プロローグ
「漸く……漸くか……」
深紅の司祭帽から覗く、銀色の髪が揺れた。四方を囲む無機質なコンクリートが、心地良い冷たさで室内を包む。1辺50メートルはあるだろうか。照明器具など見当たらないが、不思議と青白い燐光が室内に漏れ出している。光源の正体は足元。床を覆い尽くさんばかりに描かれた、円と線を織り交ぜた幾何学模様からだ。
それを知る者であれば、直ぐに理解出来るであろう物。大気に遍く、マナと呼ばれる素粒子を変換させるための物、"マナサーキット"。
"マナサーキット"はその構成によりマナを様々な現象へと変換させる。
マナが変換される現象に与えられた名、それが、"魔法"。
そして、マナサーキットと魔法を統括した技術体系に与えられた名、それが、"魔術"。
それは嘗て、神が与えた奇跡の力と尊ばれ世界を征し、そして人間の力に敗れ去った力。
科学を生み出す切っ掛けを与え、今では科学となった力。
今では、この大陸"イグノーツェ"に住まう人々の、誰しもが享受する事になった力だ。
「幾程の歳月が過ぎたか……」
マナサーキットを前に呟き漏らした声の先、部屋の中央には重力から逃れたかの如く、人間大の黒い塊が浮かんでいる。光が照らしているにも関わらず、何故かその姿は不明瞭だ。シルエットからは菱型のように見える。
一切を映さず不自然に浮かぶ黒塊は、見るものによって神秘的にも、陰鬱にも取れるであろう。
少なくとも、この部屋でただ一人それを見つめる男には、実に神秘的に映っていた。
年は壮年から初老に入ろうと言う所だろうか。胸元には、輪の四方に菱型が配置された十字架が添えられている。その身に纏う深紅の法衣は、金糸による繊細な刺繍が施され、威厳と権威を体現し、男が高い身分に居るであろう事を想像させるには実に易しい。
微動だにせず、ただ一点を見つめ続けるその姿は、壊れたブリキのように無機質で、それでいて侵されざる神聖さも持ち合わせたような、形容しがたい威容を佇ませていた。
「これで……私の夢は成される……」
男の静かな呟きは、部屋の無機質さと男の存在感とは裏腹に、数多の感情が入り混じり、正に万感の念と称するに値するものだった。
そんな折だ、男の背後から声が掛けられたのは。
「それは良かったですね」
涼やかな声だった。まだ若い女の声。しかし、掛けられた労いの言葉とは対照的に、その声色は平坦で、暖かな感情を感じさせるものでは断じてない。寧ろ、男の願いを否定するかのように冷たく澄んでいる。
どこまでも唐突に、どこまでも絶対的な力を伴って、響く筈のない声が、その世界を支配した。
「ッ!」
男は振り向く事が出来なかった。
それもそうだろう。男の体の中心、つまる所、心臓にあたる位置から、弧を描く銀色の物体が現れていたのだから。
男の意識はそれに集約されていた。はて、これは何なのであろうか、と。少なとも自身の体の一部で無い事は明白だ。法衣の装飾でも有り得ない。自身の体にも法衣にも、こんな物質はつい先程まで存在していなかったのだから。
判然としない状況の中、男は思考を手繰り寄せていた。これは背後から自身の体を貫き通し、眼前に現れたのだ。恐らくは刃物。最近の己顕士用装備にしてはよく斬れる。細い弧を描く事からサーベルの一種だろうか。それにしても、このシットリと濡れたように艶めく表面素材は何なのであろうか? チタンではない。オリハルコンにしては切れ過ぎる。ミスリルだろうか? いや……鉄か。これは鉄なのだろうか? だが、この現代に於いて鉄を武器にしようとするだろうか? あの花びらのような刃紋、武器には似つかわしくない工芸品のよう刃紋、あれはイズモの……いや、それよりも……。
不思議な事に恐怖は感じなかった。痛みを感じる事もなかった。
どうでも良かった。
美しい……眼前で理不尽なまでに煌くこの銀色の凶刃が、男には、ただただ、そう、美しいと思った。
「心室と心室の間を通しました。下手に動かなければ死にはしませんよ」
夢幻の思考に追いやられたその矢先、女の声と共に刃が何の前触れもなく消え去った。それに伴い思考が現実へと引き戻される。
一瞬の混乱の後に、直ぐ様刃が引き抜かれた事を理解すると、余計な力を抜き、重力に任せてその場に倒れこむ。無駄な筋肉の収縮による心拍上昇と、心臓への負担を抑えるためだ。と同時に、目まぐるしい速さで現状を理解せんがために脳細胞が活性化されていく。
不自然な程に出血は少なかった。貫かれた位置からすれば脊椎にもダメージが及んでいるはずだが、それも感じられない。肉体が損傷を感じ得ない程に、恐るべき鋭さと正確さと速さで貫かれたのだろう。体を動かすのは危険だが、無理をしさえしなければ失血死には至らないと結論付ける。
