閑話休題「予兆」
気付けば今夜は朔だった。
暗い闇夜の中、しみじみとこの十日間を思い出しながら博雅は都への道を急いでいた。
前方には烏に変化した青葉、そして傍らには青年姿の伊吹が付き添っている。
青葉は暗闇でも視界が利くため博雅を導き、伊吹は博雅へと譲った太刀の仕上がり具合を見るために下山することになったのだ。
『おい、もう少しで街道に出るぞ』
青葉がそう告げ、しばらくして見覚えのある道へと出てきた。
ここで再度の決意を固めて愛宕山へと登っていったのが十日と少し前。
そして何とか太刀を手に入れた。
『とりあえず俺はここまでだ』
ばさりと音を立てて近くの木の枝にとまった青葉が告げた。
『何かあったら俺を呼べ。まあ、伊吹様がついている分には問題ないいだろうがな』
「そうだな」
博雅はそう答え、傍らの伊吹は無言で頷く。
青葉と別れ、伊吹とともに都へと入った博雅はその足で忠行邸へと向かった。
良源と維将の様子が気がかりだったからだ。
開け放たれていた門をくぐり、邸の人間を捜す。
「博雅殿か?」
奥へ進もうとしたその時、背後から声がかけられた。
肩越しに振り返ると、そこには忠行がいた。
「やはり博雅殿だったか。良源殿からは話があったが……」
と、忠行の声が途中で途切れる。
その視線が己とは別の方向へと向いているのに気付き、軽く吐息をつく。
「この者は愛宕山の妖で伊吹という。太刀を鍛えてもらった」
「あまり長居はせぬゆえ心配は無用ぞ」
恐らく忠行は、己が妖を連れてきたのに驚いているのだろう。
そう予測し告げたところ、やはり予想にたがわぬ反応を見せた。
「それで、良源殿と維将は?」
「それならば……」
「変な気配がすると思って来てみれば、博雅殿が妖を連れ込んでいるとはな」
なんともまあ珍しいことだ。
そんな呟きと共に良源が姿を現した。
「妖殿。来て早々に申し訳ないのだが、しばらく妖気を抑えてくれないか」
錫杖を手にしていることから、妖がこの邸に乗り込んできたと思って退治しようと出てきたのだろうことが窺われた。
だが、なぜ力を抑えろなどと言うのだろうか。
疑問に思った博雅が良源へ問おうとした。
「お師様………」
廊の奥からかすかな声が聞こえた。
その声に二人はそれぞれ違った反応を示した。
「また起きてきたのか。早く眠れと言っただろうが」
良源はそう言って奥へと戻り、忠行は緊張した面持ちでその様子を見守っていた。
「忠行殿?」
「…………話は中で」
それだけ言うと、忠行は二人の傍らを通って己の坊へと戻っていく。
二人は互いに顔を見合わせるも、その言に従って歩き出した。
忠行の坊に入ると、そこかしこに巻書が散らばっているのが見えた。
その向こうの文机の前で忠行はゆっくりと腰を下ろす。
「忠行殿。維将に何かあったのか?」
彼が何も言わないのを不審に思いながら博雅は円座(わろうだ)へと座り、そう単刀直入に尋ねる。
「この十日間になにかあったんだろう? そうじゃなければ――――」
「それはこの私から話そう」
良源が妻戸を開けて入ってくる。
それを見るなり、忠行が問いかけた。
「良源殿。維将は?」
「符を張って強制的に眠らせた。符が破られん限り朝までは起きてこんだろう」
そして適当な場所へと座ると、博雅と伊吹へと視線を向ける。
「事の発端は五日前のことだ」
そう前置きして良源は話し始めた。
「私と維将はとある上つ方の命を受けて妖を追っていた」
洛外で暴れている妖がいる。
それを封じてほしい。
そんな命が下ったのは二人が邸に戻ってきてすぐのことだった。
良源は維将が疲れているのに気づいていたため一人で向かおうとしたが、維将はそれを聞かずについてきてしまった。
仕方なく無理はするなと厳命し、洛外……伏見へと向かった。
「お師様」
いち早く妖の気配に気付いた維将が前を歩いていた良源に声をかける。
それに無言で頷き返した良源。
錫杖を構え、その気配の元へと声をかけた。
「お前、この辺りに巣食う妖だな」
視線の先には一人の女がいた。
女は木の根元で体を丸めて震えていたが、その正体を暴かれた瞬間に常人とは思えぬほどの脚力を見せ二人の間合いから距離を取った。
ふわりと降り立ったその姿はまさしく美女。
だが瞳だけは人のそれとは違った。
「人に化けることができるのなら、人の言葉を解すことができるだろう? なぜこの辺りの人間に害をなした」
「何を言うかと思えば。我ら一族は古来よりこの地に住まう者だ。その権利を主張して何が悪い!」
女は目尻を上げてそう主張した。
「それにこの地には裏切り者の末裔がいる。王はその者を討った者に褒美を与えると約束してくれた!!」
だからこその行動だ。
「…………裏切り者…?」
妖の正体はわからない。
だが、王という者の命で暴れているのは分かった。
「権利は主張しても構わん。だが、人間には危害を加えるな……というのは無理だろうな」
ふう、と溜息をつきながら良源は今一度錫杖を握り直した。
そして一気に間を詰める。
「っ」
女は咄嗟に身を捻って攻撃をかわし、両手に持てるだけの小さい刃物を取り出して反撃を始める。
「ちっ」
物的な攻撃だとは思いもよらず、慌てて錫杖でその刃物を叩き落とすが幾本かは叩き落とされずに良源の肩や足に突き刺さった。
「人間は脆い。そして臆病なものだ。その上に立つのは我らがふさわしい」
体勢を崩してその場に跪いた良源の前に女が立った。
その表情が喜悦に彩られている。
「その我らに楯突く人間は………」
その手に先ほどの小さい刃物が現れる。
それを振りかざし、女は叫んだ。
「抹殺―――」
だがその言葉は最後まで出ることはなかった。
女は不思議そうに己の腹を見下ろす。
そこにはいつの間に出てきたのか、一本の腕が生えていた。
滴るのは紅い、血。
「お……ま、え…」
己の背後にいるであろう者に女は口を開き、そしてその場に崩れ落ちた。
直後に姿が変化する。
黒っぽい毛並みの歳経た古狐だった。
「…………維将…」
その古狐を仕留めたのは他ならぬ維将。
維将はその右手を血で汚しつつ、古狐の遺体をぼんやりとした表情で見つめていた。
その視線が血で染めた己の腕に移る。
「……妖の、血…も……」
呟きが良源の耳に届いた。
「綺麗な紅い血……なんですね」
「お前何を……」
そんな良源の言葉も聞いていないのか、維将は小さく笑みを浮かべた。
「お師様……妖の血って、甘いんですよ」
知っていましたか?
