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捨てられた日が、私の人生の始まりでした  作者: 小林翼


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朝日が書斎の窓から差し込む頃、エリアナはようやくペンを置いた。机の上には、びっしりと文字が書き込まれた羊皮紙が何枚も重なっている。辺境領の開拓計画、必要な物資、予想される問題点、そして解決策。一晩かけて、彼女は全てを書き出した。


扉がノックされ、侍女のマリアが心配そうに顔を覗かせた。


「お嬢様、一睡もされていないのですか」

「ええ。でも、大丈夫よ。むしろ、頭が冴えているわ」


エリアナは立ち上がり、窓の外を見た。屋敷の庭には朝露が輝き、新しい一日が始まろうとしている。昨夜の屈辱は、もう過去のものだ。今は前だけを見なければならない。


「マリア、父を呼んでくれる? 話したいことがあるの」

「かしこまりました」


マリアが部屋を出て行くと、エリアナは鏡の前に立った。目の下には隈ができているが、瞳には強い光が宿っている。彼女は自分に向かって小さく頷いた。


三十分後、父アルベルトが書斎にやってきた。彼は娘の顔を見て、満足そうに微笑んだ。


「眠らなかったようだな」

「ええ。でも、計画を立てました。辺境領の開拓について」


エリアナは羊皮紙の束を父に手渡した。アルベルトはそれをゆっくりと読み進め、時折感心したように唸る。


「素晴らしい。この年齢でここまで考えられるとは。やはりお前は私の娘だ」

「お父様、私も一緒に行きます。辺境領に」


アルベルトは驚いて顔を上げた。


「エリアナ、お前が直接行く必要はない。執事や家令を送れば――」

「いいえ、私が行きます」


エリアナの声には、強い決意が込められていた。


「これは私の戦いです。私が直接、あの土地を豊かにしてみせます。そして、リオネル様や社交界の人たちに、私がどれほどの価値を持つ人間か証明するんです」


アルベルトは娘の目をじっと見つめた。そこには、もう昨夜泣いていた少女の面影はなかった。一人の商人として、一人の領主として立とうとする女性がいた。


「わかった。だが、一人では行かせない。護衛をつけるし、優秀な補佐官も同行させる」

「ありがとうございます、お父様」


エリアナは深々と頭を下げた。アルベルトは娘の頭に手を置き、優しく言った。


「エリアナ。辺境は王都とは違う。厳しい環境だし、危険もある。覚悟はできているか?」

「はい。むしろ、そういう場所の方が私には合っているかもしれません」


その言葉に、アルベルトは豪快に笑った。


「そうか。では、一週間後に出発だ。それまでに必要な準備を整えておけ」

「はい!」


父が部屋を出て行った後、エリアナは再び窓の外を見た。王都の街並みが、朝日に照らされて輝いている。この景色も、もうすぐ見納めになる。


不思議と、寂しさは感じなかった。むしろ、胸の奥から湧き上がってくる高揚感があった。新しい場所で、新しい人生を始める。それは、恐怖ではなく希望だった。


その日の午後、エリアナは市場に出かけた。辺境で必要になるであろう物資を確認するためだ。護衛のセバスチャンが後ろをついてくる。


市場は活気に満ちていた。商人たちが声を張り上げ、客たちが品物を吟味している。エリアナは一軒一軒の店を丁寧に見て回り、商品の質と価格を記録していく。


「お嬢様、何をお探しですか?」


布地を扱う商人が声をかけてきた。エリアナは微笑んで答えた。


「良質な羊毛と、それを織る道具を探しているの。できれば、職人も紹介してほしいわ」

「羊毛ですか。それでしたら、北部の羊毛が最高級ですが、辺境の羊毛も悪くありませんよ」

「辺境の羊毛?」


エリアナの目が輝いた。商人は嬉しそうに説明を続ける。


「ええ。辺境の羊は寒さに強く育つので、毛が密で温かいんです。ただ、加工する技術がないので、安値で取引されているんですがね」

「なるほど……」


エリアナの頭の中で、何かが繋がった。辺境には資源がある。ただ、それを活かす方法を知らないだけだ。ならば、自分がその方法を教えればいい。


「ありがとう。とても参考になったわ」


エリアナは商人に礼を言い、次の店へと向かった。彼女の脳内では、すでに新しい計画が組み立てられ始めていた。


市場から戻る途中、エリアナは偶然、リオネルとセシリアが馬車に乗っているのを見かけた。二人は親密そうに笑い合い、幸せそうに見えた。


一瞬、胸が痛んだ。だが、その痛みはすぐに消えた。エリアナは馬車から目を逸らし、前を向いて歩き続けた。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


セバスチャンが心配そうに尋ねたが、エリアナは首を横に振った。


「ええ、大丈夫よ。もう、あの人のことは関係ないもの」


そう言いながら、エリアナは自分の心に言い聞かせていた。前を向くのだ、と。過去に囚われている暇はない、と。


屋敷に戻ると、父から護衛の騎士が紹介された。


「エリアナ、紹介しよう。カイル・アッシュフォードだ。辺境領の騎士団長を務めている」


エリアナが顔を上げると、そこには三十代前半と思われる男が立っていた。黒い髪に灰色の瞳、引き締まった体躯。無骨だが、どこか誠実そうな雰囲気を纏っている。


「初めまして、エリアナ様。カイル・アッシュフォードと申します」


カイルは膝をついて礼をした。その所作は丁寧で、騎士としての教育をきちんと受けていることが窺えた。


「初めまして、カイル様。これから、よろしくお願いします」


エリアナが手を差し出すと、カイルは一瞬驚いたような顔をした。だが、すぐに微笑んで、彼女の手を軽く握った。


「こちらこそ。必ずお守りいたします」


その言葉には、嘘偽りのない真摯さがあった。エリアナは、この騎士なら信頼できると直感した。


「カイル様、辺境領はどのような場所なのですか?」

「正直に申し上げます。荒れた土地です。人々は貧しく、希望を失いかけています」


カイルは目を伏せた。


「私も、領民たちを豊かにしたいと思っていましたが、力が足りませんでした。ですが、エリアナ様がいらっしゃるなら、きっと変えられると信じています」

「ありがとう。私も、必ずあの土地を豊かにしてみせます」


エリアナの目には、強い決意の光が宿っていた。カイルはその目を見て、小さく頷いた。


一週間という準備期間は、あっという間に過ぎた。荷馬車には、辺境での生活に必要な物資が積み込まれている。織機、種子、工具、医薬品。そして、エリアナが選んだ優秀な職人たちも同行することになった。


出発の朝、エリアナは屋敷の前に立ち、王都を見渡した。


「お嬢様、本当に行かれるのですね」


マリアが涙声で言った。エリアナは侍女の手を握った。


「ええ。でも、心配しないで。必ず成功して戻ってくるから」

「お嬢様……どうか、ご無事で」


父アルベルトが歩み寄ってきた。


「エリアナ、手紙を書け。何かあれば、すぐに援軍を送る」

「はい、お父様。ありがとうございます」


エリアナは馬車に乗り込んだ。カイルが馬に跨り、護衛の兵士たちが隊列を整える。


「では、出発しましょう」


エリアナの声に応じて、馬車が動き出した。屋敷が、そして王都が、ゆっくりと遠ざかっていく。


エリアナは窓から外を見つめながら、静かに誓った。必ず成功してみせる。そして、自分を捨てた者たちに、後悔させてやる、と。


馬車は辺境へと向かって進んでいった。

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