第49話「転身」
空気が揺れた。
それに気付いた良源が結界を振り返ると、いつの間に出現したのだろう紅い火の玉のようなものが維将の傍らに浮いているのが見えた。
その数は徐々に増し、次第に色が紅から金に変化してゆく。
「……九つの狐火」
ぽつりと晴明が呟きを漏らした。
「狐火の数はその狐の徳を顕すと母上から教わったが……」
「九つは最上の徳を顕すものであり、また尾の数でもあります」
晴明の呟きを受け、山吹がそう言った。
すなわち、維将は九つの尾を持つ狐だということだ。
「今までは人としての生によって力が押さえつけられていたのでしょう」
「その抑制がなくなった今、力は……」
その時だった。
維将を中心として風が巻き起こる。
晴明は思わず腕で顔を庇う。
風は徐々に勢いを増し、ついには維将の姿を覆い隠してしまった。
死にたくない、か。
不意に声が聞こえ、同時に体が軽くなった。
だが瞼を押し上げるも闇の中で何も見えない。
それは人であれば、の話だな。
声は己の背後から聞こえてきていた。
維将は振り返ろうとしたが、体が固まったように身動きが取れなくなってしまっていた。
人としてのお前は死んだ。
聞き覚えのない声音だった。
だが………妙に懐かしい感じもする。
さてここからが本題だ。
お前は妖としての生を受け入れてでも現世に戻りたいか?
「え………?」
選択肢はふたつにひとつ。
このまま死ぬか、妖としての生を受け入れ現世に戻るか。
死んだ場合は私が代わりに体を動かし、仇を斃(たお)す。
「俺は死にたくなんかない! 死んだらお師様が………」
そこまで言って、維将はハタと気付いた。
そういえばこの声の主は……
「人としての俺はもう死んだ、て言ったな」
そう、確かにそう言った。
ではここは一体どこなのか。
「ここはお前の中だ」
声が現実味を帯びた。
「お前の魂魄はまだ体に宿っている。ただ体は死を迎え、機能をすべて失っているがな」
「…………お前は誰だ…?」
振り返ることができないまま、維将は背後の声の主に問いかける。
すると声の主は苦笑を漏らした。
「それをお前が聞くか?」
「…………」
その時、淡い光が差し込んできた。
それを月光だと思ったのはなぜだろうか。
明かりが辺りを照らし出したお陰で、維将はようやく自分がどこに佇んでいたのかを悟る。
一面の水の世界。
その上に佇んでいるのだ。
視線を落とせば月とともに己の姿ともう一人の姿が映し出されていた。
金色の長い髪を持つ男だった。
「…………そう、か」
今まで空洞であった場所にストンと何かがはまった。
男がその言葉を聞いて、口の端を持ち上げたのが見えた。
「もしお前が妖の生を受け入れるのならばその代償としてお前が大事にしているものをひとつ捨てなければならない」
「…………」
「捨てるのを拒めば後に待つのは………死だけだ」
だが維将の心の中は既に決まっていた。
心を落ち着かせるかのように目を閉じた維将は、ゆっくりと瞼を上げて夜空を見上げる。
「俺は現世に戻りたい。戻らないと……」
「…………師や友人たちがあの狐に殺されるからか?」
答えは知っているはずだというのに、なおもからかうように声が問うてくる。
「暁の王」
その言葉を口にすると、途端に男が笑うのをやめた。
「夢の中で母が俺のことをそう呼んでいた」
「…………」
「お前はもう一人の………妖としての俺か」
体が動くことを確認し、ゆっくりと振り返る。
振り返れば、そこには異形の姿をした青年が佇んでいた。
白妙の装束を纏った青年の背は高く、切れ長の目は獣の瞳を宿している。
金色の長い髪は括らず背に流し、背後には複数の尾が揺れていた。
「戻らなければ……興陵王に都が滅ぼされる」
青年は呟くように言う維将の言葉にじっと耳を傾けている。
「俺が立たなければならないのだろう? …………王として」
「…………お前は師であるあの男の元で人として生きたかったのではなかったか?」
「それは……」
まさにその通りだった。
人として生きたい。
だが人としての死を迎えてしまった今となってはもうそれは望めない。
維将は一度天を仰いだ。
「お師様なら大丈夫。俺がいなくなってもまた元通りの生活に戻るだけだから」
そうしてゆっくりと青年に視線を戻した。
「人として戻ることができないのなら、妖としてでもいい。俺は必ず戻ってやる」
「覚悟は決まったな」
青年の口元が持ち上がる。
風が二人を中心に巻き起こったのはその直後だった。
まるで青年の意思に従うように。
「己の内で流れる血にすべてを委ねろ」
その言葉に従うように目を閉じた。
そしてゆっくりと意識を落としてゆく――――
空気が振動した。
全員が見守る中、結界が大きく撓む。
博雅は青ざめて足を一歩引くほどだ。
「心配するな。この結界はそうそう壊れるものではない」
その様子を見た篁が声をかける。
「でも」
結界の撓みがますます大きくなるが、弾け飛ぶ兆候は見えなかった。
それほど結界が強力だということなのだろう。
良源は結界に手をついて中の様子を食い入るように見つめたが、結界内で吹き荒れる風に維将の姿は覆い隠され、どうなっているのかわからない。
と、暴風のようだった風が急に弱まり始めた。
「…………」
結界の中で様子を見ていた晴明と山吹が最初にそれに気付く。
伝わってくるのは強烈な圧迫感。
「これは………」
呼吸をするのも苦しい。
まるで…………。
何事か呟こうとする晴明の脳裏に、昔聞いた名が閃いた。