そう言いながら濡れそぼった腕を口元に持ってゆき……舐め取った。
「よせ」
良源はそれ以上の行為をやめさせようと、止血すらしていない体を動かして維将の腕を取った。
「血は甘いものではない。それに妖によってはその血に毒を持っている者もいる」
「………………」
だがやはり維将はその言葉も聞かず、今度は良源の肩の傷へと視線を向けた。
「……お師様の血も………甘いんでしょうか…?」
そう言いながら手を伸ばそうとする。
このままではいけない、と感じた良源は意を決して維将に当て身を食らわせる。
そのまま意識を失って倒れ込む維将を抱き留め、その場に座り込んだ。
維将の身に何が起こったのかさっぱりだったが、何かとてつもなく嫌な予感がしたことは確かだった。
「それからだ。昼間は一応私が見ている分には変わりはないが、ときおり夜になると一人で邸の外へ出るようになった」
忠行の弟子が淹れてきた白湯を一口飲んだ良源が締めくくる。
博雅は白湯を一気に飲み干すと、吐息をついた。
「どうして良源殿が伊吹に妖気を抑えろって言ったのか、ようやく合点がいった」
「………大抵の妖の血は人間にとって猛毒に違いあるまい。だが…そやつは血を舐めてもどうもなかったのか?」
それまで眉根を寄せてじっと聞きに徹していた伊吹が疑問を口にした。
「どういうことだ?」
「良源……といったか。お前は妖の血を口にして狂った人間を見たことはあるか?」
良源を名指しし、問う。
「……いや。昔、兄弟子や師には聞いたことがあったが、直接見たことはない」
「そうか。………ただの人間であればその猛毒に体が耐え切れずにすぐさま死に至る。だが稀にそうでない者もいる」
伊吹は一度話を切って白湯を一口飲んだ。
「遠い昔にわしが友と呼んだ者もその中の一人だった」
視線を上げて、昔を思い出すように語り始める。
「ある時、そやつは妖の血を浴びた。その際に口にしてしまったのだろう」
わしが戻ったときにはもう手遅れで……。
視線を落とした先には己の手。
今思い出せば…己の手を血に染めたのは、その時が最初だった。
「武人だったが故に妖の血に僅かながら勝ってしまったのだろう」
それがそやつの命取りとなった。
「お言葉だが伊吹殿。私の弟子は武人ではない。ただの人の子だ」
良源が言う。
「ただの人の子がなにゆえそこまで妖の血を求めるようになった。すぐに人の血も欲するようになるぞ」
「おい、伊吹」
博雅が制するように伊吹の肩を掴み、そこでようやく伊吹は我に返った。
「すまん……」
「それよりも忠行殿。晴明は戻ってきてるか?」
話を変えるべく博雅は忠行へと問うた。
「いや、まだ戻ってはおらんよ。ひと月は経つというのに式のひとつも送ってこんとは…」
「晴明は一体なんの依頼を受けてるんだ?」
良源へと視線を向けるも、否という返答だった。
その時だ。
奥から聞き慣れた声が突如として聞こえてきたのは。
「あれならば今、狐の里にいる」
伊吹にとっては聞きたくない声だった。
灯明が届かぬ闇の中から男が一人姿を現した。
小野篁だった。
「篁殿、それは真実ですかな?」
深々と頭を下げた忠行が問う。
「私が嘘を告げて何の利がある? あれは今、依頼主の元にいる」
「…………狐の里…ということは依頼主は狐ですか?」
「まあそういうことになるだろう」
篁はそう言ってどっかりと腰を下ろした。
そして坊内の面々を見やり、
「お前もとうとう都に降りてきたのか、伊吹」
面白そうに声をかけた。
かけられた本人は次第に不機嫌になってゆく。
「それよりも篁殿。あなたなら狐の里で起こっていることを把握していると思われるが…どうか?」
良源が場の雰囲気を察し、すぐさま問いかけた。
「これでも私は冥府の官吏をしているからな。ある程度のことは把握しているつもりだ」
「ならば答えていただきたい。晴明は都の災いの種になるか?」
篁の性質上、単刀直入に問わなければはぐらかされる確率が高い。
それを危惧しての問いだった。
しばし考え込む篁。
そして告げた言葉は――――。




