを気にする事もなく黒龍が続ける。
「でも、正直そこまで大層な事は出来ないと思うわ。マナサーキット一つで世界を滅ぼせるなら、私はとっくにクァ・トラコの支配者になっているもの。
しかも空間転移でしょ? 地表をゴッソリと転移させてしまえば、自転を狂わせて星を壊滅させる事も出来るでしょうけど、大陸全土に渡ってマナサーキットを敷きでもしなければ不可能よ。
亜龍種のマナ波長と同調した事にも話が繋がらないしね。精々大量の亜龍種を呼ぼうとした程度かしら? クイントに関しては、私より貴方のほうが詳しいんじゃない? 確かに大事だけど、世界をどうにか出来る程じゃないと思うのだけれど?」
一通り吐き出した黒龍が一息付いて肩を竦める。要は考え過ぎだろうと言う事だ。確かに、世界を滅ぼせそうなクイントなど存在しない。昔は兎も角としてだ。桜花も神妙な顔つきで黒龍の話を咀嚼していた。
ただ、桜花が斬った物が亜龍種に反応したとするならば、レイロードと桜花が出会ったのは単なる偶然でもないのかもしれない。運命という言葉口にしたくなかったが。
そんな少々メルヘンチックな思考が頭をもたげるが、黒龍の声が聞こえた事で霧散した。
「まぁ、とは言え、大事は大事だから、私の方でも何かないか調べてみるけど、何とかしてちょうだい。事実なら、他人事ではないのだしね。子供達に悲しい想いをして欲しくはないもの」
「子供……お前の?」
黒龍が放った一言に、レイロードの眉尻が驚愕で跳ね上がった。自身同様独り身を貫くのではないかと思っていたために余りにも意外だったのだ。何故、他人事ではないと言ったかも気にはなったが、そちらの方が先に来ていた。
「いえ、別におかしな事でもないでしょう?」
レイロードの疑念に桜花が小首を傾げている。どうやら桜花にとってはそれ程不思議な事でもないらしい。初対面の人間にはそう映るのだろうかと、レイロードは首を捻った。その様子に黒龍が眉を吊り上げ口を尖らせる。
「失礼な男ね。正真正銘私の子よ。ああ、そうだわ。住所を教えるから、後で来なさい。私はどうでもいいのだけれど、きっと夫が喜ぶから」
「ハッ、何故俺がそんな事をせねばならない」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。ちょっと寄るくらいは」
自宅へと誘う黒龍にレイロードは否定的だったのだが、横から桜花に諌められ黙考する。
「そもそも、何故お前の旦那が喜ぶ」
当然と言えば当然の疑問に対し、黒龍はさも当然の如く言い放った。
「あら、決まってるでしょ? ファンなのよ。貴方の」
「おやおやレイロード、サインの練習はしていましたか?」
何故かいたずらっぽく笑う黒龍と、冷やかしながら微笑む桜花に、突っぱねるより幾分マシかと、レイロードは渋々頷いた。
窓から差し込む光が、いやに優しく輝いていた。