第35話「心」
その維将の視線がゆっくりと下へ向けられる。
「…………こ、れ……」
両手を見れば金気臭く粘ついたもので濡れており、それどころか頭から足の先までが紅に染まっていた。
「っ」
それが血だと認識した途端、猛烈な吐き気が襲ってくる。
両手で口元を押えて蹲る。
「大丈夫か?!」
慌てて博雅が駆け寄って背を撫でさすってやった。
「…………小童よ」
太刀を掻き消し、維将を見つめる伊吹が声をかけた。
「お前の体の奥底に眠る力はいわば両刃(もろは)の剣だ」
「伊吹?」
維将の背をさすりながら胡乱げな表情で博雅が伊吹を見やったが、それを無視しなおも伊吹は続ける。
「今のままでは力に飲まれ、己が大切に思うておる者にまで危害を及ぼすやもしれんぞ」
「…え……?」
耐えがたいほどの吐き気を堪えながら、涙目で維将が顔を上げる。
「全てを守りたいのなら……己の力を制御する術(すべ)を見つけよ。それが唯一の方法だ」
「伊吹。それってどういうことだ?」
博雅が立ち上がった。
「昨晩、お前は維将を見て何事か言いかけたよな。お前……何か知っているんじゃないのか?」
「…………」
「答えろよ、伊吹」
「お前には関わりのないことだ」
そうはっきりと言った伊吹は、己を見つめる維将へと改めて見据える。
「心して聞け。お前の体からはかすかに呪詛の匂いがしておる」
「………呪詛…」
「お前が力を制御する術を見つけなければ呪詛はその身を喰らい尽くし……死に至るだろう」
「おい!!」
無視されたのがよほど気に障ったのか、博雅は伊吹に詰め寄って胸倉を掴みあげた。
「伊吹、お前!!」
「なんだ? わしは事実を述べたまで」
掴んでいる手へと右手を伸ばし、強引に引き離す。
「人の子が入る領域ではないことはお前も重々承知であろう?」
「維将だって人の子だろ!」
「…………過ぎた力を持つ者がすべて人の子であるわけがなかろう。安倍晴明もそのうちの一人だ」
「晴明の話をしてるんじゃない!」
げほげほと咳き込む維将は二人の会話に耳を傾けていた。
「俺って本当に人の子なんでしょうか…?」
ぽつりと呟きを漏らす。
二人の会話が途絶え、二対の視線が維将へと向けられる。
「親の顔も知らないし、それに変な力だってあるし……髪だって人と違うし」
「それは―――」
「良源とやらはお前に何と言っておる?」
伊吹がそう問う。
「お前は妖の子だと言っておるのか?」
「違います!!」
がばりと顔を上げ、叫んだ。
「俺は人の子だと! 誰が何と言おうと俺は人の子なんだとおっしゃいました!!」
「ならば今はそれでよかろう」
途端に伊吹は笑みを浮かべてみせる。
「お前は人の子だ。そう強く思っていればよい」
「え…………」
「伊吹……お前…」
伊吹の謀(はかりごと)にようやく気付いた博雅があきれた表情で吐息をついた。
「冗談もほどほどにしろよな」
「え?」
「小童。どうだ、もう吐き気はなくなっただろう?」
そう問われ、維将はようやくそのことに気付いた。
耐えがたい吐き気がいつの間にか収まっていることに、だ。
「あ」
「気の持ちようで何事も沈んだり浮かんだりする。覚えておいて損はないぞ」
そう言って踵を返した。
「ここはもう落ち着いた。戻って酒でも飲むか」
「おい、昼間っから酒かよ」
ツッコミを入れるも、本人は気にしていないらしい。
それを維将はぼんやりと見つめていると、傍らに博雅が戻ってきた。
「大丈夫か?」
「え、あ、はい」
立ち上がりながら、傍らで血の海に沈んでいる妖を見やった。
胸元に穿(うが)たれた穴。
これを自分がしたのだという認識はあった。
だが。
本当に人の子がこのような真似をすることが果たしてできるだろうか。
「どうした?」
博雅に声をかけられ、ハッと我に返る。
振り返れば、そこには心配そうな表情で己を見つめる博雅の姿があった。
「いえ、なんでもありません」
「だったらいいんだが」
気を遣ってくれているのだろう。
それに感謝しながら、維将はゆっくりと歩き出した。




