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お嬢様は脳筋でして!  作者: 阪井秋


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4/8

髪を直した朝、誘拐の夕暮れ

周防家の車が学園の正門前に静かに停まった。

黒塗りの塗装に朝の光が薄く映り、ボンネットに並木の影が揺れる。


後部座席のドアを開けた修吾が、癖のない所作で手を差し出した。

護衛という顔の奥に、いつもの不器用な気遣いがのぞく。


「お嬢、足元気ぃつけて」


「ありがとうございます」


革靴がアスファルトを軽く叩く音。

瑠璃音は軽やかに降り立ち、制服の裾を指先で整える。

初夏の風が通り、石鹸と椿油の微かな香りをふわりと運んだ。

結い上げていた黒髪が、ほんの少し乱れて額に落ちる。


「……まったく」


修吾は眉を寄せ、指の腹で前髪をそっとすくい上げた。

触れた瞬間だけ距離が近づき、ミラーみたいに澄んだ瞳が一瞬だけ彼を映す。


正門脇にたむろしていた女子学生たちが、小さく爆ぜるみたいにざわつく。

「見た!?」

「今、髪直した!」

「近すぎでしょ!」

「恋人同士にしか見えないんだけど……!」


男子学生は肩をすくめ、ため息混じりに呟く。

「令嬢にイケメンSPって……」

「金持ちすげぇな」


喧噪を背に、瑠璃音は騒ぎを意に介さない顔で小さく会釈した。

背筋は真っ直ぐ、声は柔らかい。


「それでは行ってまいります」


「気ぃつけてな、お嬢」


修吾は一歩下がり、門の陰に身を引いて軽く頭を下げる。

朝日を受けた黒髪がさらりと揺れ、さらに「キャー!」という高い声が追いかけてくる。

瑠璃音は凛とした足取りで校門をくぐり、制服のリボンが階段の風にひらりと踊った。


背中が見えなくなると、修吾は長く息を吐き、胸ポケットのスマホを取り出す。

通話アイコンを指で弾いた。


「……オレや。今日の放課後、お嬢の迎え、頼む」


『承知しました』


短い返答。

頼れる声に、修吾は「絶対目ぇ離すなよ」ともう一度念を押して通話を切った。


指先が別のアルバムを開く。

薄暗いクラブの照明越しに撮った、遠藤の横顔。

整えられた髪にシンプルなネクタイ。

表面だけは清潔で上品な実業家風。だが笑みの奥で、何かが沈んでいる。


「……遠藤貴治。あんた、何者や」


検索窓に名前を打ち込む。

画面の下でスクロールが止まり、十年前の新聞の縮刷画像が現れた。

見出しは鮮烈で、白黒の写真がやけに冷たい光を放っている――周防家襲撃事件。

茜の夫が命を落とした、あの夜。


夕暮れ。

校門前は茜色に染まり、ブレーキランプの赤が道路に長く引きずられている。

瑠璃音は鞄を胸に抱え、車列を探した。


いつもなら、修吾が車体の影から無言で現れる。

今日は――別の若い衆が、運転席の窓を下げて頭を下げた。


「お嬢、本日は自分が送らせていただきます」


「修吾さんは?」


「調べ物がありまして……」


一拍だけ、眉根が寄る。

すぐに微笑みが戻り、頷いた。


「わかりました。お願いします」


車は都心の通りを滑っていく。

商店のシャッターが降り始め、提灯の灯りがぽつぽつと灯る。

信号待ちで、フロントガラスに夕焼けが広がった。


瑠璃音は無意識に指先を組み、呼吸を整える。

胸の奥に、小さな棘のような予感が刺さったままだ。


背後で、硬い音。

衝撃が座席を通して骨まで響く。


「くそっ、ぶつけてきやがった!」


若い衆がハンドルを握り、ボンネットの向こうに黒い影を捉える。

バックミラーには、もう一台。

斜め後方にも、同じ色が寄ってくる。


アクセルとブレーキの間で足が踊り、タイヤが路面を噛んで悲鳴を上げた。


「お嬢、伏せてください!」


言葉の終わりを待たず、横から強く押される。

側面衝突。

車体が浮き、視界が斜めになる。


ガードレールに擦れる金属音。

フロントのガラスが蜘蛛の巣みたいにひび割れ、世界が細かい硝子片に砕け散った。


「きゃっ……!」


シートベルトが胸を食い、息が止まる。

耳鳴りの向こうで、クラクションが遠く聞こえた。


白い煙が立ちこめ、焦げたゴムの臭いが鼻を刺す。

外からドアをこじ開ける鋭い音。

覆面の男の手が、無造作に腕を掴んだ。


「離してっ……!」


声は布でふさがれ、手首は素早く結束される。

地面に投げ出された空気が冷たく、アスファルトのざらざらが膝頭に触れた。


若い衆の「お嬢!」という叫びは、すぐ鈍い打撃音にかき消される。

視界の端で赤が滲んだ。


ワゴンの暗がりに押し込まれる。

スライドドアが重く閉まり、外の世界が線一本に狭まって消えた。


