第48話「欠けゆく紅の月」
体が重い。
呼吸が苦しい。
………胸が痛い。
遠くで誰かが名を呼んでいるのが聞こえたが、もう聞こえない。
無音に耳が痛くなる。
これが……死、なのだろうか。
ぼんやりとそう思った。
力を使ったことには後悔はない。
ただ…………。
このまま死にたくは、ない―――――
満月が天高く上る頃、ようやく賀茂邸に戻ってくることができた。
門扉をくぐった先にいた者の顔を見、博雅が驚きの声を上げる。
「お前は……」
「お久しゅうございます」
軽く頭を下げるにとどまるのは山吹だった。
「と言いましても十日と少しばかり経っただけではございますが」
山吹はそう言うと今度は晴明へと視線を向ける。
「安倍晴明様……でございますね」
「…………」
「御顔だちが在りし日の葛葉様によく似ておられますね」
にこりと笑みを浮かべるも、その後ろに篁を見つけて表情を引き締めた。
「忠行様にお願いして準備は既に整っております」
「そうか」
ご苦労。
そうとだけ言うと、そのまま庭の方へと向かう篁。
その背を見送った山吹は、良源を振り返る。
「こちらへ」
促し、ゆっくりと歩き出す。
その後を三人はついてゆくが、庭へと回ったその先にあった光景を見て眉根を寄せた。
「これは何だ……?」
我知らず呟きを漏らす良源。
「良源様。その方をこちらへ」
複雑な陣が地面に描かれていた。
その中央で山吹が良源を呼ぶ。
「…………いったい維将をどうするつもりだ」
「妖と人との間に生まれた者は親の言霊を受けて育つ」
代わりに答えたのは陣の傍に立っていた篁だった。
「人として生きろと言霊を受ければ人として、妖として生きろと言霊を受ければ妖として子は育つ」
そこの晴明のようにな。
突然、そう言われた晴明は僅かに反応を示したが、それでも口を開くことはなかった。
「だがその言霊を受けぬまま育った子は、どちらに転ぶかわからん。特に今夜は月が蝕する日だからな」
篁はそう言って上空を見上げた。
視線の先にある満月はまだ欠けることなく夜空にかかっている。
「篁殿。その話とこの陣との接点が見当たらないが」
陣…おそらくは何らかの結界なのだろう。
だが複雑な手法で描かれた結界であることは見ればわかる。
なぜそこまで複雑にしなければならないのか、さきほどの話とつながってこないのだ。
「人として育った半妖が人の生を終えて妖に転じた時、凄まじい妖力が放たれ…それによって都が滅びたことがあった……そう言えば納得するか?」
「都が………?」
ごくり、と博雅の咽喉が鳴る。
「信じられんだろうが、そういったことも昔、大陸ではあったそうだ」
「だが、その話は昔の話で、維将とは―――」
「関わりがない、と?」
言い募る良源に、篁が言葉をかぶせる。
「万が一そのような事態が今、目の前で起こったとして、お前はすべての責任を負うことができるのか?」
「…………」
「篁様」
山吹が声をかけた。
「間もなく蝕が始まります。お急ぎください」
「良源」
篁が一歩にじり寄る。
「今すぐにその子供を手放さねば、ここで私がお前を斬る」
その言葉を裏付けるように篁の手が太刀へと伸び、鯉口を切った。
「良源殿。維将を渡してください」
近づいてきたのは晴明だった。
「万が一の場合もあります。ここは彼らに任せた方がいいと私は思います」
「…………晴明」
お前も何を。
言いかけた良源だったが、周囲の異変に気付いた。
風の音が止んでいたのだ。
耳の痛いほどの静寂。
「良源殿、失礼します」
晴明は素早く良源の腕の中から維将を奪うと結界の中へと駆けこんだ。
反応が一瞬遅れた良源であったが、すぐにその後を追う。
だが結界は良源を弾き飛ばした。
「な?!」
「この結界は狐の血が流れている者にしかくぐることはできん」
その間にも晴明は山吹の元に維将を運び、山吹と数語言葉を交わしたのち、その場に維将を寝かせた。
青白い光が結界を取り囲み、その全容が次第にはっきりしてきた。
「ここまでしなければ妖気を抑え切れんというのか……?」
規模の大きさ、そしてそれに込められた力の強さに良源は目を瞠る。
「良源殿!!」
それまで空を見上げていた博雅が声を上げた。
咄嗟に見上げれば、それまで満月であった月が徐々に欠け始めていた。
先ほどよりも赤味が増しているのは気のせいだろうか。
「月が……紅く染まって―――」




