二
二
北国における最も寒い日々、それが二月だと言われている。いや、実際そうなのかもしれないが、寒さを当然のこととして受け止めている北国の人々は暖房器具の準備も万全で、外は氷点下の寒さであっても屋内は初夏の陽気。
むしろ暖房器具がしまわれ、ときおり寒冷前線がやって来る三月末から四月、酷い時には五月のゴールデンウィークの方が寒さを痛感させられ、この地では一年の半分が雪に埋もれているというのも、決して空想の話ではないのである。
そして今――卒業式まで残り二日と迫った木曜日の放課後。
窓の外は猛吹雪。
ほんの数センチ先さえ白一色で、外の様子を知ることなどまるで不可能な状態になってしまっている。
そんなだから、時間が経てば少しは帰るのも楽になるのではないだろうかと考えていた恒介は、窓側の一番後ろの席に座って、この天候に悪態をついていた。
窓枠の下にはヒーターがついていて、壁を背もたれにすると他の同級生には与えられない温もりがいつでも感じられる。
残念ながら先日の席替えで中央後ろの席になってしまった恒介は、授業中にこの温もりを得ることは出来なかったが、ほとんどの生徒が帰宅してしまい、教室に彼一人となってしまえば、どこに座ろうが彼の自由。
というわけで窓側の席にドンと居座ってこの天候に悪態をついていたのだ。
「朝っぱらから一時間も掛けて雪掻きやらされたんだぜ!? なのにまたこの雪じゃ帰ってから同じことの繰り返しじゃねーか!!」
拳で机を叩きつける恒介は、痺れるような痛みにわずかに顔をしかめつつ、険しい表情で後ろの席を振り返った。
彼だって自分ひとりしかいない教室で、これだけの雑言を並べるほど精神的に切羽詰っているわけではない。
他の誰かにとっては恒介一人しかいないこの教室も、彼にとっては“彼女”と遠慮なく話せる貴重な場所。
一番後ろに座っている彼の後ろには、もう一つ、本当の窓際一番後ろの席が存在する。
彼女…、そう、何年もの間、ずっとこの教室に縛られている小泉咲子の席が。
《でも恒介君、三人のお兄さんお姉さんのこと、すごく好きなんでしょ?》
「はぁ!?」
《だって…、私に今まで話してくれた色んな話の七割は家族のことだもの》
「………」
言われてみれば、話す内容といったら家族のことだったかもしれないと気付く。
学校のことや中学の思い出、この教室の中にいるメンバーで特別親しい連中の話しをすることも、もちろん多かったが、聞き手の咲子が言うとおり、家族の話をする方が力が入るし、話していて楽しいかもしれない。
《お医者様を目指している優しいお兄さんと、楽しい二人目のお兄さんに、綺麗なお姉さん…、聞いているだけでも恒介君の家がすごく楽しいって伝わってくるよ?》
「そ…、そっかな……」
鼻の頭を描いて聞き返す恒介に、咲子は透き通る表情をそっと和ませた。
その表情が最初の印象でもある哀しいもの、辛そうなものと一変していることが恒介を驚かせる半面、尚更、彼の心を惹きつけた。
話しかけ、驚いた顔で自分が見えるのかと聞き返されたときには面食らったが、彼女の話を聞いているうちに、気が付くならもう少し早くに気が付いてやりたかったと思った。
それが出来ていれば、彼女のこんな朗らかな表情をもっと前に知れたのだ。
彼女に一人ぼっちの悲しみを余計に味合わせてしまうこともなかっただろう。
透き通る長い黒髪、細く長い、白い手足。
着ているのは見慣れている虹ヶ丘高校の制服のはずなのに、彼女のセーラーだけは他の同級生と品が違って見える。
死人の衣服だからと言われればそれまでだが、彼女を見て心が惹き付けられるのは、何も彼女が幽霊だからという理由の上にのみあるとは思えなかった。
彼女が幽霊だと知ったそのとき、怖いだとかヤバイだとか思う前に歓喜した。
そして彼女の話に心から涙を流したのだ。
…それからというもの、彼らは人のいなくなった放課後、二人だけの時間を持つようになった。
そして彼女がいつままでもここに居続ける理由を探り、どうにかしてやろうとしているのだ。
「それで、さ」
彼女の笑顔にドギマギしつつ、恒介は話題転換のためにそんな前置きをした。
