一足先に、風呂上がりの一杯
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「はい、どうぞ。どうだった?はじめての“銭湯”は?」
そう言ってメスが俺に手渡してきたのは、何やら透明のガラスのような入れモノに入った茶色い水だった。
俺は風呂上がりでホカホカになった体を携え、メスの手渡してきた茶色のソレを手に取った。冷たい。
「大きくて、熱くて、でも、楽しかった!」
「そりゃ、良かった」
俺は茶色のソレを手に持ったまま、メスの言葉に濡れた毛がピンピンと逆立つような気分になった。
俺はお風呂掃除を終えた後、メスの言葉に甘え開店前の銭湯のお風呂に入れてもらったのだ。
湯を張って、客を待ちわびるソコは、俺が掃除をした風呂場とは別世界だった。
山の絵の下の窪みには熱いお湯が張られ、そのせいで風呂場はムワッと熱く、白い湯気が立ち上っていた。
湯気の向こうに見える山の絵は、なんとも綺麗で最初に見た時とは比べ物にならないくらい俺の鼻の毛をヒクヒクさせるような代物だった。
初めて温泉に入る俺に、メスはいろいろと温泉の決まりごとを教えてくれた。
最初にいきなりお湯に入ってはいけないこと。
あそこは、いろんなお客さんが入る場所だから、まずは「掛かり湯」をして体を洗ってからお湯に入るように言われた。
メスは俺が日本語が分からないと思ったのか、丁寧に体を洗うものまで説明してくれた。
人間の風呂の事なんて全然わからなかったから、物凄く助かった。
面白い事に、人間と風呂の洗い方は殆ど同じだった。
洗う箇所によって使う洗剤が違うところや、ごしごしすると白のフワフワが出る所、それに最後にお湯で流すとスッキリするところ、どれをとってもお風呂掃除となんら変わりなかった。
自分の毛や体が白のフワフワだらけになるのが楽しくて、俺はたくさんゴシゴシした。
あんまりゴシゴシし過ぎて肌が赤くなってヒリヒリしてしまったくらいだ。
体を洗った俺はメスに言われた通り、そっとお湯につかった。
最初は熱くて飛び上がったけど、次第に慣れていって「ごくらく、ごくらく」とぼぉぉーんと響くお風呂場で呟いた。
「ごくらく、ごくらく」はお風呂に入ったら言う言葉なんだと、メスが言っていた。
あとは、広いけれどこのお風呂場で騒いだり泳いだりしてはいけないと言われた。
まぁ、言われなくとも俺は大人だからそんな事はしない。
それにこのお風呂は、こうしってゆっくり肩までつかる事に一番の「ごくらく、ごくらく」があると思う。
騒いだりするのはなんか違う。
そんなわけで、初めての“銭湯”を体験した俺は今、メスに茶色の物を渡されホクホクしている最中なのである。
「つめたいなー」
俺はもらった茶色を顔に当てて熱を逃がした。
これはきっと、熱くなった体を冷やすものだろう。
きもちい。
すると、そんな俺の様子を見ていたメスが「あぁ」と俺から茶色のモノを取った。
「もしかして、瓶のコーヒー牛乳は初めて?これはこうやって開けて、中のものを呑むのよ」
「のみものだったのか」
ぽんっ。
メスが器用に上についていた髪を爪を立てて開けた。
すると、そこからはほんのりと甘い香りが俺の鼻を擽る。
「風呂上がりは瓶牛乳かコーヒー牛乳って相場が決まってるのよ」
「そうだんだ!」
俺はメスからお勧めされるがまま、その冷たい茶色の飲み物に口を付けた。
口に甘い水が流れ込んでくる。
つめたい、きもちがいい。
これを飲むのも温泉の決まりごとらしい。
なんとも良いきまりごとだろう。
「あまい、おいしー」
ごくごく、と一気にソレを喉を鳴らしながら飲む。
口いっぱいに甘い茶色が広がって、熱かった体が少しだけ涼しくなる。
ほんわりと、幸せな気分である。
「さて、もうすぐ開店の時間ね。お店番は別のバイトの子がしてくれるからいいわ。今日はお疲れ様でした。本当にありがとね、ニート君」
俺がコーヒー牛乳を飲んでいると、突然メスが俺に向かって頭を下げて来た。