自身の命で人払いを行った。救援は期待できない。即座に命を奪われる事はないだろうが、出来る事は精々時間を稼ぐ事だけだ。
ゆっくりと顔を傾け、声の主を確かめようとするものの、その姿は闇に隠れ、銀の弧月だけが輝いている。
「何、者だ……どうやって……」
「おや? 存外冷静ですね。相応の実戦経験でもありますか……高位の己顕士ですかね?」
「さてな……」
「成る程。まぁ、大人しくしていて下さい」
男の頭に浮かぶ漠然とした疑問。そんな男の心情など、毛ほども知った事ではないと言わんばかりに、先と変わらぬ、涼やかでありながらも平坦な声が返される。それは実にどうでも良い感想と、得体の知れない納得の言葉だった。
何に納得したのかは理解の仕様がない。出来はしない。が、それでも焦らず出方を待つ。尤も、それ意外に出来る事など、本当に何もなかったのだが。
そんな有り様で、この侵入者が何者であり、どのように侵入したのかと、恨めしげな眼差しを送る男に、闇の中から訝しげな声が届く。
「ん? 何者か、ですか? 拘りますね。しかし、中々に難しい。私は何なのか。何なんでしょうね……あぁ、それと侵入経路ですか? ……ずっと居ましたよ? あなたの後ろに、ずっと」
女の発したその内容は、男の全身を総毛立たせ、心拍数を引き上げさせるには、十分すぎる衝撃だった。まるで地の底へ引きずり込まれるよう不快感。同時に、困惑に囚われながらも、その可能性が脳内を駆け巡る。
何時から居たのか? 姿を消していた? 手段は何であるのか? 魔術? 光学迷彩? 有り得ない。そんな物は、未だどの国でも実用化には至っていない。それも人間が携行できるサイズなど。もし、可能性が有り得るとするならば、それは……。
「"己顕法"……なの、か?」
「手品はタネが分からないから面白い。そうは思いませんか?」
僅かな焦りを窺わせた男の声とは裏腹に、女は変わらず冷淡な声を響かせるだけだ。
可能なのだろうか? それで生きていけるのだろうか? 男の心は、言い知れぬ恐れにざわめいていた。存在感を薄くする程度であれば可能だろう。本人と言う物質ははそこに存在するのだから。しかし、その程度であれば気が付ける。ましてや、後ろに居たのであれば尚更だ。
「さて、さっさと潰してしまいましょうか」
時間切れだ、とでも言うように、女の声が男の思考を切り裂いた。反射的ににそちらを見やれば、闇の中、どこからともなく、薄桜色の炎が浮かび上がる。一つ、二つと、己顕の鬼火がユラユラと。
「ロマーニの、銀……」
見ようによっては銀とも取れるその色に、男は反射的にその言葉を発していた。
そんな男の事など歯牙にも掛けず、ユラリと銀が揺れ、硬質な物体が床を叩く音が響く。
闇を纏い棚引かせ、薄桜の鬼火を引き連れて、悠然とした足取りと供に"それ"は姿を現した。
夜を溶かしたかの様な長い黒髪。感情を表さない冷酷な切れ長の黒い瞳。幽玄の化生が、生者を惑わせるかの如く露出された四肢。生気を感じさせない白い肌。マントなのかマフラーなのか、両肩に掛けられた朱の布地は、血を求める様に靡いている。
「あ、あぁ……神よ……」
悪鬼、悪魔、天魔……邪神……いや、もっとおぞましい何かか。絶対的な恐怖。男にとって目の前に現れたそれは、男の中から生物の根源に眠る恐怖を揺り起こしていた。信じてもいない自らの神に、祈ってしまう程に。
そして理解した。どうにも成らないと。もう、どうにも成らないのだと。男には、ではない。この国の誰であろうと、どうにも成らないと。
そんな男の事など気にも止めず、"それ"は悠々と脇を通り抜け歩を進める。
マナサーキットが生み出す光の中を進む毎に、朱の布地に青白い幾何学模様の光が仄かに輝く。マナサーキットと同じ、マナの変換光だ。
そして、極当たり前に、極当然と、それはマナサーキットの中心へと辿り着いていた。
妨害など考えも及ばなかった。ただ為すが儘に、"それ"を見送る事しか、出来なかった。
"それ"は、"それ"と同程度の大きさをした黒塊の前に立つと、軽く四方を見回し、視線を戻す。
「はてさて……ん~? ここまで複雑では何が何やら。ま、こう言う物は一番それっぽい物でも壊せば大丈夫ですかね」
そう言いつつ、何故か男を一瞥すると、"それ"は左手を軽く払った。その命に従い、薄桜の鬼火が舞い、床へと落ちる。よもや部屋ごと焼き尽くす気かと、男の表情も険しさを増す。しかし、男の杞憂とは裏腹に、炎は尽く"マナサーキットだけ"を焼いていく。一切の熱を感じさせずに。
「何とおぞましき己顕法か……」
男は、その炎に、己顕法に、姿見えね"それ"の有り様を見出していた。
――万象には多様な起源、有り様が存在する。
生物が持ち得る"個の姿"にも、同様にそれは存在した。
