髪を直した朝、誘拐の夕暮れに
朝の稽古をしないまま、瑠璃音は黙って朝食に向かった。
普段なら若い衆と一緒に鍛錬を済ませ、腹を空かせて何度もおかわりをするはずが、この日は箸が途中で止まったまま。
「……お嬢?」
若い衆の一人が恐る恐る声をかけたが、瑠璃音は答えず、膳をほとんど残したまま席を立った。
居並ぶ若い衆の間に、ざわつきが走る。
修吾も異変を感じ取ったが、結局は声をかけることができなかった。
無言のまま、彼女の背を追い、玄関へ向かう。
――
登校のための黒塗りの車が屋敷を出た。
車内もまた、重たい沈黙だけが流れていた。
「行ってらっしゃいませ、お嬢」
校門前で車を停め、修吾がドアを開ける。
瑠璃音は静かに降り立ち、風に揺れる黒髪のハーフアップが乱れる。
修吾が当たり前のようにその髪を直すと、周囲の学生がざわめき、女子たちが小さく悲鳴を上げた。
だが修吾は平然とリボンを結び直し、淡々と背を正す。
瑠璃音は一礼して校門をくぐり、友人たちの中に消えていった。
――
修吾は車へ戻るとスマホを取り出し、若い衆へ連絡を入れた。
「……お嬢のことだ。放課後はお前が迎えろ。学園を出てから家に戻るまで、絶対に一人にするな」
『承知しました』という返事を受け、短く息を吐く。
そのままスマホを伏せ、ハンドルを握り直すと、車は静かに校門を離れた。
――
午後、修吾は街へ出て調査に動いた。
古い新聞記事を漁り、さらに古参の関係者へ聞き込みを行う。
十年前の抗争――周防組が襲撃を受けた事件。
茜の夫、優一が命を落としたこと。
さらに「少女も巻き込まれた」という証言。
だがその後については、どの記録にも記されていなかった。
まるで存在ごと闇に葬られたように。
「……これ以上は、茜様に直接聞くしかない」
修吾はそう決意し、屋敷へ戻った。
――
畳の間。
着物姿の茜は静かに本を閉じ、修吾を迎えた。
「修吾さん。どうかなさいましたか」
「十年前の抗争についてです」
修吾は古新聞を差し出し、さらに銀座で隠し撮りした遠藤の写真を見せる。
「茜様の旦那様、優一さんが亡くなったあの時。少女も巻き込まれたとあります。
けれど、その後は何も……。
さらに、この男。遠藤。銀座で確認しました。十年前にも関わっていたはずです。
一体、何があったのか――」
茜は口を開こうとした。
その瞬間、襖が荒々しく開かれた。
若い衆が駆け込み、顔は蒼白に染まり、息を切らしている。
「お嬢を迎えた車が……事故に遭いました!」
修吾の全身が凍りついた。