「暁の………」
王。
確か光照王が、子につけるとしたらそのような名が良いと言ってた。
その時、結界の中心で維将が身を起こした。
だが、その姿は既に維将ではなかった。
白妙の装束。
それに身を包んでいるのは金の長い髪を持つ青年。
立ち上がれば九つの金の尾がゆらりと揺らめく。
「…………維将…?」
結界の外でそれを見つめていた良源も、そして博雅も目を見開いて彼を見つめていた。
「王」
一人、山吹が歩み出て傍らで片膝をつく。
「王よ」
「…………」
呼びかけに応じず、青年は右手を掲げた。
次の瞬間、結界内に巨大な扉が生じる。
「っっ」
その扉が何であるのかを知っている山吹が目を剥いて止めようと立ち上がる。
「王! お待ち下さい!! まだお力が―――」
だが声が届いていないのだろう。
青年がゆっくりと扉の方へと歩いてゆく。
「王!!!」
「維将!」
結界の外から良源が叫ぶ。
それでも青年の歩みは止まらず、ついに扉の前へと立った。
右手が扉に掛けられ、押し開けられる。
ぶわりと広がったのは異世界の空気。
そこでようやく晴明は、その扉の向こう側が狐の里であることを知る。
「待て、維将!!」
慌てて駆け出した晴明は青年の前に飛び出すと両手を広げた。
だが。
「…………私たちが見えていないのか…?」
彼が正気ではないことに気付き、愕然とする。
「晴明! この結界を解け!!」
結界の外では良源が叫んでいる。
「しかし……」
この結界は妖となった維将の力が周囲に影響を及ぼさぬためのものである。
解けばどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
「え……?」
項(うなじ)に違和感が走った。
嫌な予感に突き動かされ扉を振り向くと、扉の向こうの闇がざわめき始めていた。
「っっ」
結界の外で良源もそれを感じ取り、両手を結界に押し当てると真言を唱え始めた。
この結界を壊そうというのだろうか。
見る間に両手に力が集まってくる。
「…………晴明。どいていろ」
ぽつりと呟くと、掌に集まった力を結界にぶつけた。
力と力がぶつかり合い、その強力な呪力の前に結界は弾け飛んだ。
衝撃により突風が発生し、砂埃が舞う。
「りょ……良源殿?!」
まさかこのような力技に出るとは思わなかった博雅が、腕を交差させ衝撃に耐えながら驚きの声を上げた。
その土埃の中、二つの影がぶつかり合う。
気配を探った晴明は、それが維将と良源だということが分かった。
「山吹。扉を!!」
声をかけ、二人がかりで出現した扉を消しにかかる。
そこへ篁もやってきた。
「二人だけでは骨が折れるだろう」
それに、と篁は扉を見やる。
「雑魚も片づけねばなるまい?」
背後では良源が維将を止めようとしているはずだ。
その間に扉を消さなければ、事態は悪い方向へと向かうはず。
「おい、そこでぼんやりと見ている傍観者」
博雅へと篁は声をかけた。
「ぼ、傍観者だと!!?」
「そうだ。傍観している暇があるならこちらを手伝え」
言うと扉から抜け出してきた異形を一刀のもとに斬り捨てる。
「それともその太刀は飾りか?」
「んなわけあるか!!!」
火をつけられ叫び声を上げた博雅は太刀を抜き払って駆け出した。
そして今にも山吹に襲い掛かろうとしていた異形を数匹まとめて叩き斬る。
声がした。
声は次第に近く、はっきりと聞こえてくる。
そして真っ暗だった意識も次第に鮮明になる。
「維将!!!」
師の声だ。
必死に己を呼んでいる。
お師様…………。
声を出そうにも音にならない。
それに体も己の意思に反して動くことはない。
昔、これと同じようなことがあった。
だが今回はそれとは状況も全く違う。
「目を覚ませ!!」
体が意思に反して師に攻撃を繰り出した。
それを師は辛うじてかわす。
何か手はないか……
悩んだ末にひとつだけ方法を考え出した。
今、唯一自由になるのは己の持つ力だけだ。
それを制御できぬ状態にできれば……。
維将は己の内側に意識を向け、奥底で規則正しく脈動する力を見つけた。
それに己の持つ力をぶつける。
するとどうだろう。
力は次第に暴走を始めた。
それを確認し再び外へと意識を向けると、予想通りの反応を体が示していた。
視界がぐらりと回り、地面へと倒れ伏した。
これで……大丈夫、か
苦笑を漏らすも、次第に意識が混濁してくる。
己の力を制御できぬ状態にするということは、そういうことだ。
自分で自分の首を絞めるってやり方………怒られるだろうな
その時だった。
額の辺りからゆっくりと温かい力が流れ込んでくるのがわかった。
閉じかけていた瞼を押し上げると、良源が力を送り込んでくれているのが見えた。
「…………お師…様」
ぼんやりとした中で口を開けば、言葉が漏れた。
それは良源の耳に届く。
「ようやく正気に戻ったか」
馬鹿者め。
言う声音は優しく、維将は戻ってこれたことを嬉しく思うのだった。
「それにしても……」
なおも力を送り込みながら良源は少し戸惑ったような声で問う。
「その姿は一体………」
「…………」
「…………お前が言いたくなければ言わなくていい」
体を固くしたのに気づき、そっと頭を撫でた。
維将が体を起こす。
さらりと金の髪が肩から零れ落ちるのを見、夢ではなかったのだと知った。
「お師様…………ひとつ願いを聞いていただけますか」
そう言って告げた言葉に、良源は言葉を失った――――。




