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捨てられた日が、私の人生の始まりでした  作者: 小林翼


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夜会の華やかな光の中で、エリアナ・ローゼンベルクは一人、壁際に立っていた。シャンデリアの煌めきが、彼女の栗色の髪に金色の光を落とす。だが、その美しさに目を向ける者は誰もいなかった。


商人伯爵家の令嬢である彼女は、この社交界において常に微妙な立場にあった。父アルベルトが商才で財を成し、王から伯爵位を授けられてまだ十年。古い貴族たちからすれば、エリアナは「成り上がり」の娘に過ぎない。


それでも、エリアナには誇りがあった。公爵家の長男リオネル・フォン・エルデンベルクとの婚約である。五年前、まだ彼女が十五歳の時に交わされた約束。リオネルの金色の髪と碧眼は社交界の憧れの的で、その彼に選ばれたことは、エリアナにとって誇りであり、希望だった。


だが、最近のリオネルは冷たかった。


夜会に誘われても、彼は友人たちと談笑するばかりで、エリアナのもとには来ない。ダンスを申し込んでも、適当な理由をつけて断られる。それでもエリアナは、彼が多忙なのだと自分に言い聞かせていた。


「あら、エリアナ様。今宵もお一人なのね」


冷たい声が聞こえ、エリアナは振り返った。そこには侯爵令嬢のセシリア・ブランシェットが立っていた。完璧に整えられた金髪、真珠のように白い肌、そして貴族特有の高慢な微笑み。


「セシリア様」


エリアナは微笑みを浮かべて応じた。だが、セシリアの目には明らかな嘲笑の色があった。


「リオネル様は相変わらずお忙しそうで。でも、婚約者を一人にしておくなんて、少し配慮が足りないのではなくて?」

「彼には彼の付き合いがありますから」


エリアナは平静を装ったが、胸の奥で何かが疼いた。セシリアの言葉には、何か含みがあるように思えた。


「そう。では、頑張ってくださいね。商人の娘が公爵家の奥方になるのは、さぞ大変でしょうから」


セシリアは意味深な笑みを残して去っていった。エリアナは唇を噛んだ。商人の娘。その言葉が、いつも彼女の心に棘のように刺さる。


その時、ざわめきが広間を走った。


エリアナが視線を上げると、リオネルが広間の中央に立っていた。そして、その隣には――セシリアがいた。二人は親密そうに並び、リオネルが手を上げて人々の注目を集める。


「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。私から大切な発表がございます」


エリアナの心臓が凍りついた。嫌な予感が、全身を駆け巡る。


「私リオネル・フォン・エルデンベルクは、エリアナ・ローゼンベルクとの婚約を、本日をもって解消いたします」


広間が一瞬静まり返り、次の瞬間、どよめきが爆発した。エリアナの耳には、しかしその声も遠くに聞こえた。頭が真っ白になり、足が震える。


「そして、新たにセシリア・ブランシェット嬢との婚約を発表いたします」


リオネルはセシリアの手を取り、恭しく口づけた。セシリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、エリアナを一瞥する。


周囲から好奇と憐れみの視線が刺さる。誰かがひそひそと囁く声が聞こえた。


「やはり商人の娘では無理だったのよ」

「公爵家には格が合わなかったのね」

「セシリア様の方がお似合いだわ」


エリアナは必死に涙をこらえた。ここで泣いては、彼らの思う壺だ。彼女は背筋を伸ばし、できる限りの尊厳を保って広間を横切った。


リオネルの前に立つと、彼は初めてエリアナを見た。その目には、罪悪感も後悔もなく、ただ冷たい決意だけがあった。


「リオネル様。これが、あなたの望みなのですね」


エリアナの声は震えていなかった。リオネルは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに無表情に戻る。


「ああ。君は良い人だが、公爵家の妻には相応しくない。商人の血が流れている君では、我が家の名に傷がつく」

「そうですか」


エリアナは深く息を吸った。涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。


「では、婚約解消を受け入れます。どうぞお幸せに」


彼女は優雅に一礼し、踵を返した。背中に刺さる無数の視線を感じながら、エリアナは広間を後にする。廊下に出ると、ようやく足が震え始めた。


壁に手をついて息を整えていると、執事のセバスチャンが駆けつけてきた。


「エリアナお嬢様」

「セバスチャン、馬車を」


エリアナの声は掠れていた。セバスチャンは何も言わず、深く頭を下げて去っていった。


一人になると、エリアナは膝から崩れ落ちそうになった。だが、彼女は壁に背を預けて立ち続けた。ここで倒れるわけにはいかない。泣くわけにもいかない。


屋敷に戻る馬車の中で、エリアナは窓の外を眺めていた。星のない夜空が、彼女の心を映しているようだった。


「お嬢様」


セバスチャンが心配そうに声をかけたが、エリアナは首を横に振った。


「大丈夫です。私は、大丈夫ですから」


だが、その言葉とは裏腹に、一粒の涙が頬を伝った。エリアナはそれを乱暴に拭い、唇を噛んだ。


屋敷に着くと、父アルベルトが玄関で待っていた。五十代の彼は、商人として数々の修羅場をくぐり抜けてきた男だ。だが今、その顔には怒りと悲しみが混じっていた。


「エリアナ」


父の声を聞いた途端、エリアナの中で何かが決壊した。彼女は父の胸に飛び込み、初めて声を上げて泣いた。


「お父様……私は……私は……」

「わかっている。全て聞いた」


父は娘の頭を優しく撫でた。そして、静かに、しかし力強く言った。


「エリアナ。お前は何も悪くない。価値がわからぬ愚か者に、お前の素晴らしさは理解できなかっただけだ」

「でも……商人の娘だから……」

「商人の娘であることを、恥じる必要などない」


父は娘の肩を掴み、まっすぐに目を見た。


「エリアナ。お前には素晴らしい才能がある。お前の商才は、私以上かもしれない。その才能を、こんなところで腐らせてはいけない」

「お父様……」

「実は、新しい領地を王から賜ることになった。辺境の開拓地だ。荒れた土地だが、可能性に満ちている」


父の目に、商人特有の鋭い光が宿る。


「そこで、お前の本当の力を見せてやれ。お前を見下した連中に、商人の娘の真価を思い知らせてやるのだ」


エリアナは涙を拭った。胸の奥の冷たい塊が、少しずつ熱を帯び始める。それは怒りであり、決意であり、そして希望だった。


「はい。私、やってみせます」


その夜、エリアナは一睡もせずに、辺境開拓の計画を練り始めた。リオネルの顔が脳裏をよぎるたび、彼女はペンを握る手に力を込めた。


見ていなさい。私が、どれほどの女なのか。あなたたちに、必ず思い知らせてみせる。


窓の外では、夜が明け始めていた。

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