第29話「水神」
斬り上げた直後に、碧(あお)色をした液体が博雅の顔に降りかかった。
「っ」
袖をひるがえしてそれをよけようとしたが一瞬遅く、飛沫が頬に飛ぶ。
「…………流石はわしが鍛えた太刀だ。斬れ味も鋭いのう」
見やると伊吹の左腕からは先ほど散った碧色のものが地面へと滴り落ちている。
碧色の……それは彼の血だった。
「驚いたか? 他の妖と違ってわしは己がどのような妖か知らん」
己の太刀を地面に突き刺し、地へと滴り落ちる己の血を無感動な表情で見下ろした伊吹が言った。
「だが……そんなわしでも慕ってくれる妖たちがおるのだ」
「……青葉から聞いて知っている」
そして青葉はそんな伊吹を慕っているのだ。
「話はこれくらいにして、あと一勝負。これで最後にするぞ」
そう言って再び伊吹は太刀を地面から抜き構えた。
いつしか左腕からの出血もなくなり、傷口が塞がりかけている。
これも彼の正体が“あれ”だからだろうか。
ふとそんな疑問が脳裏をよぎった。
その時だった。
頭の芯が痺れ、視界が一瞬歪んで見えた。
「え?」
こしこしと目をこするが、異変はそれきりだった。
「どうした?」
博雅の突然の行動に疑問を覚えた伊吹が問う。
「なんぞ変なことでも起こったか?」
「…………いや……なんでもない」
首をひねりながらも太刀を構えた。
二人はお互いの間合いを見極めながらもじりじりとにじり寄ってゆく。
次の瞬間、二人同時に相手へと襲い掛かった。
ぎいん、と高い金属音が鳴り、太刀同士が激しくぶつかり合う。
そしてそのまま鍔競り合う。
「人間にしてはなかなか骨のある奴だのう。久々に倒し甲斐のある奴だ」
「褒めるならそろそろ降参しろ」
一応伊吹は褒めているのだろうが、こちらはそれどころではない。
博雅は持てる力をすべて握りしめる太刀に込めた。
「おっと」
均衡が崩れ、伊吹がたたらを踏む。
その一瞬の隙を逃さず、博雅は渾身の一撃を打ち込んだ。
『お前は本当にそれでいいのか?』
耳元で低く、それでいて憂いを秘めた女の声がかすかに聴覚を揺らす。
「え……?」
それが自分に投げかけられた問いなのかわからなかったが、少なくともそれが幻聴だということには気付いていた。
だが。
一瞬のうちに周囲の景色が変化した。
ずしゃ、と太刀が目標を見失って地面に食い込む。
「おい……」
今まで目の前にいた伊吹、そしてその戦いを見守っていた青葉すらもその姿を消していた。
「伊吹! 青葉!!」
名を呼びながら辺りを見回すと、そこは今までいた愛宕の御堂ではなかった。
注連縄を配された巨石になんとなく見覚えがあった。
「…………ここは…」
少なくとも愛宕ではないのは確かだ。
「どういうことだ?」
わけがわからず、ただ茫然と佇む博雅の背後に何者かが立った。
一瞬前まで気配すらなかった場所。
太刀を握り、振り返りざまに薙ぎ払う。
その斬撃をその者は指一本で受け止めた。
「人間がこの奥宮に何ぞ用か」
「っ」
まさか受け止められるとは思わなかった博雅は驚き、そしてその相手を見て二度驚いた。
そこにいたのは先ほどまで太刀を交わしていた伊吹だったからだ。
「い……」
伊吹、と呼ぼうとして、彼の気配が全く違っていることにようやく気付く。
今の彼から滲み出ているのは神気。
「…………どういうことだ?」
「それはこちらが聞きたい。ここはお前たち人間が立ち入ってよい場所ではない。そう約定にて交わしたはずだが…、よもや忘れたわけではあるまいな?」
「闇の。その者は我らと約定を交わした者の末裔(すえ)ではないぞ」
伊吹の声に被さるようにして女の声が上より降ってきた。
思わず見上げると、巨石の上にどうやって登ったのか、女が一人こちらを面白そうに見下ろしているのが見えた。
「すまんな、人間。闇のはどうも人間というものをよくは思ってはおらんようだ」
女はそう言うと、飛び降りた。
だがまるで鳥のように重さを感じさせず、ゆっくりと二人の前へと降り立つ。
「ここは黎明より神域であった故な」
「じゃあここは…………」
「貴船。我ら水神が守護する地だ」
伊吹はそうはっきりと告げた。
「…………水神…」
貴船の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。
そしてその対とされるのが闇龗神(くらおかみのかみ)。
「じゃあ……」
と伊吹の姿をした神へと視線を向ける。
「もしかしてあんたが闇龗神?」
問われた彼の口元がゆるゆると持ち上がった。