俺は“しごと”上手くできなかったのに、どうしてこのメスは俺に“ありがとう”を言うのだろう。
「俺、上手にできなかったのに。なんで?」
「あら、最初から上手な人なんていないわ。私は困ってたの。そこにニート君が名乗りを上げて手伝ってくれた。しかも分からない事も多かったろうに、一生懸命やってくれたわ。私はその事に感謝してるの。ニート君、ありがとうございますってね」
「…………」
俺はコーヒー牛乳で少しだけ冷めていた体が、また熱くなっていくのに気付いた。
毛がぶわっと逆立つような、今は顔があっつくなるような感覚。
俺ははじめて“おしごと”をして、人間に「ありがとう」を言われてしまった。
なんてことだ、猫の俺が“おしごと”をしただけでなく、感謝までされてしまうなんて、そんな猫はきっと世界中探したって俺だけに違いない。
なんてことだ、なんてことだ。
こう言う時、なんて言わないといけないか、俺は知っている。
「どういたしまして……ふふふ」
俺は嬉しくて嬉しくて、笑ってしまった。
にこにこだ。
にこにこが止まらない。
俺が嬉しくて笑っているとメスもなんだかとても嬉しそうな顔で俺を見ていた。
「お礼を言ってこんなに喜ばれたのは初めてよ。ほんとに、キミが不思議な子ね。海外の人って皆こうなのかしら」
そう不思議そうに言うメスはきっと知らないのだろう。
ありがとうは言うよりも言われる方が、ずっと嬉しい事を。
俺は今初めて知ったから、メスにも教えてあげよう。
そう、俺が思った時だった。
ぐぐぅぅぅぅぅぅ
盛大に、それはもう盛大に俺の腹が大きな音をたてた。
その瞬間、俺は今の今まで忘れていた己の空腹をばっちりと思いだしてしまった。
そう言えば、俺は今朝から何も食べていない。
いや、さっきコーヒー牛乳は飲んだけれども、あれは食べ物ではない。
言ってしまえば水みたいなもんだ。
水ではお腹はふくれない。
昨日、しろから貰ったふれんちとーすとから何も食べていないなんて、それは今までの俺からすると考えられない事だ。
俺は食いしん坊だ。
あればあるだけ食べられるが、無ければそれは大事だ。
「おなか、すいたなぁ」
俺が思わずそう呟くと、メスは「あぁ、そうだった」と何かを思い出したように手を叩いた。
「お給料あげなきゃね!うちは日払いだから、ちょっと待ってなさい」
おきゅうりょう?
それは何だろうか。
でも、なんとなくだけれど“おきゅうりょう”は食べ物ではない気がする。
俺は今食べ物以外を貰ったって嬉しくもなんともない。
俺はおいしいごはんが食べたいのだ。
「おきゅうりょうより、食べ物がいい」
「っへ?お金より現物支給派?最近の子にしては珍しいわねぇ」
「おいしいのがいいです」
俺が体力の限界とばかりにその場にお腹を抱えて座り込むと、上からメスの「どうしようかしら」という声が聞こえて来た。
せっかく“おしごと”をして感謝されたのに、こんな事で相手を困らせるなんて。
俺はなんて悪い猫なんだろう。
けれど、もう我慢できない。
外から指す太陽はもう殆ど傾いている。
こんな時間までご飯を食べないなんて、俺は死なない猫だけれども死んでしまうかもしれない。
「そうだ!どうせもうすぐアンちゃんが来てくれるし、ニート君を美味しいご飯を作ってくれるお店に連れて行ってあげよう」
「っほ、ほんと!ほんとに!?」
俺はメスの言葉にピーンと背筋を伸ばした。
きっと尻尾があったらまっすぐ立ってるに違いない。
このメスはなんて優しいメスなんだろう。
俺が余りにもにこにこでメスを見ていたからかもしれないが、メスは「わかった、わかったから!ちょっと待ってなさい」と言うと、奥に行って何をし始めた。
あぁ、おいしいごはんとは一体なんだろうか。
きっと幸せのごはんに違いない。
俺は空になった茶色の液体の入っていた入れモノを頬に当てると、まだ熱い頬へのひんやりとした感触を楽しんだのであった。