「咲子、自分が卒業するはずだった頃のクラスメートとか、学校行事とか、そんなの思い出した?」
《………》
「どんな小さなことでもいいんだ。図書室の卒業アルバムから探すにしてもさ、この学校って四三年の歴史持ちじゃん? それこそ何万て卒業生がいるわけだし…、俺一人で咲子を見つけるのは難しいんだよなぁ…、特にあれって持ち出し禁止の本だし、図書室って入っただけで眠たくなるし……」
《恒介君、本とか読まない方?》
「一番上の兄貴は、それこそ難しい本を見ると目が輝き出すけどさぁ…俺が読む本つったら漫画ぐらいかな」
《そっか…、恒介君て優しいから、てっきり本が好きかと思ったけど…、でも、うん。恒介君には図書室よりグランドの方が似合ってるね。この間もそこでお友達とサッカーしている時、かっこよかったもの》
窓の下に広がる中庭を指差しながら言われ、少年の幼い顔に火がついた。
「〜〜っ、今は俺より咲子のことだ! 俺をからかってないで自分のことを考えろ! 成仏したいんだろ!」
照れ隠しのために声を荒げて言い返せば、少女は小さく笑いながら《ゴメンネ》と謝る。
「っ…、俺は咲子と会ってから幽霊に関係する本とか読みまくったんだ、俺に任せておけば絶対に大丈夫、咲子がここに居る理由は解ってるんだから、それが“いつ”のことなのかさえ判れば成仏できる!」
少年は、今までの友人には決して求められなかった素直な謝辞の言葉が、この相手からはすぐに返ってきてしまう事に戸惑いながら、いっそう力んで長々と語った。
「俺が絶対に! 咲子が“いつ”の卒業生だったか調べてやるから、期待して待ってろよ!」
いつの間にか席を立ち、透き通った彼女と向き合う形で断言した恒介に、咲子は驚いて目を丸くしつつ、真剣な表情の少年にポツリと呟く。
《……図書室に入るだけで眠くなるのに、そんなたくさん幽霊とか成仏とか、本で調べてくれたの?》
「―――」
咲子の悪気のない素直な疑問は、恒介に言葉を詰まらせ、決まりの悪い表情を浮かべさせた。
どう答えればいいのか、異性と真剣に向き合った経験のない恒介はいまいち判らない。
「……」
《……?》
人のいない教室は静かで、肌寒くて、恒介が黙ってしまえば無人と同じ。
――外は猛吹雪。
黒板の上に掛けられた時計の秒針だけが教室に響き、さてそろそろ何かを言わなければまずいだろうと思った矢先。
恒介を救うべく思っても見なかった声が届いた。
「おーい、恒介?」
不意に教室の前扉が開けられ、同じ学生服姿の二人の少年が顔を見せる。
恒介の同級生でバスケット部員。
「とっくに帰ったと思ってたのに、下駄箱に靴があったからさ」
「残ってる用事がないんだったら一緒に帰ってさ、途中で“レジェンド”のNEWシングル買ってかないか?」
「ぇっと…」
同級生の中でも特に親しい二人は、今さっき部活が終わり、下校しようとして、恒介がまだ学校に残っている事に気がついたのだろう。
だからこうして、教室にいる彼を呼んでいる。
そんな彼らの誘いは断れないと思う。
時刻はいつのまにか五時過ぎ。
一般生徒の下校時間はとっくに過ぎてしまっていた。
「あ、ああ。いま帰ろうと思ってた…」
言いながら立ち上がった彼は、ふと横に目を向ける。
扉側の彼らには決して見えない、本当の窓際一番後ろの席。
何年も前にそこに座り、卒業を心待ちにしていた少女。
《また明日ね、恒介君》
彼女は静かな微笑を浮かべて彼の下校を促す。
今ここで恒介が校内からいなくなり、この教室が本当の無人になっても、彼女はここに居続けるのに…、独りになっても彼女はここにいるしかないのに、恒介には恒介の生活があるのだと、彼を彼の家族が待つ場所に帰させる。
「……うん、また明日な」
教室の外で自分を待つ二人には聞こえない声量で答えた恒介は、彼女を一人にしてしまうと判っていても、そう答えるしかなかった。
いつまでもここにいるわけにはいかないし、むしろ彼女と別れ、彼女が成仏できる方法を探す方が重要だ。
…そうして二人は離れていく。
生活の中に在る少年と、教室という場所で時を止めた少女。
恒介が出来ることは、彼女を解き放つために彼女の卒業が“いつ”だったかを調べることなのだから。