表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁闇の月  作者: 平 和泉
2/56

第1話「良源、赤子を育てる」

本編の導入部分です。

延長五(927)年晩秋のこと。

ここ比叡山の山中では、日々僧侶たちが各々修行を行っていた。

仏門に入って四年目である良源もその例に漏れず、兄弟子たちとともに修行の日々を送っていた。

秋も深まり、次第に寒さが増してくるある日のこと。

良源は兄弟子二人と共に日も昇らぬうちから近江坂本(現在の大津市坂本)へと降り、師僧や兄弟子たちが待つ僧坊への帰路の途中であった。

その道の途中で、行き倒れの女を見つけた。


「峰生(ほうじょう)様。行き倒れの女子がおります」


兄弟子の一人に声をかけ、良源は真っ先に女に駆け寄る。

抱き起そうとして何かに気付き、微妙な顔つきで今一度兄弟子へと振り返る。

良源を追ってきた峰生はその視線に気付き、何事かと尋ねると、


「この方の腕の中に……赤子が…」


このような時期になぜ、という疑問でいっぱいなのであろう、良源が答えた。

言葉のとおりに女の腕の中には赤子がいた。

と、赤子がもぞもぞと動く。


「とにかく僧坊へ」


さすがに慌てた峰生が傍らで次第を見守っていた僧へと視線を向ける。


「良雲(りょううん)。お前は先に僧坊に戻り、事の次第をお師様にお伝えしてくれ」

「承知した」


すぐさま良雲と呼ばれた僧が僧坊へ向かって駆け出した。

山道に慣れた修行僧である彼であれば、すぐに師へ連絡がいくだろう。

良雲を見送った峰生は赤子を良源に抱かせ、己は女を背負って立ち上がった。





二人が僧坊へと戻ると既に師が弟子たちに指示を出し、手当ての準備を整えていた。

良雲は女を寝かせ、気付け薬を別の僧が飲ませる。

しばらくして女の意識が戻った。


「気付かれたようですな」


枕元に座った師が声をかける。

女はぼんやりと天井裏の梁を見つめていたが、ようやく師へと視線を向けた。

何か言いたげな目に、師は安心させるようににこやかにほほ笑み、次いで弟子たちに隣の坊に控えているように申し伝えた。

弟子たちはその師の様子に、女の命が残り僅かであることを知り、意を受け、赤子の世話をする良源だけを置いて次々に隣の坊へと出て行った。


「良源」

「はい、お師様」


どうしようかと迷っていた良源は師の呼びかけに、その場で背筋を伸ばす。


「お前はそこにおるように」

「わ、わかりました」


良源がいる場所は、二人が話していてもあまり聞こえない距離であった。

そして腕の中には赤子がいる。

隣の僧坊は火を入れていたとしてもまだ冷えているのだろうことから、赤子にはつらい環境に違いない。

それを考えての師の言葉だったのだろう。

赤子を抱えこむようにして再び座す。

あいにくここからでは二人の様子が衝立を挟んでいて見えないが、何事かを話していることだけは分かった。

赤子のことを師に頼んでいるのだろう。

そう思った。


てしてし


突然、頬に柔らかく温かい感触が触れた。

視線を落とすと、赤子が自分をじっと見上げていた。

触れたのは小さな紅葉のような手なのだろう。


「…………」


赤子をまじまじと見つめたことがなかった良源は改めて腕の中の赤子を見下ろす。

髪は柔らかいが、一般的な緑がかった黒ではなく夕陽のような紅い色味を帯びている。

また瞳は片方の色が違うような気がするが、そこまではっきりとは分からない。

赤子は自分を見下ろしている良源に気付き、にこ、と笑った。

つられて良源も笑みを浮かべる。


「気に入られたようだの、良源」


いつしか会話も終わっていたのだろう。

師が衝立の向こうから出てきた。


「あ、お師様」


良源が何を聞きたいのか悟り、師は手で制す。


「いましがた息を引き取られた」

「…………」


その言葉に落胆を隠せず、視線を落とした。

傍らに座った師は赤子の頭を撫で、愛弟子を見やった。


「この赤子の名は維将(これまさ)というそうだ。以後、お前が面倒を見なさい」

「はい…………え…?」


頷きかけ、顔を上げた。

視線の先の師はやはり柔らかな笑みを浮かべている。


「これも修行のうち。よくよく精進いたせ」


しばしの沈黙ののち、僧坊に良源の悲痛な声が響き渡った――――





それから時は経ち………


「良源様! ……お師様!」


比叡から都へと降りる山道。

紅味を帯びた黒髪を一つに束ね背に流した少年が、数名の僧を引き連れて歩く青年…良源に声をかける。


「維将か。どうした?」


振り返る良源は、息を切らせて駆けてきた少年…維将の手に握られていたものを見て目を丸くする。


「峰生様が呆れておられましたよ。大お師様と同じでお師様はひとつ抜けておられ………とと」


慌てて口を押える維将。

その頭に手を乗せ、良源はぽんぽんと軽く叩く。


「あ~……すまんすまん」


苦笑を漏らした良源に、周囲の緊張も和らいだ。


「…………あの……お師様」


荷を渡した維将が、何事か言いたげに良源を見上げてくる。


「本当に俺も………行っていいんですか?」

「…………峰生殿に何か言われたな?」


良源は僧たちに先に行ってくれと言い、傍らの石へと腰かけた。

僧たちが先に進み、その姿が見えなくなる。


「峰生殿がお前に何を言ったのかわからんが、お前はそれでいいのか?」

「……いいえ」

「修行僧たちの心ない言葉に一人で耐えられるか?」

「…………いいえ」

「私のいない叡山で一人、修行したいか?」

「いいえ!」

「ならばお前がとるのはひとつ。私と一緒に都に来ることだ」


答えを出した良源は、立ち上がる。

剃髪をせずに伸ばしたままの髪がふわりと風になびいた。


「日がある内に都に着かねばならんからな、急ぐぞ」

「あ………はい」


維将は先に歩き出した師を追って駆け出した。





それは天慶二(939)年、長い冬が押し迫る晩秋のことであった。

よければ感想をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