第32話「記」
「維将は叡山で女の腕に抱かれていたのをまだ駆け出しの僧だった私が見つけたのだ」
紙片を見つめながらそう良源が告げた。
「連れ帰って介抱はしたが、女の方は息を引き取った。看取ったのは師だったがな」
「偶然同じ名前ってことは………」
博雅が言うが、良源は首を横に振る。
「その名前を持つ女はそうそういはしないだろう」
「確かに」
紙片を手渡された伊吹が頷く。
「いるとすればそれ相応の身分を持つ女官か……あるいは」
含みのある言い方に、博雅は振り返った。
「あるいはなんだってんだよ」
「……いや…。それよりもこれは最近書かれたようだな」
紙片を軽く振る。
「もしやとは思うが、晴明とやらが書いたものではないか?」
「筆跡はあれの師である忠行殿が詳しいだろう」
それを受け取り、良源が立ち上がった。
「忠行殿に聞いてくる」
「我らはここでこれを先に読んでおる」
伊吹は博雅の手にある書物を指差す。
「そうしておいてくれ」
そうして良源は坊を出て行った。
「封印してあるものを勝手に読んでもいいのかよ」
肩越しに伊吹を見やりながら博雅が声をかける。
「さてな。だが、わしが見る限りでは大丈夫だと思うが」
どれ、とその手から書物を抜き取って、最初の頁を繰る。
「おい」
「…………この書付は我が一族の記録とし、不測の事態が生じた時には記録者自らの手によって然るべき者に届けることとする」
その頁に書かれてあった文章を読み上げた伊吹は軽く眉根を寄せた。
「狐の封印がかけてあったことから書物の持ち主は狐だが……この一族は滅んだ、ということか?」
「然るべき者にっていうことは晴明がそうなのか?」
博雅が問うが、当事者ではない伊吹でさえもその文章が理解できなかった。
「やはりこれは晴明とやらが戻って来ぬことには解決せんな」
文章の意味を理解することを諦め、ぱらぱらと頁を繰る。
「なになに……興陵王の言動に対しては当代荼枳尼の君も気にはしておられるが、未だ若い身であることからしばらく様子を見るとのこと。だが我が王はそのお言葉に懸念を示されていた」
「…………興陵王って荼枳尼の君だよな、確か。でも今の記述って……」
「ああ。おそらくは先代荼枳尼の君の記述だろう。先ごろ代替わりをしたと聞いたからな」
先ごろとは言うが、おそらくはかなり前なのだろうことは理解できた。
博雅はつくづく思う。
妖や神にとっての時間感覚は人間が感じる時間感覚とは全く違っているのだ、と。
「妖仲間から噂を耳にしたことがある。代替わりに際してきな臭い噂があった、とな」
「当代荼枳尼の君の代替わりの話か?」
忠行の元から戻ってきたのだろう、妻戸を開けて良源が入ってきた。
「ああ、そうだ」
「昨年だったか。賀茂別雷命からそのような話を聞いた覚えがある」
維将の枕元に座り、二人へと視線を向けた。
「この紙片の筆跡だが……晴明の筆跡ではないそうだ」
「え? じゃあ……」
「その書物自体古いものだが、紙片についてはおそらく一度誰かが開いた時に差し入れられたものだろう。そして封印を再度かけた」
そして良源は今一度紙片へと視線を落とす。
「晴明が持っていたのは、あれが狐の血筋で、この書物の持ち主と関わりがあるからだろう」
「…………」
それを聞きながら伊吹は再び頁を繰る。
「我が王はよく人の世へとお出かけになる。それが興陵王にはお気に召さないらしい……」
ぺらぺらと頁をめくってはめぼしい箇所を読み上げていく伊吹だったが、しばらくして突然読むのをやめた。
「どうした?」
ひょいと手元の書物を覗き込む博雅。
「なになに………我が王は都を去った人の男を追うと告げた。その男は人ではあるが王の正体を知っても動じることはなく、それ以上に慈しみの心をもって接しているという。この男ならば王は幸せを手にすることができるだろう、と我らは結論づけ、王とともに都を出ることとなった」
「…………その後のことは有名な話だったから知っておる。その者は人の男との間に子をもうけたが、それを知った興陵王が手勢をだし、その一族を滅ぼしたそうだ」
「滅ぼしたって……ひどい話だな」
博雅が眉根を寄せながらそう呟く。
「興陵王は人と接するのを嫌がる性質なのだろうが……実の姉を一族ごと滅ぼすというのは解せん」
「ひとつ聞くが」
良源が伊吹へと問う。
「荼枳尼天の一族はいくつもの狐の一族が集まってできた種族と聞いたことがあるが……滅ぼされた一族はどういった者たちだったんだ?」
「…………記述にあるとおり、人と接することに何の抵抗もない一族なのだろう。これはわしの推測だがな」
パタン、と書物を閉じる。
「それはともかくとして、この書物に書かれている一族はそうやって滅ぼされた」
「その書物と紙片、それに晴明がどう関わってくるかだが……やはり本人の帰邸を待たなければならんか」
その晴明は一体いつ戻ってくるのか定かではない。
そして……。
ちらりと良源は眠る維将を見やった。
「維将を正気に戻させなければ、な」