そして、個が内包する有り様は、その多様性に応じ、多種多様な姿をも有していたのだ。
例えば"憤怒"。
ある者にとってそれは、万象を焼き尽くす業火の姿を有していた。
ある者にとってそれは、大地を薙ぎ払う嵐の姿を有していた。
ある者にとってそれは、荒れ狂う大海の姿を有していた。
例えば"愛"。
ある者にとってそれは、身を焦がす炎の姿を有していた。
ある者にとってそれは、安らぎを運ぶ風の姿を有していた。
ある者にとってそれは、清らかに広がる水の姿を有していた。
何時から存在したのかは分からない。だが、事実、それは生物の機能として存在していた。
個が持つ有り様を、その姿に応じた力へと象る力が。
"己顕"。
そう名付けられた力を知った事により、人間は新たな術法を編み出す。
自身の有り様と向き合い認識する。その事により、己顕によって象られた力を、世界へと引き出す術法を。
その術法に与えられた名こそが、"己顕法。"
そう、それこそが、奇跡の力を駆逐せしめ、新たな時代を切り拓いた人間の力。
そして、この力を振るう者達に与えられた名、それが、"己顕士"だった――
「…………」
ただ一つを焼く炎、それが何の有り様かは判別出来ない。が、執着、妄執、怨嗟、負の有り様に見られる現象ではあった。その有り様が強い程に、一つの物へと向かう力も増していく。男には、よく分かる。
"それ"は何も口にせず、代わりにと、広がる薄桜の中、両手で以って刃を握る事で応えた。握られた刃は悠然とした所作で大上段に据えられ、そこからさらに、切っ先が地に向く程に引き絞られる。
右足を軸とし、マナサーキットと薄桜を削り取りながら、左足が後方に滑る。"それ"の足元が摩擦音を掻き鳴らし――刃は既に振り落とされていた。
一拍の間。その一瞬、全ての音が消えたかのように、静寂が室内を支配する。
その支配から逃れるためか、黒塊が二つに分かたれ、軋むような音を立てながら、端々が連鎖的に崩れ始める。
最早、その姿を判別出来無いまでに数多の欠片となって崩壊した時、突如としてそれは起こった。
全ての欠片が中空で静止したかと思えば、万華鏡の写し絵が如く姿を組換え続け、遂にはリング状に姿を作り変えていた。その大きさは人間など軽く飲み込む程。
「これは……明らかにマズイのでは……」
二度目の変化。"それ"の呟きに答えるように、リングの中心がざわめき出す。リングはそのざわめきを強め続け、中心に黒点が現れるや、"それ"の体を引き寄せ始める。
大気が轟々と唸りを上げ荒れ狂い、壁を、床を、天井を、四方の物質を、薄桜の鬼火までを引き剥がす。引き剥がされた物体は黒点に飲み込まれ、飲み込んだ黒点はその規模を拡大させ続ける。
遂に黒点は、リングを埋める程の、黒球とでも言うべき規模にまで成長し、室内は天災に見舞われたかの様な惨状を呈していた。
全くの想定外であった光景を、男はただ呆然と眺めていた。何も分からなかった。原因も、結末も、それが絶望なのか希望なのか、何も分からなかった。
男は黒球から離れていたためか、或いは地に伏せていたためか、若干体を引き寄せれつつも持ち堪えれていた。が、"それ"はそうはいかなかった。
右半身は既に黒球に飲み込まれ、全身が飲み込まれるのも、最早時間の問題と言う無惨な有様。
「何ですか!? 構造ぐらい把握していて下さいよっ!」
しかし、それでも男を一瞥し、恨み事を吐き出すその姿は、余裕すら感じさせ、男が"それ"に見出した恐怖を増幅させるだけだった。
三度目の変化は又も唐突に訪れた。何も映していなかった黒球に朧気ながら何かが映る。
人だ。男の姿が写り込んでいた。
一言でその姿を現すならば騎士。今では珍しい、中世を模したようなクラシカルタイプのプレートアーマー。青系を基調としたサーコート。疲れて艶の無くなった黒髪。機械を思わせる冷徹な真鍮色の瞳。端正ながらも人を寄せ付けないであろうその渋面。
「誰? 何? 空間の歪み? あぁ、もう! 何でも良い! 頼みますよ!」
"それ"は叫ぶと共に、残りの半身を自らリングに詰め込み消えって行った。
あれ程に荒れ狂っていた吸収現象は成りを潜め、リング自体も虚空に消え去る。始めから存在でもしなかったかの様に。だが、天災に見舞われたか如き惨状を残す部屋が、今し方起きた出来事が、現実なのだと教えていた。
一時の安寧と共に、男は横たわったまま再び頭を巡らす。恐らく"それ"は生きている。男にはどうにもならない。この国の誰であろうとどうにもならない。だがしかし、アレならば、よもやもすれば……。
先程垣間見た騎士の姿が思い浮ぶ。面識はない。が、間違いはない筈だ。期待も出来ない。僅かではある。だが、それでも、それは希望の光に思えたのだ。
――レイロード・ピースメイカー――
男の漏らした名が、虚空へ消えた。