その頃、周防家の母屋では障子の向こうに夕暮れの明かりが柔らかく広がっていた。

茜の部屋の畳は青く、文机の上には湯気の立つ湯呑と栞の挟まった文庫本。


茜は薄藍の小紋の着物に、白の半襟。帯は灰桜色で、締め方に隙がない。

背筋はまっすぐで、うなじの線まで静謐だった。


「姐さん……お嬢、夜な夜な出歩いとるんです」


襖の前で一礼し、修吾が低く切り出す。

茜は本から視線を上げず、湯飲みの縁に指を添えた。


「年頃ですからね。大人の真似事をしたいのでしょう。私も、そんな頃がありました」


灯りに照らされた横顔は穏やかで、しかし瞳の奥は湖面のように深い。


「せやけど……」


修吾は言葉を切り、スマホを差し出す。

画面に、遠藤の写真が小さく光った。


「こいつです。遠藤貴治。十年前、周防家襲撃事件に名前がありました。姐さんの旦那さんが亡くなった、あの事件です」


茜のまつげが影を落とし、瞳孔がわずかに絞られる。


「……」


畳の上で裾が微かに擦れた音がした。


「やっぱり、こいつが関わっとったんやな? 一体、何が――」


襖が荒く開く乾いた音。障子が揺れ、紙の鈴のような音が遅れて鳴る。


「姐さんッ! 大変です! お嬢の車が……事故に!」


駆け込んだ若い衆の額には汗。

空気が一気に熱を帯び、修吾は跳ねるように立ち上がる。


「なんやと! 場所はどこや!」


「連絡が途絶えてます!」


「くそっ……!」


拳を握る手が白くなる。畳に落ちた影まで震えて見えた。


茜は文庫本を静かに伏せ、湯呑に蓋を置く。

襟元に指を添えて整え、ゆっくりと腰を上げた。

動作は一分の隙もなく、けれど白い指先にだけ微かな震えが走る。


「……わかりました」


落ち着いた声が座敷の温度を一度下げる。

修吾が思わず詰め寄りかけ、そこで踏みとどまった。


玄関の方から別の足音。

息を切らせた若い衆が、封の切られた小箱を差し出す。


「ポストに投函物が!」


「今それどころやない!」

修吾が怒鳴る。


「ちょ、ちょっと見てください!」


箱の中には見覚えのあるスマホ。

瑠璃音のものだ。

指紋認証は解除され、画面には動画のサムネイルが無造作に浮かんでいる。


再生。

暗い倉庫。むき出しの鉄骨と、寒々しい蛍光灯。

椅子に縛られた瑠璃音の頬は少し煤け、唇は噛みしめられて白い。


『……返して欲しかったら現当主・周防茜が来い』


覆面の男の声は低く加工され、金属の箱を叩くように平たい。


『二度も子供を失いたいか?』


茜の肩がわずかに揺れた。

表情は崩れない。

着物の袖の内側で、指がそっと握られる。

帯にかかる手が、一瞬だけ力を込めた。


廊下の向こうから杖の音が規則正しく近づく。

コツン、コツン――音が畳に響いて止まった。


「……騒がしいな」


襖が開き、周防源一郎が姿を見せる。

白髪はきっちり撫でつけられ、薄鼠の縞の着物に黒の羽織。

帯の位置は高く、老いてなお締まりのある体躯が衣の下に見える。

目だけは若い頃のまま鋭く、光を弾いた。


「お父様……」


茜が一歩進み、袂を揃えて頭を下げる。

修吾は直立し、深く礼を取った。


源一郎の視線が、座敷の全員を一瞥で制す。

床の間の掛け軸さえ、息を潜めたように見えた。


「現当主のおまえが行くのは最適解とは言えん」


声は低く乾いて、容赦がない。


「ですが、あの子は――」


「黙れ」


杖の石突きが畳を叩き、空気が跳ねる。


「おまえに何かあれば組は終わる。たかが小娘一人のために、全てを危険にさらす気か」


「ふざけんなや!」


修吾の声が座敷の端まで走った。

拳は震え、目の奥が赤く火を含む。


「お嬢は代わりなんか利かん!」


源一郎の目が、氷のように修吾を射抜く。


「身寄りのないおまえを拾ったのは誰だ。……主人が誰か、きちんと理解しておけ」


言葉は刃物の背で打つように冷たい。

修吾は唇を噛み、血の味を奥歯に押し込んだ。


茜が一歩、畳を滑るように進み出る。

小紋の裾がさらりと鳴り、帯締めがきゅっと鳴った。

瞳はまっすぐ父を捉え、やわらかな声の芯だけを鋼に変える。


「……相手が遠藤であってもですか?

これは私個人の感情ではありません。周防家と、関東と関西の組の関係に関わるのです」


静かな着物の気配と、座敷の緊張だけが残る。

源一郎の羽織がわずかに揺れ、杖の先が畳に沈む。


二人の視線がぶつかり合い、風鈴のない夏の縁側みたいな沈黙がしばらく続いた。


誰も口を開けない時間の中で、香炉の白い煙だけが細く立ち上り、天井近くでほどけて消えた。


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