第16話「書物」
「主上(おかみ)」
御簾越しにそっと遠慮がちにかけられた声。
男は目の前の水盤に落としていた視線を、ついと御簾向こうの声の主へと向けた。
「何か面白いものを見つけられましたか?」
「先日あちらで出会った人の子と言ったら笑うか?」
そう呟くように答えると、御簾の外にいる人物が苦笑を漏らした。
「これは失礼」
「…………式部」
再び水盤へと視線を落とした男は、命を下した。
「手段は問わぬ。あの男を我が元へ」
「御意」
深々と頭を下げ、すぐさまその場を立ち去る。
衣擦れの音が遠くなるのを聞きながら、男は視線を梁へと上げた。
そこには闇に溶け込むように佇む烏の姿があった。
「お前もあれを手伝ってやれ」
そう告げると、烏は意を解したように翼を広げた。
朝の気配に気付き、維将は目を覚ました。
むくりと起き上がって隣を見ると、そこには師の寝姿があった。
「…………」
昨晩のことを思い出し、わずかに顔を曇らせる。
外の空気でも吸って気を紛らわそうと思い、褥を離れた。
外に出ると、ようやく空が白んできた頃だった。
晩秋の冷え切った空気を吸い、そして吐き出す。
その時、忠行が自室から出てきたのに気付き、頭を下げる。
「おはようございます」
「おお、早いの」
身なりをきちっと整えていることから、どうやら本日は出仕するようだ。
都人たちの朝は早いということを改めて知った維将だった。
「あの………忠行様」
言いにくそうに声音が小さくなる。
「俺…………晴明様に…」
「良源殿から話は聞いた。大切なものを誰でも触れることができる場所に置いておく者が悪い。お前が気に病むことはない」
「…………」
こくりと頷いた。
納得できたようだと判断し、忠行は歩き出した。
「午(ひる)までには戻る、と良源殿にな」
「わかりました」
忠行を見送った。
少し冷えたな、と体をさすりながら局へと戻ると、良源が体を起こすところだった。
「おはようございます、お師様」
「ん………ああ」
ふああ、と欠伸をかみ殺し、伸びた髪を掻き上げた良源が、ちらりと外へと視線をやった。
「忠行殿は出仕か」
「はい。午までには戻られるとのことです」
「そうか。………ならば私も出かけるか」
腰を上げた良源。
「少し気になることがある。晴明を連れて行くから、お前は留守番だ」
「…………わかりました」
「その前に腹ごしらえだ」
着替えを済ませ、すぐに外へと出てゆく。
「維将。お前も朝餉はまだなのだろう?」
師の声がし、維将は慌ててそのあとを追って出た。
朝餉を済ませ、良源は外出を渋る晴明を引きずって出かけてしまった。
既に他の僧たちも出かけ、邸には維将一人きり。
何もすることなく、ぼんやりと階で庭を眺めるだけ。
そこへ、雑色(ぞうしき)が現れ、博雅が訪ねてきていると伝えた。
「博雅様。どうしたんですか?」
門のところで待っていた博雅へと声をかけた。
「忠行様もお師様も、ましてや晴明様もいらっしゃいませんよ」
「お前でも大丈夫な用事だ」
その言葉に、維将は前回のことを思い出した。
僅かに身構えた維将に、博雅は笑った。
「大丈夫だ。前のような用事じゃない」
「…………ではどんな用事なんですか?」
維将は警戒を解き、問う。
「俺の邸の蔵の整理だ」
「え………?」
「実はな……ここだけの話、人手が足りないんだ」
ぼそりと呟くように話す。
「蔵の整理なら、良源殿も許すだろう?」
「………そう、ですね…」
判りました。
そう告げ、維将は踵を返した。
「ちょっと待っててください。伝えてきますから」
邸の者に言っておけば、良源か忠行が戻ってきたときにすぐに伝わるだろう。
それに、と維将は考える。
ここにいても手持無沙汰なだけだし、と。
博雅の邸は思っていたよりも広大だった。
呆気にとられる維将に、その表情がツボにはまったのか、博雅は笑いをこらえている。
「蔵はこっちだ」
手招きして連れて行った先の蔵。
これもまた大きかった。
「ここをこれから数人の家人で整理するんだ」
「わかりました」
拳を握りしめ、やる気満々の維将。
それを見やって、博雅は家人に号令をかける。
「始めるぞ」
その号令とともに家人たちは蔵へと入った。
次々と庭に運び出される品の数々。
器の入った木箱や巻物・書物の類。
維将の家人たちに混じってよく働いた。
時間が経つのも早かった。
庭にすべてを出し終わって、空を見上げれば既に午頃だった。
三人とももう戻っているだろうか。
そんなことを考えながら、家人の一人が出てくるのを見ていると。
「ご苦労さん」
ねぎらいの言葉がかけられた。
振り返ればそこには博雅がいた。
「さっき、良源殿から文が届いた。もう少ししたら迎えにくるそうだ」
「わかりました」
「もう晩秋だってのに、今日は気温が高いな」
やれやれ、と空を仰ぎ見た博雅が呟く。
朝は肌寒かったが、太陽が高くなるのと並行して暑さも増していった。
「いいものを見せてやる。来い」
そう言って連れて行ったのは、蔵の二階だった。
梯子を使って昇り、窓を押し開ければ明りが差し込んだ。
「うわあ…」
そこは書物と巻物の山だった。
「代々の当主が蒐集(しゅうしゅう)したものだ。あまりにも多いもんで、滅多に蔵から出さない」
「凄いですね」
手当たり次第手にしてはぱらぱらとめくってみる維将。
「お前が読みたいものがあれば、貸してやってもいいぞ」
「え、いいんですか?」
ぱあ、と笑みがこぼれる。
「読めるものがあればいいんだが………」
とその辺りの書物を探し始める博雅は、しばらくして一冊の書物を選んだ。
「これならお前も読めるだろう」
「ありがとうございます」
礼を述べ、受け取った。
「難しかったら忠行殿か良源殿に聞けばいい」
「はい」
その時、外で二人を呼ぶ声がした。
窓から顔をのぞかせると、呼んでいたのは雑色だった。
「もう迎えがきたのか」
「そうみたいです」
残念だ、とばかりに維将が溜息をつく。
「それを返しにまたここに来ればいい」
「そうですね」
話しながら蔵を出た維将は、良源の姿を見つけて駆け寄った。




